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『現在の主要地方道弘前・岳・鰺ヶ沢線約45kmは、弘前と鰺ヶ沢を結ぶ山岳観光道路であるが、かつては百沢街道と呼ばれ、藩政時代には弘前から領内各地及び他国に連絡する街道の一つで、西浜街道と共に弘前城と西海岸地方を結ぶ重要な街道でありました。百沢街道は、弘前城の追手門から新町、駒越を通り、駒越の渡しで岩木川を渡り、熊島、賀田、五代、宮地から岩木山東南麓の新法師に至り、百沢を経て同南西麓の岳、湯段温泉に達し、枯木平の峠を越えてからは同西麓の中村川に沿って下り、日本海西海岸地方の鰺ヶ沢舞戸に至る街道で、その沿道には津軽藩発祥の歴史に係る藩祖津軽為信の廊所革秀寺、津軽家の旧居城大浦城愛宕山橋雲寺、北門鎮守岩木山岩木山神社、四代藩主を神葬した高照神社、藩政時代に開かれた岳・湯段温泉などがあり、津軽領内では藩主の巡検・参拝を始めとして比較的人々の往来が多い街道でありました。百沢街道には、藩政時代の元禄年間に街道並木として松、ハンの木、タモの木等が道沿いに植えられたとあり、現在宮地から新法師間に32本、新法師から百沢間に79本の松並木が現存し、この内108本が良好な松並木を形成しております。また百沢から岳間約5kmには明治25年に湯段温泉の柴田長兵衛が植えた318本の松並木が立派に成長し、更に岩木町が昭和60年から11年をかけて宮地から枯木平に至る約20kmの県道沿いに、町内外の協賛者を募り約6500本の山桜を植樹、世界一長い桜の並木を整備してきたところであります。青森県ではこの様な貴重な歴史街道である百沢街道の松並木を、保存、整備をして後世に残す新規施策「並木の道整備事業」として取り上げ、百沢街道(県道弘前・岳・鰺ヶ沢線)の宮地-岳温泉区間延長7182mを平成3年から整備したもので、名峰岩木山の山麓を自然に親しみながら散策できる、自転車・歩行者道の機能をもった遊歩道であります。』
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『天つ日を高根に仰ぐ身にもなほ浮世の雲のかかりける哉』大正十一年十月十四日桂月
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並木のみち。
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4.4
4.8
碑から見た岩木山。         
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文学碑碑文「紀行文」…『社務所よりの人夫、石田郡書記に代りて、山の案内を為す、祠の左側より上る。三四町四方開けて、桜の若木幾万株なるを知らず。傾斜の稍急なる裾野、中腹以上に及ぶ。上下左右の眺望開く。焼止りといふ処より一転して、渓谷を上る。それにてもなほ後の眺望あり。渓流の源なる錫杖水を一掬して舌鼓うつ。人夫握飯を取出して食ひ始む。天下の霊水に勇気百倍したる身、間近き頂上へと心せかれて、空しく其食ひ終るまでは待たれず。巌石の帰路を攀ぢ、鳥海峰を左にして、岩木山の主峰の頂にとりつけば、種播苗代とて小沼あり。御倉石、一に銭箱石とて、二巨巌直立せるを左に仰ぎ、一の坂を上りて二の坂、又も小沼の側を過ぎて三の坂を上り果つれば、こゝは絶頂也。尖るには尖れるが、可なり広くして、数百人を立たしむるに足る。奥宮東面す。北に支峰の巌鬼峰を見下す。頂上は一体に樹木なく草もなきが、少し下りて東より北にかけては、偃松蔓衍す。岩木山神社より四時間を要したり。少しおくれて、人夫も来れり。酒を先づ祠に供へて、飲める口の人夫と分ちて飲む。もとの津軽領脚下にあり。南部領の山も見え、秋田領の山も見ゆ。見ゆべき筈の日本海は雲に封ぜられたり。この山海抜一千六百二十五メートル八甲田大岳より四十メートル高くして、陸奥第一の高山也。麓を一周するを得べく、富士形を成して、津軽富士の称あり。上部は巌石峨々として、山容雄抜也。下よりの観望は岩木山優里、上りての展望は八甲田山優れり。八甲田山には御花畑の美観もあり。