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尾去沢鉱山(鹿角市)』からの続きです。尾去沢鉱山学校1年くま組鉱太。
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坑道内は年間を通じて気温13度です。夏場でも上着やバスタオル等を持って見学してくださいとのこと。
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実はこの日は猛暑日。つまり尾去沢鉱山に来た最大の理由は「涼しい所に行きたかった!!」…ってことで余裕をこいて何も持たずに中に入ること数秒…
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「誰かダッフルコートを貸して下さい!」状態。
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片留中柱支柱(落石盤圧を防ぐ保安施設)。
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銅鉱脈。
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和銅元年(708)に尾去沢獅子沢にて村民が銅鉱を発見。天平21年(749)には近隣の田郡で金が発見されたと伝えられ、当初は金山としてスタートし、江戸時代前期より銅山となっています。産金が東大寺の大仏や中尊寺で用いられたとの伝説が残っています。慶長3年(1598)に南部藩の北十左衛門が白根金山を発見し、後に民謡「南部牛追唄」で「田舎なれども南部の国は西も東も金の山」と歌われる金山の一つとして開発が行われました。金が枯渇してきた元禄8年(1695)には銅鉱が発見され、別子銅山、阿仁銅山と並び日本の主力銅山の一つとなります。明治22年に岩崎家、明治26年に三菱合資会社が経営することとなり近代化が図られました。明治27年には坑内に電話が敷設され、明治29年には水力発電所の建設により住宅を含む全山に電気が通りました。日本の近代化、戦後復興の礎となった尾去沢鉱山ですが、不採算と銅鉱石の枯渇から、昭和41年に精錬が中止され、昭和53年に閉山。
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江戸時代から伝わる尾去沢鉱山発見の物語が『大森親山獅子大権現御伝記』の陸中の国鹿角の伝説に残されています。文明13辛丑年(1481)、尾去村の奥の大森山から、翼の差し渡し十余尋(約20m)にもなり、口から金色の炎を吹き、牛のほえるような声を立てる大鳥が現れ民百姓は恐れました。尾去村の人々がこの大鳥を滅ぼしてくれるよう毎夜天に祈ったところ、ある時、大森山の方で鳥の泣き叫び苦しむ声が聞こえ、これ以降はこの怪鳥が飛んでくることはありませんでした。不思議に思った村人が声のした方を訪ねると、赤沢川が朱色に染まっており、その元には大蛇の頭、牛の脚を持ち、赤白金銀の毛を生やしたかの怪鳥が傷つき死んでいました。腹を裂いてみると、金銀銅鉱色の石だけが充満していました。村長が思うところ、夢に白髪の老人が6度も現れ、新山を開けと告げていましたが、この山のことであったに違いないと、辺りを掘ってみたところ鉱石が発見。これが尾去沢鉱山の始まり。人か神か、誰が怪鳥を倒したのかと訪ねまわったところ、大森山の麓に獅子の頭のような大石が地中より出ており血がついていたことから、この神石であったものであろうと考え、大森山は獅子の体、連なる山々は獅子の手足であるとして、社を建立し、怪鳥を埋め奉り、大森山獅子大権現としました。※この伝説の物語についても公式HPにより詳細に掲載されています。
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明治以前の尾去沢鉱山の歴史…尾去沢地域には、東に西道、五十枚、南に赤沢、長坂、槙山、西に元山、田郡、北に崎山などの金山や銅山がありました。これらの鉱山は、それぞれの開発の年代も異なり、相互の結びつきもなく幕末まで別々の鉱山とされていました。
和銅元年(708)尾去沢銅山発見の伝説が残されている。
天平21年(749)この年尾去沢田郡で産金、朝廷へ献上したと伝えられる。
文明13年(1481)「大森親山獅子大権現御伝記」によれば、この年獅子沢、赤沢で銅発見。
天正18年(1590)豊臣秀吉、東北仕置を行う。尾去沢の諸鉱山は、盛岡南部氏の所領となる。
慶長3年(1598)後に金山奉行となる南部藩士北十左衛門、白根金山(小真木鉱山)を発見し開発に着手。
寛永20年(1643)その後五十枚金山(慶長4年)、西道金山(慶長7年)を開発。
寛文6年(1666)白根金山で多くのキリスト教徒が捕らえられ処刑。
元禄8年(1695)田郡で銅鉱を発見。続いて元山、赤沢でも銅鉱を発見。繁栄を極める。
正徳5年(1715)長坂銅山、崎山金山を発見。
明和2年(1765)幕府より長崎御用銅65万斤の出銅を割当てられる。買い上げ価格が安かったことから著しく藩の財政を圧迫。
寛政元年(1789)南部藩が直接経営に乗り出す。
