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秋田県大館市十二所中岱。三哲山の中腹に鎮座。社殿までは車で行けるようです。更に三哲山頂上まで車で行けるようです。
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裏参道の社号標。草で見えませんが。ここから車で登るんでしょうね。
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裏面碑文…「皇紀2431年明和8年創立100年記。皇紀2632年昭和47年に創立300年記に式典挙行。皇紀2652年昭和67年に320周年記に社標寄贈」
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さて、私は正面参道へ。
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三哲の御神水。なかなか凄い勢いで水が出ていました。
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菅江真澄の道(三哲神社)…『享和2年(1802)12月20日義人三哲を語る<雪の秋田根>その文に、蝦夷が森のおちくぼ見えたるところに雪のふりかくしたるほぐらのありけり。』
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三哲神社物語…『当神社の祭神は千葉秀胤(前名は下戸前常政)、いわゆる三哲である。秀胤は南部藩福岡の産で、江戸に出て学問、医術、武芸の三道を学んで帰郷したが、故あって所々を流浪し、のち十二所の宍戸、菊池両氏の食客となった。町民は、彼が三道に優れていたので三哲と呼び、門人となる者も多かった。寛文12年(1672)、十二所の重臣の妻(一説十二所城代)の重病を彼が治したが、約束どおりの治療代を払わなかったので、その禄米を奪って貧民に施した。訴えにより3人の捕手が彼を誘い、大滝温泉で入浴中に太い棒で殴って捕縛、2日後の6月17日に息絶えた。時に享年49歳。三哲は死ぬ前に「死後も十二所を守るから、えぞが森の中腹に葬ってほしい。さもなくば十二所に大火が起るであろう。」と言ったが、罪人のために、町民はそうしなかった。ところが4年後の延宝4年(1676)、十二所に大火があり、全焼した。町民は大いに恐れて、彼を改めてえぞが森の中腹に葬り祭った。この頃から、えぞが森は、三哲山とよばれるようになった。』
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この付近の見どころ。①老犬神社(忠犬シロを祭る神社)。①のみです笑
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三哲神社下宮(遥拝所)。
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下宮内。
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奉納三哲神社下宮鳥居(平成27年11月吉日・三哲神社氏子一同)※協力者名省略。
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案内板より…『【三哲神社登り口】神社まで600m・歩いて15分【三哲の御神水】三哲(千葉秀胤)は蝦夷ヶ森(三哲山)中腹の前森山を好み、自ら水元を探し当て神社まで引水した。この度、三百四十祭に当たりこの場所でも利用出来るよう水のみ場を設置した。平成24年8月吉日・上新町町内会・三哲講氏子一同』
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600mあるそうですが、綺麗に整備された石段です。
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これなら歩きやすいですね。
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参道周囲の巨木。
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途中で石段がなくなりましたが、このように階段があるので迷いません。
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と思ったら…ただの山道になりました。
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ちょっとした登山の予感。
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参道はわかりやすいです。
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鳥居が見えてきました。思っていたよりも楽でした。
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鳥居。
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御祭神は千葉上総介秀胤(ちばかずさのすけひでたね)別名:下戸前常政。例祭日は旧暦6月17日。
