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旧制弘前高等学校外国人教師館。
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大正14年建築、平成16年移築。木造二階一部平屋建、鉄板葺、建築面積73㎡。
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国登録有形文化財、弘前市趣のある建物、弘前市景観重要建造物。
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小公園(テラス)。
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太宰治文学碑もあります。
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彫刻『<羽のように、蕾のように>″Like a Wing , Like a Bud〟』。
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2008年4月設置。当時弘前大学教育学部美術教育教授であった岡田敬司先生(弘前大学名誉教授)の定年退官の記念作品として造られたものです。彫刻の隣には「羽のように、蕾のように」の命名由来が刻まれています。日光に暖められた土壌から無数に顔を出してくる植物の芽生えという “若人”を連想。《羽のように、蕾のように》。 蕾はこれから伸びてゆく若い人たち=未来社会を象徴し、羽は世界中どこへでも飛んで行って活躍できる才能の国際化。
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大正14年に旧制弘前高等学校外国人教師館として弘前市富田に建築され、平成16年4月に現在の弘前大学敷地内に移築復元されました。
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屋根は矩折れの半切妻造で、正面玄関上には切妻壁が見られます。1階一階は鎧下見板張に両開窓、2階はモルタル塗に上げ下げ窓を使用し、食堂、居間には暖炉が設けられ、洋風建築の意匠が数多く使われています。
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建築当初は、敷地内にもう一棟並んで建てられ、二棟の間取りが左右対称につくられていました。
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同じく「趣のある建物」に指定されている弘前銘醸煉瓦倉庫方面から見た旧制弘前高等学校外国人教師館。
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裏側。
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背後から見た感じもいいですね。
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平屋の附属棟が続いています。
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案内板「旧制弘前高等学校外国人教師館」より…『この建物は、明治大正の弘前を代表する棟梁堀江佐吉の下で副棟梁をつとめていた、川元重次郎によって1925年(大正14年)に建てられた旧制弘前高等学校の外国人教師宿舎です。2003年(平成15年)まではここから東に300メートルほど離れた富田三丁目に二棟並んで建っていて、戦前はドイツ語と英語の外国人教師が家族で暮らしていました。戦後何度か改装されましたが、県道拡幅工事に伴い二棟は撤去されることになりました。しかし、旧制弘前高校の歴史を伝える貴重な建造物が失われることを惜しんだ弘前高校同窓生の方々等の努力により、2004年(平成16年)に解体された二棟の保存状態の良い部材を活かしながら創建当時の状態に復元移築され、2005年(平成17年)から公開、さらに文化庁より登録有形文化財の指定を受けています。』
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写真付きです。
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ドイツ語教師アルフレート・ハンフトマン先生(手前左)(昭和17年)。
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移築前の外国人教師館(平成15年)。
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「珈琲の街・弘前」…『「その一杯に、ひろさきの歴史あり」。1807年(文化4年)幕府の命で北方警備のため、弘前藩士が蝦夷地(現・北海道)の宗谷岬周辺に赴きました。しかし、多くの藩士は厳冬下、ビタミン不足のため浮腫病で亡くなりました。実は、藩士が浮腫病で亡くなる4年前の1803年(享保3年)蘭学医の広川解が著した「蘭療法薬解」に、当時不治の病だった浮腫病には、コーヒーに薬効があると書いてあります。もう少し早く知っていたら藩士たちは死なずにすんだかもしれません。1855年(安政2年)に再び藩士たちは蝦夷地の警備に赴き、この時浮腫病の予防薬としてコーヒーの配給がされました。北方警備に派遣された兵士の中には、藩士だけでなく農民や漁師などの庶民も多く含まれていました。長崎出島の蘭学者や特権階級層を除くと、日本で最初にコーヒーを飲んだのは弘前藩士だったともいえます。城下町弘前は、戦災や震災に遭うこともなく藩政時代の雰囲気を残したまま明治、大正の洋館が建ち何世代にも渡る商工業が発達し、津軽地方の要の街として栄えてきました。そんな弘前にコーヒー文化が根付いたのは明治の時代。キリスト教宣教師が街で暮らし始めるとともにコーヒーを持ち込み、もともとハイカラで気品の高い士族や成功した商人達を刺激して広まりました。また、厳しい風土で暮らす人々を支えた強情さと、「えふりこき」という見栄っ張りな気質がさらに普及を促し、今日では日本でも上位にランクされるほどコーヒーの消費が多い街とされています。』
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建物内は弘大カフェ(成田専蔵珈琲店)。大きな桜の木の下にパティオのあるカフェ。2016年6月19日にオープン。
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ってことで旧制弘前高等学校外国人教師館内です。建物の見学だけでも入館OKです(無料)。
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店内には弘前を代表する家具屋EasyLivingの葛西康人さんの作品でもある椅子とテーブルが空間をより心地よくしてくれています。
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コーヒー豆も販売しています。
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駐車場は弘前大学構内(無料・守衛室で許可証を貰って下さい)。
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案内板「旧制弘前高等学校外国人教師館」…『東北の古都弘前はまれに見る建築の町であるということが出来ます。長勝寺の勇壮な山門、誓願寺の瀟洒な山門、大円寺(最勝院)の優美な五重塔、全国的にも珍しい栄螺堂などの仏教建築、昭和を代表する建築家の前川國男による弘前市役所、市民会館、市立博物館や斎場、そして日本人によるモダニズム建築最初の登録文化財となった木村産業研究所などの近代建築が、まさに所狭しと並び立つ町なのです。そうした建築群の中でひときわ異彩を放っているのが、明治期から大正期にかけての洋風建築であるといえます。弘前の洋風建築最大の功労者は、代々の津軽藩城大工の家に弘化2年(1845年)に生まれた堀江佐吉というひとりの棟梁でした。彼は明治12年に函館にわたりここで1年間を過ごします。この時に函館の洋風建築群を学んだことが、後の彼の様式に大きな影響を及ぼしたといわれています。今日も残る佐吉の建築は旧第五十九銀行本店本館(国指定重文、現青森銀行記念館)、旧弘前市立図書館(県指定重宝)、偕行社(国指定重文、現弘前女子厚生学院記念館)をはじめとして弘前の重要な文化資源となっています。そうした佐吉のもとからは、彼の親族をはじめとして何人かの優秀な棟梁が出ました。この外国人教師館の施工にあたった川元重次郎もそうした佐吉門下のひとりです。川元が手がけた建築としては、旧制青森県尋常中学校校舎(現弘前高等学校鏡ヶ丘記念館)や田中忠五郎と共同で請け負った弘前高等学校の校舎が有名ですが、移築からの調査の中で、この外国人教師館も川元の手によって大正13年から14年にかけて建てられたものであることが判明しました。当初は本学に程近い富田3丁目に北側を正面にして二棟並んで建っていましたが、ここに移築されたのはそのうちの向かって左側(東側)の建物です。正面から見ると、なんとなくアンバランスな感じがしますが、これはそもそも二棟を併せ見たときに左右対称になるように設計されていたためです。当初の仕様書を見ると、外装は一階が下見板張り、二階がスタッコ(漆喰)仕上げ、屋根は石綿盤(スレート状のもの)葺および亜鉛鍍金鉄板でした。内部はリノリウムが敷き詰められ、各居室に大理石製の暖炉が設置されていました。また階段下には女中部屋が設けられるなど、当時の世相や「外国人のための」建築として工夫された跡をうかがい知ることが出来ます。移築後に国の登録有形(建造物)文化財(外観)に指定されました。』
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