文久3年(1863)産銅わずかに20万斤となり幕府に減銅を乞う。
慶応元年(1865)アメリカ人の指導により発破(火薬による採掘)試験を行う。産銅100万斤を超える。
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明治以降の尾去沢鉱山の歴史…尾去沢鉱山は、明治に岩崎家(三菱)に鉱業権がわたり、以降閉山までの約90年の間、三菱の経営により銅山として最大のピークを迎えました。当時の日本は産業とのあらゆる面で近代化が進められたので、銅などの金属は産業近代化のうえできわめて重要な資源であり、その増産は国家的要請でもありました。また、終戦後、我が国の産業復興とともに資源少国における貴重な存在として高度成長をささえました。その後、海外での大規模鉱山開発が進み、世界的な過剰生産と急激な円高により銅価格が低迷したことや尾去沢鉱山の銅鉱石が枯渇したことにより、昭和53年1270年にわたる長い鉱山の歴史に幕を閉じました。
明治元年(1868)南部藩は、鍵屋茂兵衛に採掘権を委任する。
明治5年(1872)大蔵省が没収(尾去沢銅山事件)、その後岡田兵蔵、更に東京府鉱業会社の経営に移る。
明治7年(1874)岡田兵馬が借地稼行する。
明治22年(1889)岩崎家の稼業となる。反射炉を設置。
明治26年(1893)三菱合資会社の経営となる。薪木燃料火力発電所設置、坑内ポンプ、巻揚機に電力使用。
明治27年(1894)田郡大切坑内に電気巻揚機を設置。構所内に電話、電灯を設置。
明治29年(1896)水力発電所の建設に伴い東北地方で最初の全山電化を行う。
大正5年(1916)巻揚機より出火、選鉱場全焼。
大正6年(1917)浮遊選鉱法による最新式選鉱場を新設。
昭和11年(1936)中沢鉱滓ダム決壊、死者374名の大災害発生。
昭和15年(1940)月粗鉱7万トン処理の増産起業を行う。
昭和18年(1943)超非常時増産態勢で月産10万トン、従業員4,486名と最高を記録。
昭和25年(1950)財閥解体に伴い太平鉱業㈱の経営となる。
昭和27年(1952)社名を三菱金属鉱業㈱に改名。
昭和28年(1953)集約排水坑道として太平坑(延長2,725m)完成。
昭和41年(1966)製錬部門廃止。74年の歴史を閉じる。
昭和43年(1968)品位低下と銅価格低迷のため操業規模縮小。
昭和47年(1972)三菱金属鉱業㈱より分離し尾去沢鉱山㈱となる。
昭和53年(1978)銅価格の低迷と鉱石の枯渇により閉山。
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鉱脈採掘跡。地球の生成時生じた断層に、900万年前の火成活動により鉱液が噴出し、断層を充足して形成された鉱石をシュリンケージ法により採掘した跡である。即ち地球の生成時生じた断層の再現である(案内板より)。
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鉱脈大規模採掘跡。
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案内板の説明は上に同じ。
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寒い…
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ゆっくり見たいけど…寒い。
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たまに上から水滴も落ちてきます。
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ブラタモリ気分です。
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案内板の内容がまったく同じ…。
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夏休み中の子供たちは元気です。
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突然現れるヘルメット。ここから先は危険なため…
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というわけではなく、記念撮影用です。
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シュリンケージ採掘法。坑道には最初鉱脈に向かって掘る坑道(立入)と鉱脈に逢着した後鉱脈に沿って掘る坑道とがあります。また、坑道は深さ30m間隔で掘られていますが、上の坑道と30m下の坑道で同じ鉱脈を確認しますと、下の坑道より脈に沿って上向きに坑道を掘ります。これで鉱脈の3面(上下横)が確認されますが、確認された坑道で、脈の幅や品位(銅の含有率)を調査した後、その区画の鉱石の量や銅の含有量を推定し採掘に着手。採掘は削岩機により直径2cm、深さ1.0~1.8m程度の孔を数多くを掘り、これに火薬をつめ同時に爆発(発破)させて鉱石を採取。火薬としてはダイナマイトが使われますが、昭和40年代からは安価な硝安爆薬(ANFO)も使われました。火薬への点火は導火線が用いられましたが昭和30年代からは電気発破が主流となります。採掘された鉱石は、坑道の下部より抜き取られ、鉱車に積み込み立坑へ運ばれます。立鉱では鉱車を1台ごとにエレベータ(ケージ)で巻揚げ通洞坑を経由して坑外の選鉱場へ送られました。鉱車の牽引には、主に蓄電池式の機関車が使用されましたが、多くの鉱車を牽引する場合には、電気機関車も使用されています。採掘跡は通常岩盤の崩壊を防止するため坑内で掘られた岩石(ズリ)を充填しますが、尾去沢鉱山の場合岩盤が堅固であったことから、シュリンケージ採掘法と呼ばれる採掘方法が採用され、採掘跡がそのまま残されました。
