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2015年11月5日未明全焼。2016年11月に再建工事スタート。2020年3月26日に5年ぶりとなる例大祭が開かれ、一般公開も始まりました。
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かなり立派になって復活しました。木造2階建(487㎡)。焼失前が約240㎡だったのでからほぼ倍の大きさです。
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新しい社殿内については公式HPを参照下さい。
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青森県神社庁より…『御祭神:市杵島姫命。例祭日:旧3月3日(昭和56年以降)。由緒沿革:鎌倉の武将工藤祐経の子、犬房丸が源頼朝公に仕えていたが、罪を犯して流罪となり、この地に移住し、時が過ぎるにつれて、都を追想して蕪嶋を見るにつれて、郷里の江の島を思い出して、これを擬して弁財天を祠り、蕪嶋大明神本地弁財天と称し、犬房丸(祐経)の三男が、この鮫浦に住み、嶋脇の姓を名のり、氏神として崇め奉る。又、宝永3年(1706)この地を支配していた八戸南部藩の三代通信公に、世継がなく、蕪嶋弁天堂に男子誕生を祈願。同年10月7日、御堂を改築し、新しい弁財天を勧請し、豊山寺の住職が蕪嶋で開願式を行う。其の祈願が成就され、宝永6年に男子が授けられた由縁により、子宝、開運の社と崇め奉られ、南部家の御紋の向鶴を社紋として授けられ、藩公の厚い信仰を受けた。今日では、県南地方を始め全国的に開運の神として信仰を集めている。』※由緒等については変わりないので以前の記事も参照下さい。
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以前の記事『蕪嶋神社 (八戸市)
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鳥居と参道階段。向かって右の碑は法師濱桜白民謡碑(昭和48年8月建立)…『唄に夜明けた かもめの港 船は出てゆく 南へ北へ 鮫の岬は 潮けむり』。かつて厳島神社と呼び親しまれてきた蕪嶋神社(平成3年10月改称)は鮫港の蕪島という小島に鎮座しています。この島には、七福岩といわれる七福神の形に似た岩があり、島全体が霊地のように崇められてきました。よって参詣人以外がみだりに島に渡ることは島を汚すこととされました。かつて島へは渡し舟で渡っていましたが、大正8年頃に吊橋が架けられました。しかし台風などの時化により何度も流され、その後昭和18年12月に埋め立てられて陸続きとなりました。また、「蕪嶋に石を持っていって積めば神慮に叶い、勝手に石を取って来れば海難に遭う」(文政9年7月11日八戸藩日記)といわれ、島から石を取ってはならないとされ、逆に願い事の成就を祈る石積みの信仰が見られます。本殿西の位置には黒岩と呼ばれる岩壁があり、その岩の波打ち際に大日如来の種字アーンクが刻まれています。この梵字は、津要玄梁和尚が刻んだものといわれています。津要は延宝7年八戸の湊町に生まれ、盛岡の祇陀寺の和尚となりましたが、正徳2年の頃、寺下の観音様が火事で寺も仏像も宝物も焼けて困っていた時、祇陀寺を隠退して再興。その頃蕪島に来て海上安全と遭難者の霊を慰めるため、また一説には八戸城鎮護のために刻まれたものといわれています。
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国指定天然記念物「蕪島ウミネコ繁殖地」(大正11年3月8日指定)…『蕪島は、毎年約3万羽のウミネコ(東アジアの沿岸を生息地とするカモメ科の海鳥)が繁殖のために飛来する、日本有数の繁殖地です。ウミネコは、2月下旬頃から蕪島へ飛来し、4月下旬~7月下旬頃に産卵や子育てを行い、個体数は約4万羽まで増えます。ウミネコは8月上旬頃に繁殖を終えて蕪島を去りますが、蕪島周辺で越冬する個体も少数見られます。蕪島がウミネコの繁殖地として続いてきた理由として、現在、陸続きとなっている蕪島は、もともと離島であったため、ウミネコの天敵が侵入しづらかったことや、ウミネコの子育て時期にエサとなる魚が八戸湾に豊富であったことが考えられます。他地域のウミネコ繁殖地は離島や断崖が多く、蕪島のように人間の生活圏内に繁殖地があることは珍しいことです。蕪島では地域の人たちが中心となり、ウミネコの繁殖を守るための活動を行っています。2019年3月 八戸市教育委員会』
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狛犬一対。
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92段の参道階段。焼失前は72段でした。
