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岩手県盛岡市内丸。
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一之鳥居・二之鳥居は下曲輪にあります。
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神門から見た鳥居。
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ズーム。盛岡じゃじゃ麺の元祖「白龍」もあります。
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神門。
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御祭神は南部光行公(南部家初代・開祖)・南部信直公(盛岡藩初代・南部家26世)・南部利直公(盛岡藩3代・南部家27世)・南部利敬公(盛岡藩11代・南部家36世)。
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櫻山神社は、寛延2年(1749)、盛岡藩8代(南部家33世)利視公により盛岡藩初代(南部家26世)信直公の御遺徳を偲び、城内淡路丸(本丸東側)に神殿を建立、9月26日、その御神霊を勧請して淡路丸大明神と尊崇し奉ったのに始まります。盛岡藩11代(南部家36世)利敬公は文化9年(1812)8月13日に櫻山大明神と改称。この名称は淡路丸が櫻山と称されていたことに因みます。また、利敬公は同15年(1818)4月に南部家初代(開祖)光行公を合祀。
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盛岡城が明治政府に接収された後、明治4年9月、御神体を盛岡市茄賀野村妙泉寺山に仮遷座、同10年5月20日に盛岡・下北山の聖寿禅寺跡に新社殿を造営し再遷座。この地域を今でも旧櫻山と称されるのはこのことに由来。明治14年1月、県社に列格。明治23年、旧盛岡城地が南部家に特別縁故によって払い下げられたことを契機に、旧盛岡藩士族また旧盛岡藩領民より、旧城地への遷座の機運が盛り上がり、盛岡城旧三の丸鳩森下曲輪跡(御蔵跡・勘定所跡)に明治32年神社敷地を造成。今日に見られる本殿、拝殿、神門を建立し、明治33年10月26日奉遷鎮座。
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大正元年10月に盛岡藩3代(南部家27世)利直公、盛岡藩11代(南部家36世)利敬公の御尊霊を合祀して永く郷土守護の神と崇め奉りました。利直公は信直公の長子で盛岡城の完成と盛岡の町割りを成し遂げ、盛岡市の基礎を築いた英主であり、利敬公は朝命を奉じて北海道室蘭海域の警備に従われ、その功によって明治41年従三位追贈の恩命に浴された名君です。終戦後、神社前には県道が通り新しく商店街がつくられるなど景観は変わりましたが、盛岡城の往時を偲ばせる雄大な石垣と本殿後方の烏帽子岩は盛岡城築城時と変わることなく悠然と聳え立ち、今でも櫻山さんと親しまれています。
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Wikipediaより抜粋…『●創建から江戸時代後期…江戸時代中期の寛延2年(1749年)、盛岡藩第八代・南部利視により盛岡藩初代・信直の遺徳を偲び、盛岡城内淡路丸に神殿を建立、同年9月26日、その神霊を勧請して「淡路丸大明神」と奉ったのに始まる。盛岡藩第十一代・利敬が文化9年(1812年)8月13日に「櫻山大明神」と改称。その後、利敬は同15年(1818年)4月に南部家初代・光行を合祀した。●明治時代…盛岡城が明治政府に接収された後、明治4年(1871年)9月、御神体を岩手郡加賀野村妙泉寺山(現・盛岡市)に仮遷座、同10年(1877年)5月20日に盛岡・下北山の聖寿禅寺跡に新社殿を造営し再遷座した。明治14年(1881年)1月、県社に列格。明治23年(1890年)、旧盛岡城地が南部家に特別縁故によって払い下げられたことを契機に、旧盛岡藩士族また旧盛岡藩領民より、旧城地への遷座の機運が盛り上がり、盛岡城旧三の丸・鳩森下曲輪跡に明治32年(1899年)神社敷地を造成、今日にみられる本殿、拝殿、神門が建てられた。●大正時代から現在…大正元年(1912年)10月に盛岡藩第三代・利直、十一代・利敬の霊を合祀して永く郷土守護の神と崇め奉った。計4柱の南部家の神霊を合祀して現在に至る。』
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狛犬一対(昭和12年5月25日)
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「旧藩御雇鳶元一番組盛岡消防組馬町第二部」・「旧藩御雇鳶元二番組・盛岡消防組油町第六部」。
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石灯篭一対。
