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蚶満寺庭園(にかほ市象潟町)』及び『蚶満寺(にかほ市)』からの続きです。現在地。
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位牌堂前の法華塔。
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法華堂横の階段は立入禁止です。なぜ立入禁止なのかは『八島神社(にかほ市象潟町)』の記事でどうぞ。なお、仁賀保挙誠の墓についても八島神社の記事内にて紹介しています。
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位牌堂。
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三界萬霊塔と夜泣きの椿。寒中雪の中で開花する椿。ここで蚶満寺七不思議について紹介します。
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○夜泣き椿…元の山門があった土手に生えている樹齢700年の夜泣き椿。この椿がある夜悲しい声を発して鳴いた数日後に寺に異変があり、これが数度繰り返されたことから、異変の予告に夜泣きする椿といわれるようになりました。 
○弘法投杉…昔、参道入り口左側の老松のてっぺんの一枝が、誰が見ても杉に見えることから、弘法大師の霊験によるものといわれています。弘法投杉と呼ばれた老松は太平洋戦争の終わり頃まであったようですが現在は残っていないそうです。
○あがらずの沢…袖掛地蔵堂へ行く途中に小さな太鼓橋がありますが、昔この辺りは深い沢で、ここに落ちると泥が深いため、あがることが出来ない人取沢であったといわれています。  
○咲かずのツツジ…北条時頼公が植えたと伝えられる二株のツツジのうち一株は花が咲かないそうですが、全然咲かないのではなく、寺に異変がある年に限り咲くといわれています。 
○木登り地蔵…本堂裏手にモチの巨木があり、上方の幹が分かれた間にちょこんと地蔵様があります。ある時、いたずら者が地蔵様を木の根元に下ろしましたが、翌朝見てみるとまた元の所に登っていたと伝えられています。 
○姿見の井戸…姿見の井戸は蚶満寺庭園の一番北側、木立に覆われた一角にあります。平安初期頃の人で三十六歌仙の一人である猿丸太夫が象潟に来た時、この井戸に自分の姿を映して自らの行く末を占ったとされており、これを信じる人が夜半誰にも知られず井戸に参り、自分の姿を映せば将来の姿が現れるといわれています。 
○血脈授与の木…山門は元は夜泣き椿の所にあったのですが、その山門手前の右側の山に生えたケヤキの古木からは、枝が山門まで垂れていました。ある時、入棺の際に血脈(戒名を書いたお守り)を入れるのを忘れた葬列がこの前までくると、忘れたはずの血脈がケヤキの枝につり下がっていたといわれ、それ以来このケヤキの古木は血脈授与の霊木といわれるようになったといいます。
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大葉紫しきぶ。
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本堂前石灯籠一対。
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9.5
閑院宮殿下御臨啓紀念櫻。
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広葉杉。
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このて柏。
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曹洞宗皇宮山蚶満珠禅寺。御本尊釈迦牟尼仏。仁寿3年(853)に天台座主円仁(慈覚大師)の開創と伝えます。蚶方の美景と神功皇后の伝説によりこの地を占い、皇后山干満珠寺と号したといいます。神功皇后の伝説とは、神功皇后が三韓征伐の帰路、大シケに遭って象潟沖合に漂着し、小浜宿禰が引き船で鰐淵の入江に導き入れたが、そのとき皇后は臨月近かったので清浄の地に移したところ、無事に皇子(後の応神天皇)を産み終えたという「蚶満寺縁起」所載の伝承。その後、象潟で半年を過ごし、翌年の4月鰐淵から出帆し、筑紫の香椎宮に向かったといいます。蚶満珠寺の名は干珠・満珠を皇后が持っていたことに由来するとされます。但し『古寺名刹大辞典』では、後に真言宗に転じ、カンマン(不動明王の真言の一部)という梵語より寺号がおこったという説もあり。正嘉元年(1257)8月、鎌倉幕府5代執権北条時頼(最明寺入道)が象潟を訪れて、「四霊の地」と定め20町歩の寺領を寄進し再興。中興の開基と敬われている北条家の家紋「三鱗紋」を寺紋とし屋根瓦にも刻まれています。天正15年(1587)1月(もしくは文禄元年(1592))、地元の金又左衛門らの懇請により、松ヶ崎(秋田県由利本荘市)光禅寺九世栄林示幸が、光禅寺の開山直翁呈機を開祖に勧請して曹洞宗に改めました。江戸時代になって仁賀保院内(にかほ市)の禅林寺との間に本末争論が起きましたが、元禄9年(1696)に加賀大乗寺(金沢市)の預かり末寺となって解決。江戸時代の蚶満寺は、十五世の無学絶宗の時に僧堂を開いたといわれ、多くの名僧を得て、曹洞宗の叢林として「羽海法窟」の名を天下に高めました。
