東北最大級の道の駅象潟「ねむの丘」。

週末は中々混んでおります。駐車場もないくらい。その割館内に人がいないということは、皆さん展望温泉「眺海の湯」に行ってるんでしょうかね。

案内板より…『●にかほ市の紹介…2005年10月1日、仁賀保町、金浦町、象潟町の三町が合併し、「にかほ市」が誕生しました。秋田県南西部に位置し、南に鳥海山、西に日本海を臨む、山と海に抱かれた風光明媚なまちです。また、豊かな自然と歴史・文化遺産に支えられた「観光」、日本海の恵みを生かした「漁業」、電子部品を主体とするハイテク産業が集積する「工業」と豊富な資源に恵まれ、伝統ある文化と最新の技術がバランスよく共存するまちです。海岸線から直線16kmで標高2,236mの鳥海山の頂上があり、変化に富んだ自然が凝縮され、海、山の食材が豊富にあり、特に夏の「天然岩ガキ」は絶品です。また、トレッキングから本格的な登山、海水浴、温泉などの自然や、国指定の名勝、伝承芸能、史跡など歴史も楽しめます。2016年「鳥海山・飛島」が、日本ジオパークに認定されました。※鳥海山・飛島ジオパークは、秋田県にかほ市、由利本荘市、山形県遊佐町、酒田市で構成しています。[象潟]は、「おくのほそ道」最北の目的地です。1689年、俳聖松尾芭蕉は象潟を訪れ、紀行文には「象潟や雨に西施がねぶの花」と「汐越や鶴はぎぬれて海涼し」の2句を記しています。芭蕉が訪れたときの象潟は、無数の小島が浮かぶ「潟湖」でしたが、1804年の地震で潟湖は隆起し、現在の陸地になりました。1934年に「象潟・九十九島」は天然記念物に指定され、現在も水を張った田植え前の数日間は、往時の姿を偲ぶことができます。(詳しくは象潟郷土資料館へ。)[金浦]は、日本人初の南極探検隊長:白瀬矗中尉の出身地です。1872年、11歳の白瀬は寺子屋で「北極」の話を聞き、探検家を志して「五つの物(酒・たばこ・湯・茶・寒中の火)絶ち」を生涯続けました。1909年、米国の探検家が北極点の踏破に成功したことから、南極探検に転換し、いろいろな苦難を乗り越え、1912年1月28日、南極の南緯80度05分、西経156度37分に「日章旗」を立て、一帯を「大和雪原」と命名しました。(詳しくは白瀬南極探検隊記念館へ。)[仁賀保]は、TDK株式会社創設者:斎藤憲三氏の出身地です。1935年、世界最初のフェライトの工業化を目的として東京電気化学工業株式会社(現TDK株式会社)を設立しました。1942年、衆議院議員に初当選し、1969年まで5期務め、初代科学技術庁(現文部科学省)政務次官に就任するなど科学技術の振興にも尽力しました。(詳しくはTDK歴史みらい館、フェライト子ども科学館へ。)○上記紹介の各施設は、「にかほっと」観光案内窓口でご案内しております。●道の駅の紹介…1997年4月11日の登録を経て、1998年3月26日に東北で58番目、秋田県内で11番目の道の駅として開所しました。2015年1月30日、国土交通省から重点「道の駅」に選定されました。重点「道の駅」は、地方創生に向けたモデル拠点として国が取り組みを支援するもので、当時1,040カ所ある道の駅から当駅を含む35駅が選定されました。選定の主な理由は、豊富な観光資源を有する道の駅であり、秋田県及び山形側の玄関口として、秋田県内全域と山形県庄内地域の観光情報を発信する観光総合窓口機能を有し、由利本荘市の道の駅5カ所と連携して環鳥海地域の活性化に繋げていることなどです。約20,000坪の敷地に、トイレ、休憩施設、中核施設「ねむの丘」、にかほ市観光拠点センター「にかほっと」、無料Wi-Fi、足湯、屋外各種広場、EV充電器、駐車場等が整備されています。[道の駅象潟]トイレ、休憩施設、道の駅SPOT(無料ワイファイによる情報提供)[ねむの丘](毎月第3月曜日休業※温泉は7-8月を除く、物産館・レストランは4-11月を除く)1階:物産館(秋田県内土産品、地元特産品、日本酒、免税店)、軽食コーナー。2階:展望レストラン、宴会場。3階:多目的ホール、宴会場、個室※2名様-120名様。4階:展望温泉、温泉休憩所。6階:展望室(日本海・鳥海山・男鹿半島・飛島を一望する360°大パノラマ)※無料。足湯:フットスパあしほっと(最大50名様)※無料。広場:グラウンドゴルフ、バッテリーカー、遊具、四阿、西施像、松尾芭蕉句碑。[にかほっと]9:00-21:00(毎月第3水曜日休業※7-8月を除く)観光情報案内:観光協会職員が常駐し、秋田県内全域と山形県庄内地域の観光情報を提供。物産・飲食店:農水産物販売、土産品、飲食などバラエティ豊富な店舗が並びます。フードコート:施設内の飲食店の持ち寄りの他、誰でも自由に休憩できます。※持込OK。キッズルーム:約12坪(ボールプール、絵本、秋田杉ままごとセット、マグネットなど)』

