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青森県弘前市御幸町。正面門柱と煉瓦塀からスタート。
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過去の記事です。見比べてみて下さい。
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玄関前庭園にある石碑と像(野津謙先生・鳴海康仲先生)。
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石碑。
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碑文(鳴海康仲先生)。
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弘前厚生学院(弘前女子厚生学院)創設者鳴海康仲先生像。医師として病院(鳴海病院)経営の他に地域の保健衛生・生活改善活動に尽力した青森県保健医療の先駆者。
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野津謙先生像。社団法人鳴海研究所清明会理事。社団法人弘前女子厚生学院理事。昭和10年以来青森県における保健衛生体育の画期的発展に寄与した功績顕著。医学博士・廣島県出身・東京帝国大学医学部卒業。米国ハーバード大学公衆衛生学部卒業・マサチューセッツ工業大学公衆衛生学部健康教育課程(ターナー教授)終了。東京市中央保健所学校保健衛生部長。大政翼賛会国民生活指導部副部長。大日本産業報国会厚生部長。日本サッカー協会々長。世界サッカー連盟理事。日本スポーツ少年団副本部長。国際学校保健協会副会長。日本良導絡自律神経学会々長。勲三等瑞宝章。ナイト勲章。藍綬褒章。※詳しくはWikipediaでご覧ください。
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案内板「重要文化財旧弘前偕行社」より…『旧弘前偕行社は、日清戦争後に増設された六個師団のひとつである第八師団の開庁に伴い、建設された。建物は、南北に長い敷地のほぼ中央に北面して建つ。明治40年11月の竣工で、建設後は師団将校の交流施設や物販・厚生施設に供されたが、第二次大戦後は、財団法人弘前女子厚生学院の所有となり、近年は同学院の記念館などに活用されている。木造平屋建で、東西に長い主体部は桁行48.8mの規模をもち、左右両端を前後に突出させる。正面は中央部が張出し、玄関ポーチを設ける。大規模な洋風建築で、ルネサンス様式を基調とし、華やかな細部意匠は高く評価される。東北地方に現存する陸軍関係施設の代表的遺構であるだけでなく、陸軍省営繕組織による建築意匠の展開を示すものとしても貴重である。管理者財団法人弘前女子厚生学院』
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案内板「旧弘前偕行社(国指定重要文化財)」より…『陸軍第八師団の将校らの親睦・厚生施設として、弘前藩九代藩主津軽寧親の別邸があった九十九森跡に、明治40年(1907)11月に竣工した建物です。構造は、翼棟付きの木造平屋建てで、小屋組はキングポストトラスを用いています。屋根は寄棟造の桟瓦葺で、正面中央部に載せたマンサード屋根と、第八師団を示す「蜂」の鉄製飾りのあるポーチ付き玄関は、鉄板葺です。』
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案内板「遑止園」(保存緑地指定第1号・平成3年2月19日)より…『ここは、九代藩主寧親公ゆかりの九十九森跡で、明治時代の旧陸軍弘前偕行社の建物をはさんで前庭と後庭にわかれる大石武学流庭園である。園名は、大正天皇が皇太子のときご来園のおり命名された。』
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弘前厚生学院入口向かいにある「旧藤田家住宅(太宰治まなびの家)」。ちなみにかつて隣には「salon de MIMIZUKU / 木菟」がありました。
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内容が一部重複しますが、パンフレットや案内板を元に紹介します。
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旧弘前偕行社のあらまし…『弘前偕行社は弘前に師団司令部が置かれた陸軍第八師団将校の厚生等を目的に設置された施設で、明治40年(1908)に弘前藩9代藩主津軽寧親の別邸跡に建設されたものである。昭和20年9月から弘前女子厚生学院が学舎として使用し、現在は重要文化財旧弘前偕行社(平成13年6月15日指定)として保存・活用され、平成25年度から令和元年度まで建築当初への復原を含む保存修理が行われた。建物は、木造平屋建でルネサンス様式を基調としており、正面中央の屋根窓をはじめ、細部意匠に優れている。内部では漆喰天井の中心飾りや暖炉等に洗練された意匠が配されている。東北を代表する陸軍師団関係遺構であり、地方を代表する棟梁・堀江佐吉が最後に関わった建物として、そして、軍都から学都へと転身を遂げた弘前の歴史を如実に示すものとして貴重である。』
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正面。
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正面入口。
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ドーマーウインドー(屋根窓)。
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正面玄関前・車寄より。
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「蜂」の鉄製飾り等。
