『鳥越観音 ~ 其之肆』からの続き。七丁目からスタート。
石段脇に小さな手水石や燈籠など色々ありました。
その中に最後の七丁目の石塔。
ゴールの七丁目!!と言っても、ここまでそんなに険しかったわけでも、距離が長かったわけでも、勾配がきつかったわけでもございません。写真が多くなったので記事を分けた分、長く感じるだけです。
石段を見下ろす。
奥の院階段下にいた方。
いよいよ奥の院へと上ります。
それにしてもうまいこと建てるものです。
奥の院入口。
奥の院入口から階段を見下ろす。
中にはスリッパであがります。電気があるのかは知りませんが、中は石に囲まれており真っ暗でした。
一応窓はありますがこの日は曇だったので真っ暗。
頭上にも気を付けましょう。
さて、鳥越観音は慈覚大師開基の伝説を残す古寺。代々天台宗修験で後世盛岡法輪院の末寺となります。周辺一帯は国指定名勝「男神岩・女神岩・鳥越山」に指定されており、四季折々の美しい風景を見せ、紅葉の景勝地となっています。
中世では糖部三十三所観音巡礼3番札所、近世では29番札所として知られています。観光上人による永正9年銘の巡礼札(岩手県指定有形文化財)の記録があることから、室町時代後半には観音巡礼の霊場として賑わっていたとされています。札は鳥越観音の他に、青森県南部町の長谷観音(33番)、同じく南部町の隅ノ観音(6番)、七戸町の見町観音(3番)の3枚しかなく、岩手県内では唯一のものとなっています。観光上人の巡礼札には、「岩屋寺へ可起分のぼり見おろせば松のあらしものりの声かと」という御詠歌が朱書きされています。
奥の院は鳥越山の切り立った崖(岩山の霊窟)に作られ、自然の岩穴を壁や天井に利用した懸造りのお堂です。霊験あらたかな観音霊場として数多くの参拝客が訪れています。約50mの絶壁の洞窟に慈覚大師作の観音像が安置されています。木仏で丈2尺3寸。
由緒としまして、人皇第50代桓武天皇の延暦の末頃、山城の国の住人鈴木雲客、観音の霊夢を天皇に奏上しました。天皇はおそれおおいことと思召し、奥州の果てなる鳥も越えざる岩山の霊窟を探すことを鈴木雲客に、本尊末社佛の作佛を慈覚大師に仰せつけられました。年改まり第51代平城天皇の大同2年(807)慈覚大師により開基されたと伝えられます。
慶長7年には、第27代南部利直公から寺領三石を賜り、寛文12年に第29代南部重信公が再興。奥院はこの頃に建てられたものと推測されます。建築様式も江戸時代初期の特徴を示しています。再建以降南部藩主の崇敬篤く、奥州糠部三十三観音巡礼29番札所となります。元禄元年に火災に遇い古文書及び多くの宝物を失いました。なお、平成15年10月にも焼失しており、平成17年に再建しています。御詠歌「いにしえの名のみを聞いて尋ね来る鳥越山とはこれぞこの山」。
正面(岩側)にある祠と磬子。
綺麗な花が供えられています。もしかして毎日のように花を供えているのかな。
祠の正面に見えるのは…
不動明王立像。本来不動明王は、右手に三鈷剣、左手に羂索を持っていますが、三鈷剣の刀身部分が折れており、左手には真新しい靴紐のような紐が結ばれていました。
不動明王の右隣り。一番立派な祠です。
祠前には金色に輝く白衣観音と、元禄美人(合成酒1.8Lパック)。
不動明王の左隣りにある祠。
薬師如来でした。
真っ暗だったので色々見逃している気もします。
こちらの祠は…
文殊菩薩っぽいです。
その隣は暗い上に更にガラスケース内なのでよく見えませんが…う~ん…何となく七福神的(布袋様)シルエットに見えます。
更にその隣の手造り感溢れる四臂観音。
最後に四丁目の分岐を新道方面に少し下った所にあった鳥越観音堂(奥の院)再建浄財奉納記念碑。其之弐でも言いましたが、一応この近くまで車で来ることは可能です。
鳥越観音参道入口付近から見た大鳥居。
以上、鳥越観音シリーズでした。
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