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青森県下北郡佐井村長後福浦川目。福浦診療所隣。
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かつての長後村。枝村に福浦村・牛滝村がありましたが、江戸期はそれぞれ一村として扱われることも多く、福浦村が文化元年、牛滝村が安政年間頃に当村に吸収されました。牛滝村より村落規模は小さかったものの、佐井村に近く、交通の便において他の2ヶ村をしのいでいたために本村としての地位を占めたと思われます。当村は江戸期を通して地先の小規模な漁業と山子労働によって再生産を行っていました。湊は田名部五ケ湊・田名部七ケ湊としての指定はありませんが、廻船の入津があったことが「雑書」寛文12年4月20日条にみえます。享保6年には天当小廻船が3隻。廻船問屋に池田屋があり、松前・庄内・越後・津軽方面に廻航。地先の海産物はこの池田屋に納められていました。
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嘉永3年の松浦武四郎「東奥沿岸日誌」には当村の様子について「此辺浜形北向にして小湾、図合船かゝり宜、沢には少し稗并野菜畑も有也、人家二十五六軒、漁者にして檜山稼並松前出業、畑等を作る故至而富り、又春より秋迄は男といふもの八十歳より下と六十歳己上のミ居るよし、ミな松前へ至るときけり、扨此処にて草鞋を一足無心致したるに、皆佐渡わらじにて彼地より来るといへり、一足代三十弐文」とあります。当村は檜材を中心とする林産業が盛んで「隠し山」があったとされます。享和2年には佐井村与作により喜平次沢山31両、4800石の入札が行われています。菅江真澄は「奥の浦うら」の中で、源藤次郎(脇野沢村源藤城)付近にて「此あたりは、山子とて杣山賤をわざにて、そぎた(枌板)のみつくり」と記していますが、長後も同様で、明治中頃まで組を作って枌板の生産を行っていました。「原始謾筆風土年表」に長後銅山についての記載がみえ、宝暦4年「山形より来て佐井に住セし樋口浅右衛門長後銅山興さんト謀」とあり、天明5年「田名部、丸山荘三郎受負しか寛政末迄掘続」とあります。菅江真澄「奥の浦うら」にも「チの鋪穴などたづねもとむれば、朱なる水ながれて血をそゝぐがごとし」とあります。「御番所書留帳」によりますと、嘉永2年銅10箇を野辺地まで駄送するので伝馬3疋を出す旨、長後から野辺地までの宿駅の検断・肝入に命じています。この銅は野辺地湊から御用銅として海路大坂へ運ばれ精錬されたもの。文化5年には当村に大砲2門を設置。幕末の漆戸茂樹「北奥路程記」には、大砲場3か所が書き上げられています。
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4.5
御祭神は稲荷大神。例祭日は4月10日。※大祭は9月3日との資料もあり。
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享保10年、総代田中庄三郎の勧請により創建。正徳4年勧請ともいいます(佐井村誌では正徳4年勧請。ちなみに長後の稲荷神社、牛滝の神明宮も正徳4年3月勧請)。同社は「往古建之、邑人不伝草創」といい、のち明治初年の一時期、牛滝の神明宮に合祀されています。
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明治6年5月村社。
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明治39年8月社殿改築。
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手水石。
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社務所かな。
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摂社。
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神宮大麻は見えますが、御幣に隠れて何かはわからず。
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福浦歌舞伎が伝わります。福浦地区の福浦歌舞伎は県無形民俗文化財。漁師によって120年以上受け継がれてきた全国的にも珍しい漁村歌舞伎(漁民歌舞伎)です。明治23年、上方の歌舞伎役者中村菊五郎とその妻が福浦に訪れた際、地元の人々に歌舞伎を教えたのが始まりとされ、娯楽や文化に乏しかった当時の福浦の人々に歓迎され、それぞれの家に配役や道具方を分担し、代々伝えられてきました。
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福浦歌舞伎伝習百周年記念、中村菊五郎・妻菊松顕彰之碑。裏面碑文…『由来:旅の歌舞伎役者中村菊五郎・妻菊松一座争乱により流浪この地に寓す。村人の熱願を入れ芸を伝授し、明治廿三年初上演終りて旅へ離別、その去来杳たり。村人後も連綿と伝習を保存、今日に至る。昭和59年7月廿8日青森県無形民俗文化財指定を受く。茲に百年を閲し迎え、先師の遺徳を偲び記念の碑を建立す。昭和63年4月10日福浦芸能保存会 撰書大石』
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