案内図。
足湯「あしほっと」。

レストラン眺海へ。

うな丼とミニうどんのセット。

夏だったので天然岩ガキを追加。
6Fの展望塔へ。西に「日本海」、東に「鳥海山」と天然記念物の「九十九島」など、象潟町の自然を360度眺めることができます。
西施像。 西施像については『才の神神社(道の駅 象潟 ねむの丘)』の記事を御覧下さい。
晴れていたのですが、鳥海山は見えませんでした。
日本海側は気持ちよく見渡せました。
九十九島は田んぼに水が張られた頃か、黄金色になる稲刈り前がいいと思います。
夏だと島感がありません。
全然そこまで考えていませんでした。
せめて現地案内板及びパンフレット情報等を紹介します。
九十九島…『●その時、鳥海山が大きく崩れた…国指定天然記念物「象潟」は、「九十九島」という名でも知られ、親しまれています。九十九島をつくり出したのは、今から約2500年前の紀元前466年に発生した、鳥海山の山体崩壊と岩なだれです。山頂から大量の土砂が崩れ落ちてきて海岸部まで達し、日本海を広く埋め立てました。そのときに出来た多くの「流れ山」が島々の原形です。自然の奇跡と言えるこの風景は、先人たちから大切に守り継がれてきました。現在も多くの地域住民が島の草刈りや清掃、松の保護などの保全活動に取り組んでいます。●大地の巨大な動き…このときに崩れた土砂の量は約60億トン。山頂付近から最長25kmまで達しました。そのスピードは新幹線並みで、わずか5分程度でやってきたと考えられています。』

絹本着色象潟図屏風(県指定有形文化財)…『本屏風は、文化元年(1804)の大地震による陸化以前の風光明媚な象潟の景色を、余すところなくとらえた真風景である。このような広大な景色中に、四季折々にみられるこまやかな風情をも表現し、名勝の地象潟をうかがう上では、極めて貴重な絵画といえよう。作者牧野永昌は、本荘藩六郷氏の御用絵師で、法橋の位をもつ狩野派の画人である。』
鳥海山の噴火と神位の累進(2007.3.15・須田薫氏記)…『○飛鳥時代…578年の頃から養老元年(717)頃までの間、幾度かの噴火あり、この時期は、大和民族がこの地に入り出羽国を置かんとしていた時期に符号する。このことは大物忌神(鳥海山)は、朝廷より鎮護の神として祀られ、厚い信仰を受けるようになった一つの証しといえよう。○弘仁時代以下の噴火地震の回数…第1回-弘仁年間(810-823)~「三代実録」の記録による。(噴煙と地震)※承和5年(838)~正五位下勲五等を賜る。第2回-承和6年(839)~「続日本紀」の記録による。(噴煙と地震)第3回-承和7年(840)~従四位下に累進。(神封二戸賜る)(遣唐船の難破と大物忌神の噴火あり)第4回-嘉祥3年(850)~大地震あり、震源地は最上川口。(朝廷に現れた怪物が大物忌神の祟りと占われた。その上この地震で昔の「象潟」が出現したと伝えられている。)貞観4年(862)~大物忌神が「官社」に成る。貞観6年(864)~正四位上に累進。(蝦夷の地の加護を図る)貞観6年(864)~従三位に累進。(朝廷が大物忌神に祈願)貞観10年(868)~歴史書に初めて載る。(出羽国に国司を置く)第5回-貞観13年(871)~「三代実録」の記録による。(噴煙と地震)第6回-貞観15年(873)~正三位に累進。地震・暴風・流星等あり。(この時、朝廷では殺生禁断令を出す)※元慶2年(878)~蝦夷の反乱。(「元慶の乱」の事)元慶2年(878)~正三位勲五等に累進。(元慶の乱の必勝祈願)元慶2年(878)~正三位勲三等に累進。元慶4年(880)~従二位に累進(元慶の乱の鎮護と大物忌神への感謝)第7回-元慶8年(848)~「三代実録」の記録による。(噴煙と地震)第8回-延喜15年(915)~「扶桑略記」の記録による。(噴煙と地震)※延長5年(927)~「延喜式」の撰進される。(出羽国の大社に昇進し、「明神」と成る)第9回-天慶2年(939)~「本朝世紀」の記録にのる。(噴煙と地震)※天慶2年(939)~出羽国反乱・噴火の記録一度あるも神位なし。(歴史の記録としては正二位に累進)※元文元年(1736)~最高位正一位に累進する。第10回-元文5年(1740)~一年間鳴動し、噴煙続く。第11回-享和元年(1801)~荒神獄より噴火。(「新山」の形成を見る。)第12回-文化元年(1804)~「象潟」隆起し、現在の地形となり石塊噴出。(家屋倒壊多く、家畜(牛馬)の死無残なり)第13回-文政4年(1821)~鳥海山噴火。(噴煙と地揺れあり)第14回-昭和49年(1974)~山頂より噴煙と泥流あり。★承和5年従五位下勲五等の位階を忌受けて以来、累進を重ねて最高位にまでの進階を見る。★神位の累進は、噴火と密接な関係をもちながらも、その地域の鎮護と戦勝祈願。(朝廷では噴火地震は何者かへの「祟り」と考えていた)★大物忌神の位階勲等の対象は大物忌神であって神社ではない。』

