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山形県鶴岡市下川字関根。曹洞宗龍澤山善寳寺。御本尊は薬師如来。妙厳寺、最乗寺と並ぶ曹洞宗三大祈祷所。
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善寶寺参拝図。
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※五百羅漢堂特別拝観(2019年4月1日-6月30日、9月14日-11月24(善寶寺崇敬開山峨山禅師像御開帳))に行ってきました。時間の都合上、瀧澤不動尊には行きませんでした。なお、五百羅漢堂と龍神堂については別記事にしております。
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善寶寺入口向かいにある「ほんま商店」さん。人面魚ブーム時の1日最高売上げは何百万にも達したといいます。店主が発案した人面魚のオリジナルグッズ約30種類を販売し、特にパッケージに人面魚をあしらったまんじゅうは、中身は従来品のままなのに飛ぶように売れたそうです。現在は販売していないようです。
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旧善宝寺駅(旧善宝寺鉄道記念館)。「庄内交通モハ3形」「国鉄8620形蒸気機関車の動輪」がありますが、廃墟化しており立入禁止のため紹介しません。善宝寺駅は昭和4年12月8日に庄内電気鉄道の駅として開業。湯野浜線廃止に伴い昭和50年4月1日に廃止。善宝寺鉄道記念館は湯野浜線廃止後に設けられた鉄道保存展示施設で昭和53年に開館。平成11年頃閉館。善寶寺のすぐ目の前なので鉄道マニアの方は立ち寄ってみてください。
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善寳寺は山形県鶴岡市にある曹洞宗の寺院。山号は龍澤山。御本尊は薬師如来。妙厳寺、最乗寺と並ぶ曹洞宗三大祈祷所。
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平安時代の天慶から天暦年間(938-957年)頃、天台宗の妙達によって草庵が結ばれ、龍華寺と呼んだものを始まりとします。鎌倉時代の延慶年間(1308-1311年)、總持寺二世峨山韶碩が龍華寺跡で教化を垂れます。室町時代の永享年間(1429-1441年)、韶碩の七世法孫、曹洞宗の僧太年浄椿がその遺志を継ぎ諸堂を復興し寺号を善寳寺と改めました。姿を顕した二龍神(龍宮龍道大龍王、戒道大龍女)が寺号を授け、寺内の貝喰池に身を隠したという伝承が残り、龍神信仰の寺として航海安全を祈願する海運関係者や大漁を祈願する漁業関係者などから全国的に信仰を集めました。天保4年(1833)に再建された龍王殿や安政2年(1855)に寄進された五百羅漢堂、文久2年(1862)に再建された山門、明治16年(1883)に建立された五重塔などの諸堂のほか、菱田春草「王昭君の図」(国重要文化財)などを保有。昭和57年に鶴岡高専教授斉藤信義が住職に就任。平成22年に五十嵐卓三が42世住職就任。平成28年に妙達上人生誕1150年祭に合わせ、初の龍王殿御尊体の御開帳を挙行。平成29年に妙達上人の木像遷座開眼法要を挙行。作成は京仏師櫻井覺山。
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白幡水産翁彰徳碑。白幡仲治は山形県における近代水産界の発展に生涯を尽くされた先駆者であり水産翁と呼ばれています。明治35年に26歳の若さで豊浦漁業組合を結成、自ら組合長となって40年余にわたり庄内浜漁村の振興に活躍。大正6年秋に完成した由良・白山島の橋も漁業指導者今田栄氏らとともに奔走し、波浪と闘いながら架橋したもので、単なる観光だけでなく、漁船の避難所、根拠地を設置する上で重要な意味を持ちます。昭和24年8月11日74歳で死去。
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石灯籠一対。
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10.5
満州開拓親子地蔵尊。旧満州(現中国東北部)から帰還した関係者の寄付により昭和22年建立。碑文等省略。
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案内所。
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地蔵尊。
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龍華庵。
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龍華庵(国指定登録有形文化財・平成27年11月17日)…『この庵の名称「龍華」は善寳寺の前身である「龍華寺」に由来する。明治13年(1880年)、現在地へ三十三世中興月圓禅山和尚代に再建されました。内陣天井には棟梁が天井画まで関わったとされる雲龍図が描かれております。本尊は観音菩薩さまであります。』
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位牌堂。
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三十三観音堂。
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観音堂内。
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観音堂…『当国に在る三十三所観音霊場を当山帰依の十方信者の便宜上、一堂に集めてまつったもの。昭和13年建立(1938年)』
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放光堂。