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詳しい説明は公式HPも参照下さい。
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星の換気口。
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煉瓦製の煙突。
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南廊下前庭園。
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前庭側から見た偕行社。
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一周してきました。
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館内へ。開館:午前10-午後4時迄。休館日:火曜日、8月13日、年末年始(学校行事等館内の使用状況により見学できない日もあり)。入館料300円(18歳以下、70歳以上、障害者手帳提示で無料)。ガイド付き見学500円(要予約1日1回午後12時~)※いずれも令和2年時点
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渡り廊下の床。かつての階段がガラス張り見えるようになっていました。
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球突場。
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球は突けません。
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北廊下。
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受付。
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玄関。
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応接所。
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小集会所。
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弘前偕行社は平成25年に大規模な保存修理事業等に着手し、令和2年に一連の保存修理事業等を完了。外壁や軒はそれまでの優しい風合いから薄いグレーと濃く深いグリーンのモダンな配色に、鉄製の装飾も建設当時の色に復原。中央棟、東棟、西棟の各面の屋根を飾っていたドーマー窓も復原。車寄せの屋根にはアクロテリオンと呼ばれる装飾を設置。床下から建築当初のものと思われる瓦が発見されたことで、屋根瓦も赤茶色に葺き替えられています。校舎や園舎としての利便性を高めるために設けられた後付けの出入り口は壁や窓に復原。トイレ、下駄箱、流し台を撤去してトイレは独立棟として整備。会場は間仕切りや舞台、黒板を撤去し、遮るもののない一室の大広間となりました。控え室は採光のために設けられた窓を壁に戻しました。各室の内装も当時のものに復旧し、床はタイル敷きから多くがリノリウム敷きに変更。出入り口となる門柱の間には鉄製扉を復原。門柱の上には電燈が置かれています。レンガ塀には鉄柵が設けられました。
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材料・構造:木造平屋建。屋根形式:寄棟造。屋根葺材:桟瓦、鉄板。平面積:958.579㎡。桁行48.783m(主棟)29.967m(東棟)32.421m(西棟)。棟間10.908m(主棟)7.272m(東棟)7.272m(西棟)。棟高 9.381m(主棟)8.304m(東棟)8.304m(西棟)。
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西廊下。
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客室北。
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社名の「偕行」は詩経に収められている漢詩「修我甲兵 興子偕行」に由来。明治10年、陸軍将校の親睦・互助・学術研究の集会所(将校倶楽部)として東京偕行社が設立され、国内外各地の師団司令部所在地に拡充されていきます。将校准士官等による親睦、「偕行社記事」の刊行、戦争犠牲者等の救済などが主な活動でした。将校准士官等の軍装備品や行事記念品などの製作や物販もしており、大阪や広島では附属の小中学校の経営がされていました。最大で国内58ヵ所、海外8ヵ所にあった偕行社は、現在国内6棟、台湾に1棟が現存。旧弘前偕行社はルネサンス風様式を基調とした建物で、木造平屋建で簡明な洋風建築ですが、規模が大きく要所に配された華やかな細部意匠が特徴。正面中央上部の屋根窓、軒廻りの持ち送り板、窓廻りの飾り枠や上部に付けた櫛形あるいは三角形の破風飾りなど、豊かな装飾を備えます。玄関廻りはポーチに鋳鉄柱を用い、車寄せの妻飾りとして唐草模様と陸軍第8師団に因んだ「蜂」のレリーフがあります。各部屋の漆喰天井の繊細な中心飾りは当時のままで、暖炉は外国製タイルが張られており洗練された意匠を配しています。