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手水舎(向鶴)とおもかげ地蔵尊。『おもかげ地蔵尊はその昔南部家の江戸屋敷にまつられ、藩主を始め庶民にも崇敬を受けておりました。今はゆかり深い当社境内に移されております。皆様方には心願成就の祈りをこめて、ご清水をかけ親しくご参拝戴きましてご神縁益々ふかまりますようご祈念申し上げます。』・『7000人以上の犠牲者を出した安政の江戸大地震の時、盛岡藩江戸屋敷が全壊したにもかかわらず、地蔵さまのおかげで死者・けが人も少なく、特に子ども達を守り災難から逃れたと云われ大切になされてきました。いつの頃からか不明ですが、盛岡市北山の南部家菩提所聖寿禅寺の境内に移され、本堂の入り口に静かに祀られてきました。』
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長寿院亀之助。甲羅をタワシでこすって健康と長寿をお祈りします。「ひとこすり3年、ふたこすり6年、みこすり10年延命」。
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亀の子束子が60個奉納!…『平成26年10月23日東京都北区滝野川の㈱亀の子束子西尾商店様より束子60個が奉納されました。明治40年に初代社長である西尾正左衛門が亀の子束子を発明してから創業106年を迎えた㈱亀の子束子西尾商店様。お手紙によれば、先般、社員の方が盛岡出張の折当社を参拝し「長寿院亀之助」に出会い、とても感動したとのこと。これも何かのご縁と、亀之助の甲羅をこすって健康と長寿を祈る皆様方のお役にたてますようにと、そんな思いを込めて亀の子束子を御奉納下さったそうです。』
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石灯篭一対(昭和12年)。
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社務所。
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戊辰戦役殉難者慰霊之碑(南部利美書)・手水石。
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拝殿前石段。
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拝殿。
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拝殿向拝、海老虹梁・手挟等。
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社殿前狛犬一対(大正2年8月)。
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その他石灯篭等。
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社殿横にも鳥居。
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石灯篭一対(大正6年)。
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石垣の上に烏帽子岩が見えます。
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御神輿庫の横に烏帽子岩への階段があります。
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御神輿庫。
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宝大石烏帽子岩(兜岩)…『盛岡城築城時この地を掘り下げたときに大石が出てきました。この場所が城内の祖神さまの神域にあったため宝大石とされ、以後、吉兆のシンボルとして広く信仰されてきました。現在でも、櫻山神社境内に悠然として大地に根をおろしそそり立っています。』
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烏帽子岩に向かいます。
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烏帽子岩手前に本殿。幣殿にも狛犬一対あります。本殿前には鶴の彫刻。
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石灯篭一対・手水石。
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『踏まれても根強く生きる道草のやがて来る春花も咲くらん』樋下正光
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南部稲荷神社。
