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笹野観音堂(米沢市)』からの続き。
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漱口場。
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水は観音像の前で龍の口から注がれます。昔より笹野は神仏を畏れ敬って、正月の7日間(現在は3日間で別火も無し)を肉や魚等を食せず、他人と同じ火を使用しない精進別火で、穢れ無い清らかな身体で正月を迎えました。昔も守れない人が多く、罰が当たった人はこの水で口を漱げば罪は消え、もし本人が来れなければ代人がこれを謝し漱水を注ぎ浸せば治癒すと伝えられています。
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笹野観音堂(平成19年3月16日指定)…『天保14年(1843)に建設された社殿様式の観音堂で、桁行3間、梁間4間の四方に縁を巡らす。木造入母屋造で、正面に千鳥破風と軒唐破風を設け、屋根は素朴な茅葺で重厚さを保持している。前面3間分に向拝を設け、豪華に飾る龍・兎・鳳凰・象等の彫刻類には透かし彫り・篭彫といった巧緻な技法がみられる。一方、建造年代を示す棟札や建設に関わる記録書類及び建設図面が現存しているのも特徴である。笹野観音堂図は、当時の大工棟梁であった渋谷嘉蔵の子孫宅(長井市)に大切に伝えられている。このように笹野観音堂は、建築年代の明らかな建物として、江戸時代末期の建築技術を窺うことのできる貴重な建造物である。』※笹野観音堂HPに鮮明な資料写真が掲載されています。
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笹野観音堂正面立面図。
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笹野観音堂棟札。
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松尾芭蕉句碑(高さ145cm・幅68cm・奥行51cm)…『ものいへば唇寒し秋の風』。梅花堂稲丸社中として7人の名前が刻まれています。
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『「物いへは唇寒し秋の風」。この句碑は文化9年(1812)松尾芭蕉の120回忌を翌年に控え、父についで藩の医師で、また俳号を稲丸と稱していた山口彭寿が、社中の協賛を得、翁の追善のため建立寄進したものである。』
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山口立玄句碑(高さ95cm・幅44cm・奥行60cm)…『長閑さやうまれたまゝのひがし山』。文化12年に亡くなった米沢の藩医。如是坊は俳号で当地の俳諧が盛んな頃に活躍した人。命日等が刻まれることから、同じ藩医で俳句でも活躍した子、梅花堂稲丸こと山口彭寿玄吉か、その徳を慕う者達が建てたと考えられています。
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「笹野山を経て愛宕山に至る」という標柱があります。
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その先徒歩8分ほどの場所に巡礼場があるようです。残念ながら笹野西国三十三観音巡礼場(手引観音→三十三観音→善光寺)は時間の都合上回れませんでした。
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なお、今回紹介する場所以外に、雷神堂(北東へ100m程)、大日堂(東へ700m程)、子育地蔵堂(仁王門から100程下った参道の南側)がございますが、こちらも時間の都合上回れず今回は紹介いたしません。
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不動堂。
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三股不動と呼ばれる石のお不動様。元は境内を流れている小川の水上、門前の家々の水源である三股という所に祀られていたそうです。昔から門前若衆が祭りを担当し、境内に移った今も、門前若者会が毎年5月8日に祭礼を行っています。
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石灯篭一対と湯殿山碑。
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16.5
手水石ですかね。
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上部は面白い形をしています。
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延命地蔵菩薩。かなりの大きさです。天保3年に地蔵菩薩を信仰し御利益を頂いたと大地蔵尊建立を発願した父の意志を継ぎ、渡部伊右エ門広繁が建立。渡部伊右エ門は今の門東町(米沢税務署や米織会館の所)に屋敷を構え、絹糸等の原糸や古着を扱う問屋「大和屋」を営む豪商で、観音堂や仁王門再建の大施主を務める熱心な信者だったそうです。