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ヒッチコックの『The Birds』(鳥)状態でお送りしております。
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ソーシャルディスタンスをまったく守らないウミネコたち。
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狛犬一対。
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弁財天。
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手水舎。
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青森県産の栗の木で作られています。
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運開きめぐり。違う運(ウン)が付きそうなので断念。
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招き猫。
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平和克復の碑(大正10年6月25日・木村太郎)。碑表には「平和克復」「大正十年辛酉従五位子爵南部利克」とあり落款も刻まれています。裏面上部には利克の筆で「海鎮」とあり落款もあります。その下に八代藩主信眞公の七言絶句「神女嶼之作」の前文と詩文が刻まれ、「文化紀元春三月源信眞」とあります。左下に「大正拾年六月二十五日八戸藩御祐筆戸来覚蔵七代之嫡孫木村太郎謹書」とあります。
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江戸時代には、蕪島周辺が八戸藩唯一の貿易港・漁港として藩の経済を支えました。大正8年には橋が架けられ、それまでは完全な離島で渡船に頼っていたものが自由に往来できるようになり、その後昭和18年から埋め立て工事を行い現在のような陸続きとなりました。長さは約300m・幅約140m・高さ約19m・周囲約800mの瓢箪型の島。
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主祭神は市杵島姫命。相殿は天照皇御神、高霊神、大物主命。
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創建は鎌倉時代、伏見天皇の永仁4年(1296)6月と伝え、武将工藤祐経の子の犬房丸は源頼朝に仕えていましたが、罪を犯して流罪となり現八戸市鮫町に移住しておりました。その時に鎌倉の都にある江ノ島と蕪島が似ていたので懐かしみ、それにちなんで市杵島姫命(弁財天)を祀り祟めたと伝えられます。後の子孫が蕪島向かいの岸で休んでいたところ、海中から弁財天の尊像御鏡が浮かび上がって来たので、これを蕪嶋に祀ったと伝えます。地元である八戸藩では初代藩主以来、累代藩主の信奉が厚く、特に三代藩主南部遠江守には後世継ぎの嗣子が無かったので大変御心痛なされ、蕪嶋神社に男子出産の祈願をしましたところ、御加護を頂き目出度く一男を授けられました。以来藩史には数々の御神徳が記されています。
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入母屋造り、2階建ての屋根には1階、2階とも唐破風があり「うみねこの親子が羽ばたいている」ところをイメージしているそうです。屋根全体の反りも躍動感がある造りで、本殿は切妻造りとなり拝殿の2階は二軒の入隅と東北地方にはあまり見ない形状となっており、化粧垂木の納まりが非常に複雑になっています。
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拝殿向拝。
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拝殿向拝神額。
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ピッカピカです。
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「天昇かぶあがり」「福来ひょうたん」。
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『弁財天様がご鎮座する蕪嶋の「かぶ」の名称にあやかり自己の運気の向上天昇・福来を願い「かぶあがりひょうたん御守」を奉製し、神様のご加護と郷土の繁栄を祈念してここに記す。平成二十一己丑年六月吉日』
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招き猫と弁財天。
