『盛岡城跡 ~其之弐』からの続き。
御台所跡方面に下りて、毘沙門堂跡を通り、帯曲輪(中津川)方面へ。
鶴ケ池に架かる橋。
橋上から見た鶴ケ池。
鶴ケ池に沿って帯曲輪の鉛蔵方面へ。
この付近はホタルの生息地のようです。

盛岡城跡公園ホタルの里…『この「ホタルの里」は昭和54年ホタルの減少が目立つようになったことから「盛岡でも昔のようにホタルが見られるようにしよう」と整備したものです。ホタルは水質・水温・カワニナ貝・クレソンなど生態系の微妙なバランスの上に生息しています。ホタルの生息は、その場所の自然が豊かであることの証しです。例年、6月下旬から7月中旬までの短期間、小川の周りを飛び回ります。ホタルを皆で見られるよう、捕まえたりせず大切にしましょう。●ホタル生息地…この池から流れる小川には「ヘイケボタル」と「ゲンジボタル」が住んでいます。ヘイケボタルは体長7-10mm、雄雌の大きさはほぼ同じでチカチカと瞬くような光を放ち明滅します。ゲンジボタルは体長15-18mm、雌の方が大きくピカーピカーとゆっくり大きな光を放ち明滅します。ホタルが現れるのはゲンジボタルの方が早く6月下旬から7月上旬にかけてヘイケボタルは7月上旬から中旬にかけて日暮れどきの7時頃-9時頃、曇って風の吹かない蒸し暑い夜に多く見られます。盛岡ホタルを守る市民の会』

案内板を見ると「残念石」という文字が見えます。

気になるので向かってみます。

毘沙門橋付近にあるようですが特別変わった石は無く…
この石?

後から調べたら、この付近は石切り場で、残念石は矢穴が開いた石ですが、結局石垣としては使用されずにそこに残されたままの石のことらしいです。
説明がなかったので何のことか全くわかりませんでした。矢穴が開いた石よりもこっちの雨宿りできそうな石の方が珍しいと思ってしまうじゃないかー!残念!

おかげさまで無駄に石の写真撮ってます。

鍛冶屋門跡方面・淡路丸石垣。

中津川沿い。遊歩道があります。



毘沙門橋。



下ノ橋を渡った先に新渡戸稲造生誕の地がありますね。行きませんが。


芝生広場へ向います。
芝生広場。侍屋敷跡です。




案内地図。
この付近です。
宮澤賢治「岩手公園」碑。
宮澤賢治「岩手公園」碑案内板より…『宮澤賢治(1896-1933年)は、岩手県花巻の地に生まれた。その生涯は、熱烈な法華経信仰に生き、詩人・童話作家・科学者・農民指導者として、21世紀を予見し秀れた作品を今日へと託し、37歳若さで世を去った。文語詩「岩手公園」は、死期迫る1ヶ月前の、昭和8年(1933年)8月22日に病床で清書し終わった、「文語詩稿一百篇」中の一詩である。作中の「タッピング」は、明治41年(1908年)から大正9年(1920年)まで、盛岡バプティスト教会牧師だった、米国人ヘンリー・タッピングがモデルである。「ミセスタッピング」は、夫人のG・F・タッピングで、教会附属の盛岡幼稚園を創立した。「大学生のタッピング」は息子のウィラード・タッピングで、「なが姉」はヘレン・タッピングである。賢治は、盛岡高等農林学校の1年の時、親友を誘ってタッピング師の聖書講座を聴講している。散策中に出会った賢治の印象深い感懐が、美しい街の風景と重なり、詩品高い文語詩となった。この碑は、「賢治の詩碑を岩手公園に建てる会」によって、昭和45年(1970年)10月21日に除幕された。』

教育記念像。

教育記念像台座碑文…『昭和17年、水泳訓練中に溺れている児童を救い殉職された下閉伊郡豊間根村立国民学校小国テル子訓導の事績を讃えるため、岩手女子師範学校に顕彰碑が建立されたが、昭和23年同校の火災で損壊した。昭和30年、岩手県教職員組合が堀江赳氏に依頼し、教育の尊さを平和の象徴として岩手公園梅林内に教育記念像を設置し、その際台座に顕彰碑の残片を埋め込みその精神を継承した。以来38年、損傷が著しく、このたび県内の教育関係者のご協力を賜り、佐藤祐司氏によって修復復元され、この地に移転されたものである。平成5年9月26日教育記念像復元事業実施委員会』

瀬川正三郎胸像。

瀬川正三郎胸像台座碑文…『明治23年2月14日-昭和47年12月15日(1890-1972)。岩手県柔道界の指導者(講道館柔道八段)。盛岡中学(現在の盛岡第一高等学校)の柔道教師の後、柔道整復師として整骨院を開業。治療に当たっては、困っている人や小学生、中学生からはお金を取らなかったことでも知られている。「サンコさん」の愛称で親しまれ盛岡の地方自治、スポーツ振興に尽力した。盛岡市警防団団長、盛岡市消防団団長、岩手県消防協会会長、盛岡市体育協会会長、岩手県スポーツ振興審議会会長並びに盛岡市スポーツ振興審議会会長などの公職を歴任。昭和33年市勢振興功労者表彰、昭和37年藍綬褒章を受賞、昭和40年勲五等双光旭日章を叙勲。』

再び毘沙門堂跡方面へ。


毘沙門清水。

鶴ケ池に沿って台所門跡前を通り、「もりおか歴史文化館」へ向かいました。

案内板「盛岡城跡公園(岩手公園)開園百年」より…『岩手公園は盛岡市民・観光客をはじめ多くの皆様に愛され憩いの場となっております。県都・盛岡市の中心に位置しながら喧噪を忘れて雄大な石垣を仰ぎ、歴史散策と四季折々の自然が楽しめる場所です。明治39年(1906)に開園され、その式典は各界各層から集まり盛大に行われ、終日賑わったと伝えられています。公園となる前は、盛岡城として(慶長2年・1597年に築城が始まります)藩政時代の象徴であり、その威容は武士をはじめ領民にとりましても心のよりどころでありました。明治7年(1874)残念ではありますが、お城の建物は解体され、その後市民の憩いの場として生まれかわり、石川啄木・宮澤賢治をはじめ多くの人々に愛され続けて開園百年を迎えました。近年、公園をとりまく環境は大きく変わってきました。岩手公園百年の節目は史趾盛岡城の歩みでもあります。これまで以上に、歴史と伝統を後世に伝え、やすらぎとやさしさのある公園としてもっと親しく活かされることを願っています。さあ、これから公園を散策してみてはいかがですか。四季折々様々な景色が皆様方をおまちいたしております。櫻山神社社務所』(※なお、案内板上部の櫻山神社の御祭神については「櫻山神社」の記事を参照下さい。)

盛岡城絵図。
以上、大変長くなりましたが盛岡城跡でした。



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