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土深井裸まいり(市指定無形民俗文化財)で有名です。江戸時代初期、米代川の洪水により田畑が流され、疫病流行したことから、厄除けや悪病退散を願って冷水で身を清め、稲荷神社に祈願したのが始まりと伝えます。隔年旧暦1月19日に行われていましたが、近年は2月第3日曜日に行われるようになったそうです。参加するのは男衆のみ。極寒の中、下帯一枚で冷水をかぶって水垢離をとり、新しい下穿きと足袋に草鞋を履き、サラシを胴に巻いてザンバラ(藁の腰飾り)を付け、口には白紙をくわえます。太鼓の合図にて約15mの大注連縄を担ぎ、稲荷神社の第一の鳥居に奉納。その後、地区内の八幡神社、駒形神社、山神社の順に五穀豊穣、無病息災を祈願し、最後に神木に両手でてっぽうをして力を授けてもらいます。この間は無言で歩き、粛々と行われます。履いていた草鞋も一之鳥居へ奉納されています。
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さて、土深井稲荷神社の鎮座地は秋田県鹿角市十和田末広中平。かつての土深井村です。南部藩領。米代川が大館盆地に向かって西流する左岸に位置し、秋田藩領との境界。藩界を越えて西に三哲山があります。南の山中には土深井鉱山があります。土深井鉱山は集落名に由来しますが現在の尾去沢鉱山のことです。土深井鉱山は明治35年以来、長岐茂幹・乳井正治・清水隆蔵の経営を経て我が国の重要鉱山となり、昭和4年には藤田組の経営となり、昭和9年鉱区は三菱鉱業に買収され、尾去沢鉱山の一部となり、同鉱山の4番坑と結ばれました。土深井駅も元は秋田鉄道の尾去沢駅として鹿角郡錦木村に開業され、昭和17年に土深井駅に改称されています。かつては駅と尾去沢鉱山の山元とを馬車鉄道により結ばれており貨物で賑わいました。「奥々風土記」には「土深井村、登夫加為と云」とあり、菅江真澄の「上津野花」には旧名は飛貝といい、山の谷に溝貝(どぶかい)が埋もれているのが地名の由来であると記されています。「邦内郷村志」に、蔵入高68石余、馬60、戸数27、関所、稲荷社、高梨館が記録されており、中世の高梨村であることがわかります。境目番所・口留番所と呼ばれた関所は、鉱山資源の存在を背景に、中世末期の秋田安東氏と南部氏勢力の鹿角をめぐる抗争の歴史を前提にしており、御境稲荷はこの国境紛争での境界の移動に困惑した土地の人々が、鹿角側土深井の稲荷社と相対した沢向こうの秋田藩領沢尻村にも稲荷を建て、両社で境界線の安定を守ってもらおうとしたものです。明治戊辰役には南部側総大将楢山佐渡の本陣が置かれました。地租改正を機に花輪・毛馬内通の区分を越え、明治9年に末広村の一部となります。
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高梨館腰廓跡に鎮座。高梨館は築城時期及び廃城時期ともに不明。鹿角四頭の秋元氏の一門高梨子氏が居住。子が無く断絶した後、文明年中に糠部三戸から来た部下である奥四郎左衛門が明暦元年に当館に居住。
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正面の山に社殿が見えますね。
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参道はこんな感じです。本当に参道があるのか不安になるかも知れませんが安心してください。土深井裸まいりでもこのように上っていますから大丈夫です。って言いたかったのですが、私が参拝した頃は草が伸び切っており、ほぼ参道が見えず、必死に上ったので参道途中の写真はありません。この状態ならば真冬だとしても土深井裸まいりの直後の参詣の方が楽かも。
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二之鳥居。
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二之鳥居の先は橋です。
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米代川へと繋がる土深井沢川を渡ります。かつて藩境となっていた川であり、現在は大館市と鹿角市の境となっています。
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途中の眺望。眺望を楽しむ余裕はありません。必至で草をかき分けております。
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参道途中の八幡神社。
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社殿内。
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本殿。
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八幡大神御神影彫刻。
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八幡大神像と山神かな。その横には草鞋。
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八幡神社から先はようやく石段が見えました。
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土深井稲荷神社(高梨館稲荷神社)。創建不詳。嘉永元年再建。御祭神は倉稲魂命。
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拝殿神額「正一位稲荷大明神」。
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拝殿内。
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手水石。
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石灯篭一対。
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狛犬一対(平成23年2月1日)。
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一之鳥居の近くには土深井御番所跡があります。また、近くの土深井集会所裏手には駒形神社もあります。
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尾去沢銅山からの荒銅駄送の近道として貞享元年(1684)に新たに十文字道と土深井改め番所がつくられました。銅荷は土深井から秋田領沢尻を経て十二所まで駄送。
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史跡土深井御番所跡…『貞享元年から尾去沢銅山より大阪へ幕府御用銅運搬改番所であった。』
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