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青森県下北郡佐井村佐井。願掛岩は流紋岩。中磯谷層中に貫入した流紋岩が浸蝕に対する抵抗力の違いから取り残されてできたもので、比高約100mの岩体には見事な柱状節理が発達しています。
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2.8
付近には佐井村願掛公園、願掛公園キャンプ場、矢越八幡宮がございます。パンフレットによりますと「神の坐す聖地で、矢取八幡宮と、岩の上には天狗の社があります。」とあります。
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願掛岩は見ようによっては男女が抱き合っているような姿をしているため、古くから恋愛成就の信仰の対象となってきたそうです。また、津軽海峡から見ると航海の目印にもなったため、漁業関係者からも崇敬され信仰の対象となりました。
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昭和30年代に願掛岩の中腹にかけて銀杏の苗木を植えたことがあるそうです。その時8合目あたり、社の後横の土から昔のものと思われる鉄製の農器具が20点ばかり出ており、腐食していましたが、鋸と思われるものや、カスガイに似たもの、形が整った鉄鍬4丁などがあったそうです。大正年間、ここの天狗を祀る社が建て直されました。その時境内にあった大きな石が片隅に寄せられましたが、その石の下、土中深く木片屑が埋って、その中から古銭や刀が出てきたそうです。蛎崎のいくさ(康正2年・1456)、足利時代の末期、矢越十郎という豪族が、この界隈を治めていたらしく、北部御陣日記の絵図面にその名が見えています。
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昔は女人禁制の岩山で、女願掛にはおむかい(神威)様が祀られ、船乗りの信仰が篤く、祭礼は旧3月3日、男願掛の祭礼は旧6月20日。矢越八幡宮は、この2つの祠を指向出来る奥まった道路脇の丘の上に鎮座。古記には「ほんたのかみ」「やふねとようけ姫」を祀るとあり、祭礼は8月15・16日。これらのことから、願掛一帯は山伏信仰にも繋がり、先住民時代は神の在所として信仰され、爾来この地は人々の信仰の場として、特に住民の心の拠り所となってきました。菅江真澄の歌に「えぞ人のはなつ矢こしの山ちかくわけてなみゐる海士のつりふね こころせよ花のしらゆふ神かけてよしやうけひくためしありとも つつじ咲くたかねの雲のうつろひて照す夕日のいとと色こき」とあります。
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また、菅江真澄は次のようにも記しています。『あなまを経て磯谷村を行くと、矢越のこちらに雌矢越石、雄矢越石といって、その高さ百尋(五百尺以上)ばかりの、そびえたっている大岩があった。小さい祠がふたつあるのは、ほんたの神(誉田別命)、やふねとようけひめ(八船豊受姫)を祭るという。二つの鳥居に木の枝をかぎにしてうちかけてあるのは、懸想するひとの願いであるという。それでここを神掛といい、また鍵懸ともかくのであろうか。』。また、矢越について『大佐井の南によこたわり、さし出ているところを矢越という。頼義のひきめのやじりがあったところから、今も崎の名としている。またその矢が磯べの波にただよって寄せてきたからといって、磯矢(磯谷)というところもある。』と記しています。
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『青森の伝説』によりますと、『矢越の崎に、100メートルあまりの二つの巨岩がある。男ガンカケ・女ガンカケとべつべつに名があるが、総称して鍵懸岩(願掛岩)という。昔は木の枝をカギ形にして、この岩に投げかけたという。頂上に天狗を祭るお堂があり、大漁や海上安全を祈願する。また海上に出た船の目標にもなる。』とあります。※鍵掛の字をあてることは、明治の頃に大湊水雷団の水兵が岩鼻にカギをひっかけてロープを伝っておりたという話もあります。
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男願掛岩は海抜103.0m、女願掛岩は海抜90.0m。いずれも登り口にあり、途中には神社があり、岩の上まで登れるようになっているようです。
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男願掛岩は風や波の浸食で周囲の頁岩類が削り取られ、流紋岩が荒々しく露出し、近づくと一辺が5cm-10cmほどの五角形、六角形の角柱をぎっしり並べたような見事な柱状節理を確認することができます。女願掛岩はやや小ぶりで低く、男願掛岩とは対照的になだらかな外観で海岸植物に覆われた優しい姿をしています。
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っていうか下(道路)から見ても怖いー!
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高所恐怖症の私でも男願掛岩に上れるかどうか、その場でネット画像検索。
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結果…無理!!
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男願掛岩方面。
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女願掛岩方面。
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女願掛岩の方は見た感じだと緩やかそうですね。
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行ってみます。
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道中の岩写真。
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余裕です。
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道も狭いですけど、さほど歩きにくいというわけではありません。オフショアが私を奥へ奥へと導きます。
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岩百合を撮る余裕さえあります(っ´ω`c)
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がっ!!
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急に女願掛岩の裏側に出まして…草に埋もれて道は一応続いているのですが…
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怖い!怖い!!(ノД`)
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女願掛岩の海側から見た男願掛岩の写真。
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まともに撮れていませんが。
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何なの!?この頼りない柵は!?
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(〃゚A゚)<クソガッ!!
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すいません。不適切な発言がございました(*_ _)
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ってことで、さっさと引き返すの巻。
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鍵掛け縁結び。
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鍵掛け縁結び…『海峡の潮風をまともに受けて、虚空にそびえる二つの巨きな岩山が、佐井村矢越岬の「願掛け岩」です。右手の岩山が「女願掛け」左の岩山が「男願掛け」と呼ばれています。古くは、「鍵掛け岩」とも呼ばれ、縁結びの神として深く信仰を集めていました。佐井村の「新・観光三景」の選定に当り、この信仰を新たな視点で取上げ、願掛け岩にちなみ「鍵」の奉納で縁結びをかなえようと、願掛けネットを設置して、皆様の願いにお応えいたします。年に1回「願掛けまつり」の日には、佐井村上げてのご祈祷で縁結び成就をお祈り申し上げますので、あなたも「鍵」を掛けて、縁結びをお願いしては…。』
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男願掛岩を背にして立つ鳴海要吉文学碑へ。道路を挟んで矢越八幡宮の向かい。
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ここです。
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よって見上げれば男願掛岩が聳え立っています。
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しかし、これでも鳴海要吉文学碑の位置は男願掛岩の中間付近です。鳴海要吉文学碑は道路沿いにありますが、男願掛岩でいうこの位置です。
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明治40年春、佐井村の小学校教師として赴任してきた鳴海要吉は、半年の勤務のうちに120首もの歌を詠みました。
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鳴海要吉文学碑標柱。
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「あそこにも みちはあるのだ 頭垂れ ひとひとりゆく 猿がなく浜」(文字:秋田雨雀)。石は地元の材木石(玄武岩などの溶岩が冷却して固結するとき、六角、時に四角、五角の断面の柱状のわれ目を生ずることがあり、これを柱状節理といいますが、ちょうど材木をつみ重ね、または並べて立てたような形状を示すので材木石とか千本垂木などと呼ばれます。)と仙台石の組み合わせで、浜田英一画伯(青森市)のデザイン。
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ローマ字でも彫られていました。
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鳴海要吉文学碑について…『わが国の文学史上、忘れることのできない優れた新しい短歌を数多く残された鳴海要吉先生は、明治40年3月、当村佐井小学校に赴任され、同年10月末、田代小学校(東通村)に転出されるまでの数ヶ月の短い期間でありましたが、村の人々と村の風景を深い愛情をもって歌われました。今、その作品の中から、この地にゆかりのある一首を碑に刻み、先生の面影をしのぶものであります。』
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