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山形県南陽市宮内。熊野大社の横の細い道(證誠殿前)から一本道ですが、車がすれ違うことのできない細い道な上に、特に道中には何も無い(※山王山神社への参道入口はあります)ので、双松公園の中を通って行くのがおすすめです。双松公園を通って行けば季節の植物はもちろん、山形県指定天然記念物「妹背の松」や琴平神社なども見ることができます。
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長谷観音堂(宝積坊)。真言宗。置賜三十三観音霊場第30番札所(御本尊:聖観世音菩薩。御詠歌:いつみても かわらぬものははせでらの こけもひかりて なほもますなり)。
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長谷観音…『貞観9年(西暦867)慈覚大師が当地にやってきたとき、自分で作った観世音菩薩の像をこの地に安置したといわれている。天正17年(西暦1589)に、宮沢城主である大津土佐守本次がこの寺を再興した。この寺は、飛騨の工人の作といわれ、「たくみどう」とよばれたが、文政年間に火災にあって全焼した。文政10年(西暦1827)10月に上杉家の鬼門守護祈願所として再建を許され、このとき上杉家では、秘蔵の観音像を長谷観音堂に安置した。』
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関連記事:『宝積坊(南陽市)
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寺号標・石灯篭一対。
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鳥居。
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山形県あるある?!
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参道石段。
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狛犬一対(昭和20年8月13日・佐藤とみ、須藤るい奉納)。
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達筆ゆえ読んでいない碑(昭和23年6月)。
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手摺りがついています。石段が滑るので注意してくださいとのこと。
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手水舎。
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石灯篭と仁王門。
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懸額には「二王門」。
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仁王像。
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高浜虚子句碑(昭和28年)…「雪の暮 花の朝の 観世音」。裏面碑文「奉祈願国家安全中内平和 高浜先生に請うて」
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石灯篭。
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弁財天。
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弁天池に囲まれています。
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弁財天堂内石祠。
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石灯篭。
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須藤永次翁像。
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台座碑文…『須藤永次翁はわが郷土出身の実業家で、日本石膏業の開拓者である。今年5月3日翁はその永年に亘る功績により藍綬褒章を授けられた。是はわが業界最初の事で、獨り翁の名誉であるばかりでなく全國業界の光栄である。洵に同慶の至情に堪へない。私共兄弟は同郷の末学として又同業の後進として翁の恩顧を蒙むること最も厚く且久しい。茲に翁の壽像を建て聊か感謝を表し、翁の髙風を永遠にたゝへんとするものである。敷地を翁が信仰篤い長谷の観音の境内に選び、製作を郷土出身の美術家芳武茂介君に依頼したのは、一は翁の意に副い、一はわれらが望郷の至情によるものである。昭和30年秋、神戸市、伊藤長太郎。多治見市、伊藤惠助。』
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本堂。
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木造聖観音立像(市指定文化財・室町時代)は非公開。頭部には鎌倉時代の作風がありますが、胴部は江戸時代のものらしく、異なった作風が見られます。一説には戦利品として持ち帰ったといわれています。
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長谷観音堂の創建は貞観9年(867)当地に巡錫で訪れた慈覚大師円仁が霊地と悟り、自ら彫刻した聖観世音菩薩を安置したのが始まりとされます。また一説には円仁が荒廃していた観音堂を再興したとも伝えます。歴代領主の信仰対象となり、天正17年(1589)には当時の宮沢城城主大津土佐守本次が再興しており、その際に再建した観音堂は飛騨の匠による壮麗な御堂だった事から匠堂と呼ばれました。伝承によると棟梁で飛騨の匠である工左衛門が1人娘の梅と弟子を引き連れて御堂の再建を携わった際、御堂正面の彫刻の担当を弟子の竹蔵と松蔵が争い、竹蔵がその名誉を受けました。工左衛門もその技術に惚れ込んで自分の後継者として娘との婚儀を進めましたが、梅には既に将来を誓った人がいたことから口論となり、工左衛門は娘を切りつけ大蛇が住む谷に遺体を投げ捨てました。その夜、大蛇に姿を変えた梅が竹蔵の夢枕に立ち、父親の世話と私の今の姿を御堂の彫刻として彫り込んで欲しいと懇願。実は梅が将来を誓った人物が松蔵であり、事件を知った松蔵は師弟の仁義が立たず、あの世で梅と結ばれる為にも池に入水して自害。池から松蔵の死体が上がらず、幽霊になった梅と心中したとの噂が広がり、幽霊には尻が無いことからその池は尻無池(尻無沢)と呼ばれるようになり、畔には2人の供養のための遺品と2本の松を植えて地蔵尊を建立すると不思議なことに2本の松が交わって1本の松となり、「相生の松」「妹背の松」と呼ばれるようになり、恋愛成就に御利益があるとして信仰の対象になっています。この松は観音堂から少しだけ離れた双松公園にあります。話は戻り、文政年間の火災により多くの堂宇が焼失しますが、当地が米沢城の北東に位置することから、米沢城の鬼門鎮護の寺院として文政10年に11代藩主上杉斉定の許可を得て再建され、上杉家秘蔵の観音像が安置されました。(慶長5年の関ヶ原の戦いにて、上杉軍が東軍の最上領に侵攻し長谷堂城で激しい攻防戦が繰り広げられましたが、その際、城内に境内を構えていた長谷観音堂から行基菩薩が彫刻したと伝わる丈6尺の観音像を持ち去り、宮内の長谷観音堂に安置したとも伝えます)。
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向拝木鼻・欄間(龍・天女)の彫刻。
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向拝鰐口・扁額「観世音」。
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虹梁・手鋏。
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本堂横。
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本堂裏。
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本堂内。
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石仏。どちらも馬頭観音かな。
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ダルマ(寅)おった。
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御堂前石灯篭一対。
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御堂前狛犬一対。
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宮内戦歿者供養碑。
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その傍らに佐々木信綱歌碑。
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「国のため 玉とくたけし ますらをを とはに守りませ 長谷のみ佛」
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色々な仏像が彫られている面白い石。
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末社(昭和33年10月)。中に石板があり色々彫られていましたが反射して見えにくかったです。
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必殺!ネガポジ反転!…う~ん笑
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石祠。
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石祠。地蔵様がいました。
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45.5
こちらの石碑は読みにくかったので読んでいません。
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末社。
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中には石仏が見えましたが、手前の金精様が立派過ぎてよく見えません。
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しかも台座が灰皿風。
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手前にあった石塔は風化が激しく読み取れず。
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俳想と彫られた碑。6首彫られていました。
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最初の3句は『織田信長、鳴かぬならころしてしまへ子規』『豊臣秀吉、なかぬならなかせてみせう杜鵑』『徳川家康、鳴かぬなら鳴くまで待たう杜宇』。
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後半の3句は須藤秋天居ほか2人の詠み人も彫られていますが誰かは知りません。いずれにせよホトトギスの俳句集みたいな感じでした。
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結城哀草果歌碑(昭和34年)…「置賜は くに乃まほろば 菜種咲き 若葉茂りて 雪山もみゆ」
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石段が本当に滑りやすいので、帰りは足元に気を付けて帰りましょう。
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