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①開坑…レッグドリルと呼ばれる横向きの削岩機を使用して鉱脈に穴を開け、その穴に火薬を詰める。それから爆発(発破)させて鉱石を砕き水平に坑道を掘る。
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②上向採掘準備段階…ストーパーと呼ばれる上向きの削岩機を使用し、穴を開け発破を行う。次に足場を組み、漏斗(排出口)・人道(人の通路)の取り付けを行い、上に向かって穴を開け発破、上向採掘を開始する。
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③上向採掘…上向採掘して砕いた鉱石を足場にして更に穴を開け発破を行う。この作業を繰り返し、28m掘り上げる。
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④採掘終了鉱山搬出…28m掘り上げて、1レベルの上向採掘終了。最後は砕いた鉱石を漏斗から鉱車に積み込み、選鉱場へ搬出する。
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尾去沢鉱山全体図…『鉱山の中は、坑道が鉱脈に沿って15段になっており、1段(1レベル)の高さが30m(28m空洞+2m床)です。よって、全高450mのビルのように坑道が掘られています。』凄いですね。
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山神宮。採掘当時は坑道の外に祀られ、鉱員が鉱山繁栄や作業安全を祈願しました。
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社号標「山神宮」。
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社殿。
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文政9年丙戌5月12日。願主権八、金工長七、同與助、長之丞。
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酒の貯蔵庫…『坑内の気温は、四季を通じて11-13℃ときわめて変化が少なく、ワインの熟成には最適の条件であり、この環境の中でワインは今静かにいきずいております。』
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古酒の蔵…『日本酒を3年間以上熟成すると長期熟成酒即ち「古酒」になります。古酒は、色調が濃く、シェリー酒や老酒のような重厚な香りを持ち、重厚でほどよい苦みと後味のよさを有します。利用をご希望の方は、弊社事務所へお申し込み下さい。』利用できるんですね。
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「奉納伝説の里 鹿角の地酒 鹿角千歳盛 松風 八幡平」とありました。
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こちらは熟成貯蔵場の「地底の神秘」。
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先へ進みます。
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珪質緑色凝灰岩(SILICEOUS GREEN TUFF)。
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38.5
祈願所。
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カプセルを投入するシステムです。
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先に進みます。この先には標準コースと特別コースの分岐があります。体は冷え切っていますが特別コースに行きます。
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ってことで『尾去沢鉱山(坑道見学)』へ続く。
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