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北村古心句碑(昭和12年5月5日)。昭和12年5月に北村古心氏の古稀祝賀記念に建立。碑表に「港の修築成りし日 古心 とこしへに影 やすからめ浦の月」とあります。碑背には北村益氏の生立と功績が刻まれています。『百仙洞古心先生は 北村、名は益 而又泡庵・餐霞叟・桜雲・肖遙子・自適・父潜龍窟・謙道居士等の號あり、舊八戸藩士にして資性硬直奉公の志篤く、事績範を垂るる者少しとせず。曩曰、洋風浸潤し國風の衰頽せん事を憂へ、明治二十二年自費を以って國粋主義の私塾を開設し、八戸青年会と称し、以って小中学校に對する一大家庭を形成し、時代教育の缼陥を補はんとし、地方の名士を網羅して講師となし、楠公を祀りて亀鑑となし、二十四餘年間盛んに武士道を鼓吹し、即、文以て天真を養ひ、農以て耐力を養ひ、祭祀を以て魂魄を磨くの大綱を揚げ、以て後進を薫陶し、一種の風格を作り、人物に、事業に、隠然地方今日の基礎に貢献せり。明治二十五年、十年間物産奨励会を開きて産業の開発に努め、三十一年より十年間、新兵予習会を設けて徴兵厭忌の弊を矯め、三十四年より二十年間、消防組頭として業務の改進に盡瘁し、範を県の内外に示し、四十年八戸町長に推挙せらるるや、先以て党争を避くる事及旧昔の如く、濱通りと町村合併を行ひ、海を利用するの力を大にせん事を提唱し、次で築港期成同盟会を組織し、以て超党派活動の端を開き、大正七年原内閣の成立するや、機乗ずべしと叫び、党に囚れて事を成得ざるの愚を説き、敢然政友会に投じて八戸港修築及び久八鉄道の企図を進め、八年終に起工式を挙行し、十三年久八鉄道開通等、其の功績特筆大書に値するは世の斉しく認むる所なり。而して大正十二年、企業略緒に就くや町長を辞し、断然政界を隠退して、曰く、士は出所進退を明にすべし。今日以て曩に離党、同志に叛きたるは出所進退を明にすべし。今日以て曩に離党、同志に叛きたる責を償ふと、以来悠々風流に遊び、旧藩七代の城主南部畔李公傳統の正風徘徊を擁護して斯道の進興に奮励し、眠食を忘れて門下の教導に没頭せられ、今や童顔矍鑠として是に古稀を迎えらる。我等門人此の慶事を機とし、報恩の微衷を表せんが為に恩師の寿を祝ぎ、記念の句碑を建つるに当り、聊師の功徳を頌せんと欲するも筆及ばざるを以て、次に師の年譜を抄筆し以て責を塞ぐ。明治元年十二月朔日、八戸長横町十九番邸に産まる。小学校卒業後、旧藩文武師範たりし栃内吉忠翁に神・儒・佛の道を聞き、又渡邉村男・小田為綱両先生に就き士魂を鍛錬し、十六年千葉周作氏の高弟、鈴木彦四郎先生及其息、重喬治懿両氏に、北辰一刀流の剣術を学び、免許に至る。十八年堀野茂助氏に大坪流馬術を習ふ。二十二年、湊要之助氏と共に八戸青年会を創立し、人物養成、産業奨励に活動す。此の間前田武氏に当田清見流棒術及四條流禮式、女鹿宗彬氏に川崎流柔術及加賀美流打毬、岩山高憲氏に甲州流軍学及溝口流居合、細川来作氏に穴澤流薙刀及高巣流縄術、山本鎮元氏に通神流剣術を学びて皆免許を得。日澤義真氏に一当流柔術、前田利見氏に神道無念流居合・柳生流鎖鎌を学びて皆道統を伝へらる。二十三年会務を湊氏に託して上京し、根元通明翁に儒道を学び、根岸信五郎氏に剣技を研き、夏冬休暇に帰省して会務を見、二十四年園藝用地を提供して会員に農事を実習せしむ。二十五年養蚕伝習所を開き、桑園を設け、一般の注意を喚起す。同時に物産奨励会を開催し、広く産業の開発に努め、会員をして執務奉公の風を養はしむ。二十六年巌君逝去。為に帰国す。同年十一月、青森聯隊に御駐在の伏見宮貞愛親王殿下、産業奨励の御思食を以て、物産奨励会場に台覧を賜ひ、尚会員の徒打毬を台覧あり。十二月、一大御真影及御紋章御盃並に金参千匹を賜ふ。物産奨励会は、二十四年三戸郡の催あるに及びて止む。二十八年図書館を設立し、旧藩の書籍縦覧を復興し、後八戸町立図書館設立に於て一切を依託す。三十一年新兵豫習会を創立し、徴兵厭忌の弊を矯正す。後四十一年在郷軍人団興るに及び業を譲る。三十三年、鎌倉円覚寺釈宗演師に参禅修道。三十四年八月消防組頭就任。三十六年八戸弘道会を創立、宗演師の高弟寳嶽師を聘して多年禅風を宣揚す。同年凶荒に鑑み救済蓄積の同志を糾合し、八戸蓄善会を創立す。三十七年、日本赤十字社尻内患者休養所委員嘱託。晝夜傷病兵の接待に任ず。三十八年軍資金献納の賞、桐葉御紋章大銀杯下賜。同年八戸新聞社長就任。三十九年、戦役後援事業尽力御満足に御思召さるる旨御沙汰書を添へ、菊花御紋章大金杯下賜。翌年八戸町長就任。町村合併。超党一致の活動提唱し、築港期成同盟会を組織して実現を期す。四十一年、日本赤十字社八戸分区良成績にて、第一回忠愛旗受領。四十四年、鮫村捕鯨会社焼打事件勃発、消防組員を引率して鎮撫に任ず。四十五年八戸中学校長、他校の弊害に鑑み、杞憂に囚はれて文部省の内命と称し、青年会解散を要求するに合ひ休会す。大正元年百仙洞立机。三年八戸消防組優秀に付き、県より第一回勤功証書受領。