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南部稲荷神社の横にも巨石。
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石祠。
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南部稲荷神社付近から見た社殿。
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烏帽子岩。盛岡城三ノ丸に位置します。
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高さ約6.6m、周囲約20m。
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烏帽子岩(兜岩)のいわれ…『盛岡城築城時、この地を掘り下げたときに、大きさ2丈ばかり突出した大石が出てきました。この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され、災害・疫病があった時など、この岩の前で平安祈願の神事が行われ、南部盛岡藩の「お守り岩」として今日まで崇拝されています。』
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烏帽子岩と社殿。
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烏帽子岩に触れてパワーを貰います…個人的にはあっちの方がパワー貰えそう…
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神社の向かいにある日乃屋カレー。ライス大盛り無料です。
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以下、神社境内案内板より。
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櫻山神社御由緒…『【御祭神】源性大明神南部光行公、信受霊神南部利直公、信徳大明神南部信直公、神功霊神南部利敬公。當神社は南部藩第33代利視公の寛延2年9月第26代の藩主信直公の御神霊を勧請して淡路丸大明神と尊崇し奉ったのに始まる。次いで文化15年4月藩祖光行公を、また大正元年10月には27代利直公、36代利敬公の御尊霊を合祀して永く郷土守護の神と崇め奉った。利直公は信直公の長子で父君の遺志を継いで盛岡城の完成と盛岡市の町造りを成し遂げ盛岡市今日の基礎を築いた英主であり利敬公は朝命を奉じて北海道の警備に従われ且つ朝廷を尊び給ひ敬神崇祖の念篤くその功によって明治41年從三位追贈の恩命に浴された名君である。文化9年8月旧地の名に因んで櫻山神社と改称した。明治14年1月に県社に列格し次いで明治33年10月現在地に奉遷鎮座された。昭和40年11月御造営竣工し藩祖光行公750年式年臨時大祭を齋行した。尚境内に榊山稲荷三社が鎮齋され賽者が頗る多い。例祭日5月25日、26日、27日。月次祭毎月26日。』
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盛岡城跡公園(岩手公園)開園百年。※こちらの内容は『盛岡城跡 ~其之参』の記事を参照下さい。
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櫻山神社の御祭神…『(※御祭神省略・以下参照)。宝大石・烏帽子岩…現在の櫻山神社の場所には、もと八幡社が鎮座しておりその傍らに三角状の岩がありました。この場所の高さが二ノ丸とほぼ同じであったので、利直公は地形を削るよう命じられ三角岩の周囲も削られました。しかし、岩の根は深くやがて烏帽子に似た巨大な岩石が出現しました。古代以来、人々は岩石に神が宿ると信じ崇敬していましたから、利直公はこれを瑞兆と慶び「八幡社の重宝」として崇められたのです。』
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御祭神…『当社は江戸時代中期の寛延2年(1749)盛岡八代藩主南部利視公が初代信直公のご遺徳を偲び奉るため、神殿を建立した事に始まります。さらに盛岡藩11代利敬公は「櫻山大明神」と尊称し、文化15年(1818)には南部家初代光行公を、大正元年(1912)には利直公、利敬公を合祀致しました。』
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南部光行公(永続神)。800年を超える南部家を興し、北東北の平安に努めた。
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南部信直公(開拓神)。戦国を英知・勇気・決断をもって駆け抜け、盛岡に藩を拓いた。
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南部利直公(安泰神)。城を築き、町を整え、農産業の振興と五穀豊穣、領地安堵を図った。