6F展望塔へのご案内。

四季折々の眺望が楽しめます。
パンフレット「鳥海山はどうやってできた?」より…『○鳥海山のかたち…"出羽富士"とも称される鳥海山は、富士山のようなきれいな円錐形の「成層火山」です。鳥海山の大きさは、東西約26km×南北約14kmにおよび、主に安山岩という種類の溶岩でできています。鳥海山は噴火を繰り返して成長したり、ときに大きく崩れたりしているため、山の姿が南側と北側で大きく異なります。溶岩が流れてできた溶岩地形と、山が崩れてできた崩壊地形、この2つの地形によって、見る方向ごとに景色が変わることが、鳥海山の美しさの理由でもあります。○はじまりは約60万年前…鳥海山が火山として活動を始めたのは、約60万年前です。何度も噴火を繰り返し、大量の溶岩を噴出して、ほぼ円錐形の山ができました。約40万年前には標高2,000mぐらいにまで成長したと考えられます。約16万年前まで続いたこの火山活動がステージⅠで、現在の鳥海山の約3分の2の体積がこの時期に噴出した溶岩です。その後に出た溶岩の下になって、ステージⅠの岩は限られた場所でしか見ることができません。奈曽渓谷で見られる溶岩のおよそ半分から下の部分はこの時期のものです。』。パンフレット「鳥海山は崩れてできた?」より…『○積み重なったり崩れたり…火山の内部の地層は、溶岩や火山灰などが積み重なってできています。こうした地層はもろく崩れやすいため、地震や噴火などがきっかけで、山の一部が崩れ落ちてしまいます。これを「山体崩壊」といいます。鳥海山でもステージⅠ(約60万年前-約16万年前)のころから、何度も山体崩壊が起こっています。この崩壊でできたのが、鳥海山の形を特徴づけている東西2つのカルデラ(火山活動によってできた凹地)です。西側は、火口湖である鳥海湖や溶岩ドームの鍋森を含むカルデラで、直径や約2km、御浜付近が縁の部分にあたります。東側は、山頂付近が崩れてできた巨大な崩壊カルデラです。それまで標高2,300mほどあった鳥海山は、富士山のように美しい円錐形だったと考えられています。新山を取り囲むように切り立つ崖が、激しく山が崩れた様子を今に伝えています。○流れ山…にかほ市象潟から平沢まで広がる平らな土地の上に、高さが数十mの丘が1000個以上も点々とちらばっています。これは鳥海山の山頂にあった溶岩が、岩なだれを起こしてできた地形です。岩なだれによって、細かな土砂が平らな土地を作り、粉々に砕けた大きな溶岩のかけらが流れ山になりました。』
「山体崩壊」が起こるしくみ…『火山には、砕けた溶岩、火山灰、軽石などの崩れやすい地層が多くあり、もろくなっている岩石もあります。そこに水蒸気噴火や地震、マグマの貫入(地下にマグマが入り込むこと)などが起こると、それが引き金になって山体崩壊が起こります。』
航空写真。色々反射して写り込んでますが…。
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『蚶満寺(にかほ市象潟町)』
『八島神社(にかほ市象潟町)』



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