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荘内電鐵開通記念碑。『荘内電鐵開通記念碑記 伯爵酒井忠良題額 子爵入江為常撰文 恭シク惟フニ昭和拾五年ハ大日本帝國剏建後二千六百ニ當リ 皇祚無窮ヲ祝福スル歓聲四海ニ満ツ我庄内ハ土地膏腴民風醇朴治スルニ道ヲ以テシ導クニ法ヲ以テスレハ文化大ニ興ルヘキモノアリ惜ムヘシ東北僻陬王化ニ遠ク伸ヒント欲シテ却リテ屈シ以テ現代ニ及フ東田川郡大和村ノ人奥山亀蔵君ハ學ヲ卒ヘテ官遊シ功成リ野ニ下ルヤ郷國ノ不振カ交通否塞ニ因ルヲ慨シ苦辛幾歳昭和参年九月庄内電鐡株式會社ヲ創立シ翌年拾貮月鐡路ヲ開通ス而シテ此業ノ成レルハ酒井家友郷黨ノ同志カ之ヲ援ケタルニ依ルト雖モ亦君ノ甞テ在官シタル越後地方ノ舊知カ資ヲ寄セ力ヲ籍シタル所極メテ多キニ居レリ庄内電鐡ノ開通ハ旅客ノ来往物資ノ集散ヲ便ニシ四方名士ヲ誘ヒ尓来地方ノ文化鬱然トシテ興ルノ観アリ大海ハ消滴ヲ集メテ濶ク一國ノ興隆ハ一郷ノ殷盛ニ待ツ今茲ニ地方ノ有志千歳一隅ノ佳年ヲ祝シテ碑ヲ建テントス有志ノ曰ク一國ノ榮典ト一郷ノ歓喜トヲ併セテ是ヲ録シ得ルモ■■卆ノ餘慶ナリト即子此爾事ヲ一石ニ刻シテ以テ永世ニ傳フ 皇紀二千六百年十一月山崎正國書』
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総門。総けやき造り。
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木札には「善寳寺龍王講」とあります。棟札もあります。
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十二支をはじめとする彫刻が施され、棟梁剣持嘉右衛門渾身の獅子の造形は圧巻。※剣持嘉右衛門は江戸末期から明治にかけて善寳寺の棟梁として活躍した名工。総門・山門・五重塔・五百羅漢堂等の伽藍並びに彫刻を制作。
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25.2
25.4
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総門(国指定登録有形文化財・平成27年11月17日)…『信仰道場、善寳寺への第一関門です。安政3年(1856年)三十二世月巖不傳和尚代に再建されました。床は石敷、材は欅で彩色は施されていません。十二支の他、立体的な彫刻で装飾されております。特に向って右側上層部には波に寶珠の透かし彫りがあります。龍は「寶の珠」をくわえておりますが寶珠は「如意寶珠」で願いごとが叶うと言われております。全体的には、華やかさのある四脚門であります。』
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藤沢周平(その作品とゆかりの地)…『「龍を見た男・龍沢山善宝寺」-何かが、いる。と思ったのは、おりくの後から歩き出そうとしたときである。源四郎は立ち止まった。自分の顔色が変るのがわかった。池の、青みどろに隠れた深みの底のあたりに、何かがいた。源四郎の二十数年にわたる漁師としての勘が、その気配を摑んでいる。それは魚ではなかった。もっと巨大なものの気配だった。「あんだ、何してっどご?」訝し気なおりくの声に、源四郎は慌てて歩き出した。初めて心の中に懼れのようなものが生まれていた。(山形新聞・昭和50年10月5日-10月16日まで)』
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手水舎。
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こちらも手水舎的なものかな。「贈昭和42年6月21日 新潟市小杉講 新津義雄外有志一同」とあります。
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休憩所(小休所)。
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弥勒堂(彌勒堂)。
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案内板「弥勒尊像」より…『かつて宝暦年中に当地方を未曽有の大飢饉が襲い、悪病が流行しました。当時の住職(二十三世喝禅方丈)はこれを深く嘆き、病魔退散、五穀豊熟を強く願い、この巨大な弥勒尊像を建立しました。この弥勒様は大阪で完成し、海上を船で輸送されてきましたが、陸揚げの際誤って首を海中に落としてしまいました。機械力の無い時代、それをどうしても引き上げることが出来ず「海の鎮護ならん」と願い、胴体のみを運び、庄内に到着後に首を造作されたと言い伝えられています。弥勒尊さまの周囲に安座されている七体のお地蔵様は、元々は羽黒山におりました。明治初期の廃仏毀釈の際、川に沈められようとしていたお地蔵様を当時の住職(三十三世禅山方丈)が聞き及びそれを譲り受けてここに安置したものです。正面の額は「龍華楼」と読みます。』
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五重塔へ。
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五重塔。全国でも珍しい魚鱗一切の供養塔として完成。
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五重塔(国指定登録有形文化財・平成27年11月17日)…『[魚鱗一切]の大供養塔として明治16年(1883年)、三十三世中興月圓禅山和尚の発願により、建立に着手。10年後の明治26年(1893年)三十四世別傳禅法和尚代に落成。高さ三十八メートル余、総欅造り、銅板葺きの大塔です。内陣壇上の御佛体は、正面[釈迦如来]東方「阿■しゅく(門+人人人)如来]西方[阿弥陀如来]南方[宝勝如来]中央金色円柱は[大日如来]を擬して仏の五種智慧[五智]を現しています。外部には西遊記で知られる三蔵法師、深沙大将、又、十二神将が四方に彫り込まれています。この大寶塔は、善寳寺守護両大龍王尊霊場の象徴となっています。』
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内部。
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36.4
36.8
彫刻。
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37.4
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まだ山門前ですが長くなりましたので『善寶寺(鶴岡市)~其之弐』へ続く。
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