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蚶満寺庭園(にかほ市象潟町)』からの続きです。
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山門。にかほ市指定有形文化財。
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木造切妻造瓦葺の八脚門(12坪)。
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年代不詳。江戸中期の建立と推定。
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5.2
5.4
見応えのある彫刻でした。
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6.5
矢島藩生駒氏の奇進とされる金剛力士(仁王)像を安置。但し、拝観のしおりでは、「仁王尊等の作者は不詳」としています。
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7.5
瓦には菊の紋章が用いられており、これは閑院宮家祈願所となったことによるものです。
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標柱「蚶満寺山門」より…『建造年代は不詳であるが、江戸時代中期と推定され、矢島藩主生駒家から寄進されたと伝えられる仁王像が納められている。』
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閻魔堂。
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閻魔堂内。木札には「閻魔堂諸霊躰大修繕明治36年當山三十七世植木石英代・寄附人大町金清兵衛、妻女ユキ」とありました。
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閻魔堂横の苔生した大仏。
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松菴家之墓。
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周囲には地蔵菩薩、石灯籠、西國巡拝納経碑、陸軍歩兵上等兵勲八等功七級柴田仁造之碑など色々ありました。
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歌枕の地「象潟」を守った蚶満寺二十四世覚林和尚…『象潟は、平安時代の頃から八十八潟九十九島の風景を、能因法師・西行法師が歌に詠んだ歌枕の地として広く知られ、風流人にとっては、憧れの地であった。江戸時代には芭蕉・一茶など名の知れた文人墨客が数多く来訪した。しかし、文化元年(1804)の大地震で潟底が隆起し、陸地に変貌してしまった。経済的に苦しい本荘藩は、象潟の景観保持の方針を変更し、島々を崩して新田開発に着手した。蚶満寺は古くから象潟を寺領として維持管理の任にあった。二十四世覚林和尚は、寺領に対する不当な行為を改めるよう、嘆願書を送り、繰り返し交渉したが、開田は続けられた。覚林の奔走は続き、蚶満寺を閑院宮家の御祈祷所とすることに成功し、宮家の権威を後ろ盾に開田を阻止した。藩は藩命に背いたとして、蚶満寺に理不尽な行為をした。覚林は、身の危険を感じ、上野の寛永寺に逃れたが、謀られて捕らえられ本荘に送られた。牢に入れられること4年5ヶ月、冬の寒い日に牢死したという。覚林が命と引き換えに遺した島々と風景は「象潟」として国の天然記念物・名勝に指定され、往時を偲ばせている。この歴史と覚林和尚の功績を忘れず、感謝報恩の心で、語り伝えていくことを誓い、ここに記す。平成29年7月25日覚林和尚を顕彰する会』
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天然記念物象潟…『およそ2500年前に鳥海山が大きく崩れて岩なだれが発生し、海に流れ込んだ岩の固まり(流れ山)は多くの島々となり、やがて島々をかこむように砂嘴が発達して一帯は入り江となった。島々には松樹が茂り、水面に鳥海山を映し、松島と並ぶ景勝地として象潟は広く知られることとなった。しかし、文化元年(1804)6月の大地震によってこの地域は隆起して陸地となり、往古の潟は一変して現在の稲田と化したのである。象潟は、火山活動および地震による土地の変化を示す自然記録として学術上の価値が極めて高いため、昭和9年1月22日、国の天然記念物に指定された。文部科学省管理団体にかほ市』
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供養塔(黙仙書・施主宮腰伊七郎)。
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裏面碑文…『吾宮腰家者自従先祖住于象潟而亡父伊兵衛年少而航于松前後居住于小樽區明治三十三年逝去法名廣大院福譽良田耕雲寶積居士今茲相當十有七周年由是為祖先累代菩提蚶満寺鐘樓堂一宇改築寄附而乃建設此供養塔爾 大正五年五月二日小樽區宮越伊七郎』
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六地蔵(地震供養地蔵尊※文化の大地震)。
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象潟大震罹災死者一百年供養塔。
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蚶満寺境内案内図(蚶満寺の由来)より…『皇宮山と称し、古くは仁寿3年(西暦853年)に、比叡山延暦寺の慈覚大師円仁が開山したといわれ、はじめは天台宗に属していたが、のちに真言宗そして曹洞宗に改宗し、現在に至っています。正嘉年間(1257-1259年)北条時頼が諸国行脚の途中この寺に立ち寄り、「干満寺」と改めたと言われています。この干満の文字が神功皇后の伝説にある「干珠満珠」を連想させるところから、「干満珠寺」とも呼ばれ奥の細道には干満珠寺の名で出てきます。蚶満の名の起源についてはこのあたりを古くは「蚶方」と書き、寺名も「蚶方寺」であったものをいつの頃からか、蚶万寺と読みまちがえ、文字を改め、蚶満寺にしたといわれています。』
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ちなみにまだ山門付近で、有料の区域外です。なお、仁賀保挙誠の墓については八島神社の記事内にて紹介しています。『八島神社(にかほ市象潟町)』。
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ってことで有料区域内の記事『蚶満寺(にかほ市)~其之弐』へ続く。
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