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日清戦争の勝利後、日本国内では三国干渉によるロシアへの反発が強まり軍備増強が進められます。明治30年、本州最北で戦略的にも重要だった青森県弘前に第8師団が創設。明治期の日本陸軍では、歩兵部隊を主力に、これを支援する砲兵、騎兵、工兵等の各部隊を組み合わせて師団としました。師団司令部や管下の諸部隊施設は現在の弘前市富田から千年一帯に置かれ、軍人やその家族の来往者が増加。中心市街地の土手町や元寺町は商業地として、田園地帯にも住居や飲食店が軒を連ねるなど弘前は軍都として繁栄。明治35年、弘前歩兵第31連隊は対ロシア戦に備え八甲田雪中行軍に成功。この訓練を活かして日露戦争の黒溝台会戦では極寒の厳しい戦況から勝利に導き、国宝師団と謳われるようになりました。その後、昭和20年第2次世界大戦において、師団主力はルソン島の戦いでアメリカ軍や抗日ゲリラ兵に苦しめられ、奮戦むなしく終戦を迎えました。
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客室南。
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日清戦争後の日本は対ロシア戦に備えて陸軍の軍備を拡張、新たに6つの師団を増設します。第8師団もその一つで、明治31年に弘前大学構内に師団司令部を開設。弘前偕行社は当初、師団司令部の一室に置かれており、明治40年に現在の場所に新築移転。この地は弘前藩9代藩主津軽寧親の別邸「富田御屋鋪」跡で、弘前市内でも屈指の名庭園でした。建設の翌年に御宿泊された嘉仁親王(大正天皇)は庭園の悠々とした美しさを賞して「遑止園」と命名し、松をお手植えされました。また、当時建築工事を請け負った堀江佐吉は「旧弘前市立図書館」や「旧第五十九銀行本店本館」、
太宰治の生家としても知られる「斜陽館」なども手がけた津軽を代表する名棟梁です。堀江佐吉は完成前に病没したため弘前偕行社が最後の作品となりました。
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昭和10年8月から昭和11年12月まで、昭和天皇の実弟である秩父宮雍仁親王が弘前歩兵第31連隊第3大隊長として御在隊。弘前に御到着された際は、感激した将校たちが枡形から連隊営門まで整列してお迎えしました。御在任中は妻の勢津子妃と御一緒に紺屋町の菊池長之の別邸にお住まいになりました。
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弘前女子厚生学院は昭和17年に養護訓導の養成所として創設。昭和20年8月に第2次世界大戦が終結し、日本軍が解体すると、弘前偕行社も解散することになります。管理者を失った弘前偕行社の建物は戦後すぐに弘前女子厚生学院へ払い下げされました。その後、併設する「みどり保育園」の園舎としても活用されます。弘前厚生学院が長年にわたり大切に保全してきたことで、明治時代の完成当時とほぼ変わらない様子で保存されています。
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【沿革】
明治31年(1898)現在の弘前大学構内に師団司令部を開設
明治37年(1904)弘前偕行社新築移転計画立案
明治40年(1907)弘前偕行社本館完成
明治41年(1908)皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が弘前偕行社にご宿泊
昭和10年(1935)昭和天皇の弟宮である秩父宮殿下が歩兵第31連隊第3大隊長に着任
昭和20年(1945)第2次世界大戦が終結し、日本軍が解体するとともに偕行社も解散
昭和20年(1945)弘前女子厚生学院校舎として使用
昭和21年(1946)みどり保育園舎として共用
昭和55年(1980)弘前厚生学院記念館として公開
平成12年(2000)「県重宝」に指定
平成13年(2001)「国の重要文化財」に指定(県内98件目)指定対象/建造物1棟、棟札1枚、門柱及び煉瓦塀
平成25年(2013)大規模な保存修理事業に着手
令和 2年(2020)一連の保存修理事業等を完了
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南廊下。
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展示物が色々あります。
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貴重な資料や写真が多く、個人的には結構見応えありました。
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是非、現地でご覧になってください。
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南廊下を進んで書籍室へ。
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こちらは展示室になっております。こちらも見応えあります。
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棟札。
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漆喰のレリーフ。
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会場へ。
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漆喰のレリーフ。
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輸入タイルで飾られた暖炉もあります。
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簡単ではありますが以上です。
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一度行ったことがある方も、もう一度行ってみてはいかがでしょうか。
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