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南部利敬公(学問神)。法律と消防組を整え、学問を奨励し、藩校教育を推進した。
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御祈祷の御案内。
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神事次第。
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櫻山神社のご祭神-四柱の神々-より。
南部光行公(南部家初代)…『光行公は源義光を祖とする甲斐源氏の一族で甲斐国巨摩郡に生まれ、父である加賀美次郎遠光より同郡の南部郷を与えられて移り住み、氏を「南部」と称えました。それからは、南部郷の地頭職として馬産に励んでいたと思われますが、父遠光が頼朝の旗揚げに加わってからは光行公もまた頼朝に仕えるようになりました。文治5年(1184)には源頼朝の奥州征伐に父と共に従軍したことが「吾妻鏡」に見え、その功により甲斐国南部郷に加えて新たに糠部五郡を拝領したと言われています。南部家の伝承によれば、建久2年(1191)光行公と家臣たちが八戸浦に着き、それから現在の南部町相内の観音堂に到着。やがて三戸まで進み館を構えました。その際に、新年の準備が間に合わず正月元旦を大晦日とし、2日を元日とした(いわゆる「南部の私大」)と言われています。光行公は牧監(馬産の管理)としての実績を見込まれて糠部の地が与えられ、南部家が北奥羽に拠点を築く端緒を開いたと言えます。』
南部信直公(盛岡藩初代・南部家26代)…『南部家一族の石川高信の子として天文15年(1546)岩手郡の一方井館にて誕生、後に三戸の田子城に移り田子九郎晴直と称しました。やがて南部宗家に家督をめぐる争いが起きましたが、北信愛の協力によって信直公が家督を相続することができました。その後、小田原に参陣を果たし、豊臣秀吉から南部七郡を安堵されました。ちなみに南部七郡とは糠部、鹿角、岩手、閉伊、紫波、稗貫、和賀であると考えられています。かねてより対立が続いていた九戸政実の征伐に成功した後、信直公は浅野長政や蒲生氏郷から「不来方(現在の盛岡)に本城を置くよう」に勧められたと言われます。慶長4年(1599)に三戸城で没しました。行年55歳、波乱に明け暮れた生涯を閉じました。信直公は、豊臣秀吉から南部七郡の安堵状(「南部七郡事大膳大夫可任覚悟事」)を受け、本拠とした盛岡に築城を開始するなど盛岡藩の基礎を固め、南部家を近世大名に押し上げた南部家中興の祖であります。』
南部利直公(盛岡藩2代・南部家27代)…『信直公の長子として天正4年(1576)三戸の田子館で誕生。天正18年(1590)には、父信直と小田原参陣を果たし、その陣中で元服を済ませました。この時に烏帽子親となった前田利家より「利」の一字を拝領して利直と名乗りました。利直公は九戸政実の乱平定後、信直公より盛岡城の築城を託されます。慶長2年(1597)3月に盛岡城の鎌始め(起工式)を行い、「不来方」という地名を盛る岡の意味を込めて「盛岡」と改称しました。公自ら現場で工事の指揮を執ったとも言われており、慶長4年(1599)に本丸などが完成したようです。利直公は関ヶ原の戦に乗じた和賀忠親の旧領回復の一揆を鎮圧することに成功すると共に、思い切った家臣団の再編成に取り組み、さらには検地を実施して家臣団はすべて城下に住み、石高に応じた知行地を与えられるようになりました。寛永9年(1632)8月、江戸の桜田邸にて57歳の生涯を終えました。利直公は、鋭敏かつ機略をもって盛岡城の築城と城下町の建設、領内の経営に力量を発揮し、英知に優れて信望も厚かったと伝えられます。』
南部利敬公(盛岡藩11代・南部家36代)…『天明2年(1782)9代藩主・南部利正公の次男として出生、3歳で家督を相続しました。利敬公が幼年の藩主であった時期は、天明の大飢饉の揺り返しで不作が続いて、藩財政は極度に窮迫しました。利敬公は入部後に倹約令を発し、家老政治を排して自ら政務を執られました。利敬公の任期を通じて最大の課題になったのは、北地警衛と沿岸の防備でした。盛岡藩も幕府からの要請によって出兵し警備に当たりました。蝦夷地の警備が評価されて文化5年(1808)に盛岡藩は10万石から20万石へと昇格を果たし、利敬公は侍従となられました。利敬公は、上衆小路にお稽古場(学校)を設け藩学の基礎を作りました。また町火消しを創設し、城下の要所に火の見梯子を立て、半鐘を付けたことも特筆されます。さらに訴訟判例「文化律」を制定すると共に民事裁判所に相当する公事方評定所を設置しました。文政3年(1820)盛岡城で没し、享年は39歳。治国は歴代藩主最長となる37年に及びました。利敬公は親裁によって藩役人の腐敗を一掃して藩財政を立て直し、盛岡藩の安定に尽力しました。明治41年には北地警衛の功績により従三位を追賜されています。』
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