四年県会議員当選。七年原内閣の成立を機とし神田・山浦其の他の諸氏と共に、八戸港修築及久八鉄道速成の猛運動を起し、克く効果を収め、八年築港起工式を挙行。九年、八戸町外二ヶ村耕地整理組合長就任、水田三百二町余成功。同年消防組頭辞職、八戸町より功労記念金杯を贈らる。十二年八戸町長辞職。政界隠退。同年南部子爵の命に由り、六世百丈軒襲名。十三年大火千四百戸を焼く、由て積善会の蓄積を利用し救済、住宅百戸を建築提供す。同年尽力の久八鉄道開通。十五年百丈軒を辞退、百仙洞に還る。昭和二年八戸積善会を解散し、全財産を八戸町に寄付す。同年八戸印刷会社長就任。三年還暦記念餐霞集成る。同年八戸銀行取締役就任。四年八戸町・小中野町・湊町・鮫村合併八戸市制施行、初代市長に選挙せられしも受けず。五年、五梅庵畔李公の句碑を建立す。七年、八戸水力電気会社長就任。八年、八戸俳諧史刊行。同年青森県より八戸港完成功労賞金杯受領。同年畔李公百年忌施行記念五梅庵句集成る。同年電機会社を解散し、事業を県営に譲る。九年県より電気功労賞金杯を受領。十年、正統星霜庵九世を襲ぎて両立を十世に統一す。同年、六百年祭を機とし楠公廟を建立。十一年、東京調布町光岳寺に蓼太句碑標識を建立す。十二年、古稀記念事業芭蕉堂建立成る。同年古稀祝賀記念句碑建立。倩惟るに、子を知る者は、親に若かず。師を知る者は、弟子に若かず。予、敢て筆を執って禅らざる所以也。昭和十二年五月吉日 門人 百峰廬古仙誌 友人 香石久保節書 発起人 古仙 猪内清一 古光 正部家誠 古道 浅野一哉 古天 福井吉平 古剣 音喜多富寿 賛助 柳子 神田重雄 梅峰 山浦武夫 鷗州 石田多吉 南部信次郎』

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ウミネコ供養碑。『大神のみ使ひか これ うみねこの 姿のあまり うつくしければ』柳原白蓮。
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稲荷神社。
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石碑の紹介…どうしよう…
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密すぎる!
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もう少しだけ頑張りましょう。
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海防艦稲木之碑。
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『昭和20年8月9日八戸港内に仮泊中の海防艦稻木は来襲せる米三十八機動部隊の艦載機群と交戦勇戦敢闘遂に沈没す。爾来三十八年当時の乗組員並びにその父母、二世及び関係者相図り記念碑を建立して物故者の霊を追悼しあわせて世界の恒久平和を祈念するものである。昭和五十八年八月七日』
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国旗掲揚檣(中央)。『八戸海交會創立十五週年記念。奉納者八戸海交會(※名は省略)。昭和42年5月27日建立。高崎鉄工所謹製』。「昭和二十八年五月、旧海軍々人軍属が一同に会し、戦終えて母なる国を再び見る事が出来た感激を以って、国の限りない繁栄に寄与することを誓うと共に、惜しくも海に消えた戦友の諸霊鎮護のため…」と献額の冒頭に掲げ、昭和33年5月27日に最初の掲揚檣が建立されるも、月日が経つと共に破損し、昭和42年にこれを鉄マストに替え、58年創立30周年を記念して3度建て替えられ、昭和59年2月8日に強風のために根元から折れたため、同年4月12日に新しい鉄マストに建て替えられました。毎年5月27日に軍艦旗が掲揚され、盛大な慰霊祭が行われるそうです。
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稲木の往時の姿が描かれている慰霊碑…『平成二十五年第六十二回伊勢神宮式年遷宮のお白石持ち行事に奉仕した当神社三十名が、広島呉の海軍墓地にて八戸の楯となり交戦した海防艦「稻木」の亡き下谷光秋乗組員のご子息の協力を得て慰霊の参拝が出来た事を記念し、戦後七十年の平和の尊さをみて建立する。平成二十七年八月九日宮司野澤俊雄』
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眺望。
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もっと色々紹介したいところがあるのですが、さすがにそろそろ運が付きそうなので帰ります!!
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