岩木山を陸奥山岳の父とすれば、八甲田山は母也。共に天下の名山たるを失はず、駒ヶ峰群峰は叔父、恐山は叔母とも云ふべくや。帰りは別路を取りて岳温泉に下らむとす。御倉石の後に廻りて鳥海峰に取りつけば、噴火口深く凹み、絶壁の巌石、世にも怪奇也。絶壁は南に及ぶ。その絶壁を見上げ、幾多の小噴火口を見下しつゝ、鳥海峰の頂より少し下を南に行く。十数町の間は、亦岩木山上の一奇観たるを失はざるが、いつしか深く凹める小渓谷即ち路となりて、人は流水と共に下る。身は樹木に封ぜられて、天を見ず。足よりも多く手を用いざるを得ず。岩木山中の難路也。温泉湧出する処に至りて、始めて天を見る。一の湧出口は岳温泉に引き、他の湧出口は岩木温泉に引けり。路もらくになり、気もはれやかになりたりと思ふ間もなく、岳温泉に達す。-紀行-「岩木山より暗門滝へ、三、岩木山」より抜粋』
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『暖かき日影を負ひて山草の錦をわくる秋の山かな』大正十一年十月十四日桂月
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裏面碑文「文学碑建立に寄せて」…『青森県の最高峰・岩木山(標高1,625m)は、青森県を代表する名山であり、古くから神のお山として人々から信仰の対象にされ崇められてきた霊峰である。古来より岩木山を訪れてその端正・華麗な山容に魅せられ、歌や俳句を始め紀行文を表した文人墨客も多く、その中の一人に明治・大正期を代表する文人で紀行作家「大町桂月」がいる。桂月は五度目の来県となった大正十一年十月に岩木山神社を参拝され、百沢口より登頂して眼下に広がる津軽平野の展望を賞賛・堪能した。この登山での情景を五首の和歌・俳句に詠み、後日、岩木山の素晴らしさを表記の「紀行文」で世に紹介している。ここに、岩木町と桂月の繋がりから、岩木山に係る桂月の作品を紹介し、この地を訪れた桂月の思いが末永く語り継がれることを願い、併せて青森県の文化観光立県宣言に協賛し、この碑を建立するものである。平成十一年十月十四日岩木町長田中元(表刻の歌は桂月翁の直書より採字転写したものである。)』
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近くの地蔵茶屋。写真はありませんが五平餅頂きました。
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出世地蔵尊。
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出世地蔵尊縁起…『信仰とは、人間の生きる力であろう。死者再生の出世地蔵尊は、この地で、遭難凍死した人たちを供養するため、講中の堀江幸治が発起人となって川竜院、月峰院、盛雲院と相談し、昭和3年に造立したものである。地蔵尊は、現世と来世の境界に立って、人間を守る賽の神である事から、毎年縁日に厚く崇められてきた。ここは境の神が住む、賽の河原であり、山中あまねく慈悲の光りが輝き、人々の願望を叶えている。』
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出世地蔵尊建立由来…『往時この地峻嶮悪路為に尤も冬季に於て行路者の遭難多し依て茲記の人々発願者となり一基の尊像を建立し以って受難者諸人の礼を弔い并せて後世除難安穏の憑願とす。昭和三十五年五月廿四日吉辰日』
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鳥獣供養碑…『岩木町ハンター倶楽部発足以来十余年を迎え、この期にあたり今まで農林水産の振興のかげに狩猟鳥獣として捕獲され、あるいは有害鳥獣として駆除の犠牲となったあまたの鳥獣の靈を心から慰め供養すると共に近代狩猟の理念に脱皮しいついつまでも我々ハンターの心の道標となる事を念じて茲にこの碑を建立するものである。昭和五十七年八月十五日岩木ハンター倶楽部』
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