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象潟は「九十九島、八十八潟」、あるいは「東の松島、西の象潟」と呼ばれたように、かつては松島同様無数の小島が浮かぶ入り江でしたが、文化元年(1804)の大地震(象潟地震)で干潟に変わりました。陸地化した土地問題で本荘藩と紛争となりましたが、二十四世全栄覚林は命がけで九十九島の保存を主張。象潟地震後の潟跡の開田を実施する本荘藩の政策に対し、覚林は蚶満寺を閑院宮家の祈願所とし、朝廷の権威を背景として開発反対の運動を展開、文化9年(1812)には同家祈願所に列せられています。覚林は文政元年(1818)江戸で捕らえられ、同5年に本荘の獄で死去。天保6年(1835)二十八世の活山も再興に力がありました。
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袖掛地蔵堂は木造宝形造瓦葺(16坪)、江戸中期以前の建立と推定。文化財として旅客集・十一巻、芭蕉の書軸、象潟古景図、狩野探幽「童形文殊菩薩画像」、蚶満寺への寄付状と殺生禁断の布告の北条時頼の墨付一巻、閑院宮家の墨付一巻があります。ちなみに本堂内に神像、狛犬、梵鐘、天井絵など色々ありましたが写真は撮っておりません。※グーグルストリートビューで一部見ることができます。
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パンフレットより…『寺伝によると平安前期の仁寿3年(853)に慈覚大師円仁によって開創され、鎌倉中期の正嘉元年(1257)北国巡遊の鎌倉幕府執権であった北条時頼が訪れて、四霊の地を定めて二十町歩の寺領を寄進し再興したと伝えられている。それ以来、中興の開基と敬われている北条家の三鱗紋が寺紋となり、屋根瓦にも刻まれている。最初、天台宗であったが、天正15年(1587)に曹洞宗に改宗した。「蚶満寺」の名の起こりは、神功皇后の干珠満珠の伝説から「干満珠寺」、「干満寺」となり、そして「蚶満寺」になったといわれる。そのほか、この地が古くは蚶貝が多くあったところから「蚶方」と呼ばれ、そのため寺の創建当時は「蚶方寺」といい、「方」が「万」に変わったともいわれている。天正15年(1587)には戦火で堂宇を失い、また、文化元年(1804)には地震による崩壊もあって、度々の再建を余儀なくされ、現在の堂宇は大正10年(1921)の建築である。文化元年の象潟大地震によって潟は陸となったが、象潟が歌枕の地として名だたる地であり、また、元禄2年(1689)に「おくのほそ道」の旅で芭蕉が訪れていることから、その足跡を訪ねて多くの文人墨客が訪れている。同寺にはその人々の俳句、漢詩などが記された「旅客集」十一巻(市指定有形文化財・筆跡)が遺っている。芭蕉の「おくのほそ道」の象潟のくだりには、この寺から眺めた情景を流麗で格調高い文体で描写している。また、文化9年(1812)には閑院宮家の御祈願所としての沙汰を受けるなど、古刹にふさわしい誠に多彩な寺歴を誇っている。このため寺には多くの史跡や宝物があり、旧参道は「おくのほそ道の風景地・象潟及び汐越」として国名勝に指定されているほか県や市の文化財に指定されている書跡や絵画、また、歴史の古さを物語る「七不思議」の伝説や由緒のある石碑等が今も遺っている。』
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16.5
喜寿之松・石灯籠・手水石。
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紅蓮尼の碑(紅蓮尼の顕彰碑)。
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コウレンセンベイで有名な貞女紅蓮尼は当地の出身。
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三千丸墓。※西行歌桜悲話(秋田の昔話・伝説・世間話口承文芸検索システムより引用)…『三千丸という若君がいた。母親が亡くなり、継母が来たが、継母や実の父の殿様にまで嫌われてしまった。ある時、継母が三千丸の膳に毒を入れた。この時三千丸の乳母の働きでことなきを得たが、三千丸は館の平和を願い、自害してしまう。乳母は三千丸とその母親を弔うために蚶満寺を訪れた。三千丸の墓はもうないが、西行桜の跡がこの物語を伝えている。』
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豊竹峯太夫塚(本國浪花)。
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巨木。
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芭蕉。
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鐘楼。
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鐘楼を守る猫様。
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蚶満寺(象潟町)~其之参』へ続く。其之参はモフモフです。
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