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基礎及び台座は米沢の赤崩石、身体は上山の川流石で造られており、総高約5mの県南一の石像で、費用は450両と云われます。
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魔尼殿(幸徳院本坊)へ。平成3年再建。御本尊の大日如来は隣寺の長厳寺が廃寺となり一時諸仏の大日堂に移り、後に本坊の御本尊として祀られました。
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併設された位牌堂の御本尊、釈迦如来も長厳寺より移られた仏様で、藤原末期から鎌倉初期にかけて地方仏師により刻まれたとする木造一木造りで、幸徳院檀徒の御先祖様をお守りしています。
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魔尼殿から観音堂方面へ戻る途中に松尾芭蕉句碑(天保14年10月12日・高さ240cm・幅120cm・奥行90cm)がありました…『観音の甍みやりつ花の雲』
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芭蕉が病床の身で、江戸深川の芭蕉庵から深川の浅草の観音様越しに上野の桜を見て詠んだ句とされています。天保14年は俳諧の祖翁と仰がれた松尾芭蕉の150回忌にあたり、報恩感謝の供養のため建立されました。俳号、二妙庵晋ふ山の富豪高橋六左エ門を筆頭に、米沢俳諧に活躍した郁甫こと勝野半助が世話方として建立。
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本堂納繕千人講中碑。
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笹野観音堂縁起…『昔、征夷大将軍坂上田村麻呂が国家の乱れが鎮まって国が治まり、安らかな世に成ることを願って千手千眼観世音菩薩を迎えて祀り、また旅の僧が川をさかのぼる霊木を見つけて像を刻み、笹野村の鎮守、羽黒大権現として村人に祀らしめ、笹野山(裏の山)の中腹に観音様の御堂と羽黒大権現の御社が有ったと伝えられている。大同元年(806)4月、現在の地に新たに8間4面の本堂を建立。弘仁元年(810)7月、落成して入仏供養を行う。会津の名僧徳一上人を開山第一世とす。後、羽黒大権現も本堂の中に併せ祀るようになると、門前を騎馬にて往来するに必ず落馬し負傷する者も多く出て、長いの宥日上人を招いて並び祀る羽黒大権現を秘仏として薦包みにし、更に新刻の千手千眼観世音菩薩を安置し益々霊験あらたかをもって聞こえ名刹として広く信仰を集める。天正5年(1577)4月伊達政宗公開帳供養を行う。慶長6年(1601)上杉2代藩主景勝公本堂を修理される。景勝公の祈祷師、庄内の羽黒山別当の養蔵坊清順が羽黒山より御神体の分神を移し、本堂の裏に後神として羽黒大権現を再び祀る。寛永11年(1634)上杉3代藩主定勝公本堂を修理される。慶安5年(1652)上杉4代藩主綱勝公本堂を修理される。寛文6年(1666)上杉藩主喜平次公(後の綱憲公)本堂を修理される。元禄3年(1690)上杉5代藩主綱憲公本堂修理される。安永8年(1779)上杉10代藩主治憲公(鷹山公)本堂を再建される。天保4年(1833)正月、火災により秘仏は難を逃れるもその他焼失。天保14年(1843)上杉13代藩主斉憲公、領内隅々よりの喜捨によって本堂を再建、6月落慶し各宗派の寺院により7日間行事が行われた。古より霊験あらたかをもって、歴代の国主から民衆に至るまで広く信仰を集めて現在に至る。昔より毎年、蘇民将来(笹野彫の起源と思われる)という無病息災の御守りを彫刻するをもって、当地には流行りの病無く産婦に怪我無しという。里人は精進別火と称して鳥獣等の肉や魚を食さず、又他家の者と同じ火を使用した食物を口にせず、元旦より7日間を過す。もし過って食し禍あれば、代人参拝し謝して漱口場の水を持ち、当人に注ぎ浸せば禍消えるという。正月8日に柴燈護摩を行い精進別火が明けた。今は正月3が日を肉魚等を絶ちて精進として伝えられている。笹野の里に伝わる笹野彫は、観音様参拝の縁起物として農民の手によって伝承されてきた信仰の所産である。〇年中行事:正月3日大般若転読会。正月17日十七堂祭、柴燈大護摩供、火生三昧(火渡りの行事)。7月17日十七堂夏祭。長命山幸徳院笹野寺』
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笹野彫記念塔。
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笹野彫記念塔碑文…『笹野彫は遠く慶長の昔米沢中興の英主上杉鷹山公の産業奨励により笹野の里の人々の特技として起り鶏の如く早起し兔の餅つきの如く勤勉に簔笠つけて働けば鷹の如く禄高を増し恵比寿大黒にあやかり福徳圓満をむかえ蘇民将来の子孫の如く無病息災にして亀の如く長生きし鶺鴒の如く子孫繁栄することの縁起を有つ古い伝統の民芸玩具である。現代に於ては更に米沢が誇る特産品として笹野花と創作の数々を加え美しく巧妙なる郷土民芸品として内外に賞賛を博することとなったのである。昭和38年5月7日』
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