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千葉上総介秀胤、またの名を下戸前常政ともいい、南部領下戸前に居住して下戸前を姓としていました。幼少から物事のおぼえが良く、多くを知り、考えの鋭い子でした。若い時に江戸に出て学問に励み、文学並に武芸には特に優れていました。また、医術でも人々を救いました。武芸、医術、文学とも抜群で、医名を三哲、学号を玄秀と唱えていたので当時の人から三哲と称されていました。
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寛文6年十二所に来て武芸を教え、医業を開いて貧民を救い(貧しい者からは治療代を受け取りませんでした)、生神の如く崇敬されていましたが、当時塩谷城代の施政悪しきを心よしとせず、上納米を貧民に施したので、その不法をとがめられ、三哲の棒術の弟子である福助をはじめ3名の手にかかり大滝の温泉場で捕われ、斬に処されましたが、その後町民等が相謀り、生前三哲が好んで登り、また、死する時はこの地に葬れと言っていた中岱(蝦夷ヶ森・現在地)に神として祀り、三哲権現として祭事を執行。三哲の遺骨は現在もここに眠っています。年々その威徳を慕い、県内外から参詣者が増加。
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手水舎。
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拝殿内。
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中央本殿。
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三哲神社と刻まれた石塔などが見えます。
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神社に褌と下駄等を奉納するのは住民の思慕と同情のあらわれといわれています。
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拝殿内にあった三哲神社由来…『三哲は本名を下斗米秀胤といった。父は下斗米弥兵衛將則と云い岩手県二戸市下斗米の人で下斗米氏六代覚左ヱ門將家の三男である。天正19年、九戸乱に加担し敗れて後下斗米に隠れていた時秀胤をもうけた。秀胤は幼名を小太郎と云い、長じて千葉上総介秀胤と改め、武術に秀れ又文学医術は抜群で、学号を玄秀、医名を三哲と称した。大館十二所に住し、義侠心が強く貧者を助け暴悪の者を懲らしめたので一般に深く慕われたが却って一部の人達に妬まれ、遂に入浴中を謀られて殺害された。時に寛文12年旧6月10日(1672)49才。霊体は遺言により、えぞが森に埋葬し戒名は、哲明院大誉了心居士。のち神号に改め、三哲神社として祀られ一般の信仰厚く、えぞが森は霊山とし、三哲山と称された。昭和52年9月吉日。岩手県二戸市福岡史談会』
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三哲尊像(黒沢写)。
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境内、三哲神社標柱…『祭神は千葉上総介秀胤。1666年に十二所で医業を営み、三哲様と呼ばれ尊敬されていました。治療代は貧しい者から受け取りませんでした。十二所城代と町の富豪が助けてもらったのに代金を払わなかったことから、年貢米や運送米を取り押さえて貧民に与えました。そのため、大滝の温泉場で捕らえられ処刑されました。人々は三哲を蝦夷ヶ森に葬り、神社を建てました。それから、ここを三哲山というようになりました。十二所では火事が続き、三哲の怨念とみられました。神社に褌と下駄を奉納するのは住民の思慕と同情の現れといわれています。』
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神社碑…『三哲神社祭神は千葉秀胤通称上総介幼名小太郎といった平常胤の子孫で下戸前上総権守常秀の孫なり寛永元年(1624)に生まれ父は下戸前弥兵衛である寛文6年(1666)鹿角郡大湯から十二所に居を移す医術に優れ号を三哲といい武術文学木工にも長け学号玄秀といった義侠心が強くそれが一部の富裕者に妬まれ遂に入浴中の不意を討たれ之が2日後黄泉と帰する時に寛文12年(1672)6月17日享年49歳であった遺言により郷の東蝦夷山(現在地)に上新町の住民が葬る明和8年(1772)百年忌に祭神が寄寓した宍戸家の曽祖政乙が立石するも慶応4年(1868)3月山火事により烏有にきす子孫又左衛門源政信矢四郎父子により6月に旧文の碑を修復するも昭和16年(1941)2月社殿焼失と共に破損消滅する茲に330年祭斎行に当たり悠久の神徳を祈念し旧文を遵守し和文の碑を父子で建立する。平成14年(2002)7月26日(旧6月17日)黒田美弥 同秀樹』※賛同親族名省略
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神社裏手へ。
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丁字路。未舗装の車道(登山道)です。
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上の写真の左が下り三哲神社登り口(1.2km)、右が三哲山頂上(2.4km)です。
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これだけ綺麗に整備されているなら、むしろ車じゃなくても余裕ですね。と、言いながら山頂には行ってませんが。
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