『盛岡城跡公園(岩手公園)』からの続き。
渡雲橋は二の丸と本丸を結びます。

渡雲橋から見た西方面(左が本丸・右が二の丸)。
渡雲橋から見た東方面(右が本丸・左が二の丸)。
さて、本丸です。
南部氏は甲斐源氏の一族でしたが、南北朝時代の頃より糠部(青森県三戸郡・八戸市周辺)に基盤を置き、室町・戦国時代に次第に勢力を伸ばし、奥州北部の有力大名に成長しました。天正16年に初代盛岡藩主南部信直は斯波氏を滅ぼし、天正18年に豊臣秀吉から南部七郡の領有を認められます。翌天正19年に秀吉の重臣浅野長政の助言によって信直は三戸から不来方に居城の移転を決定。慶長2年には嫡子利直を総奉行に鋤初が行われたと伝え、翌慶長3年の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。この地は旧北上川と中津川の合流点の丘陵で、かつて南部氏の家臣福士氏の不来方城(淡路館・慶善館)が存在した場所になります。ここに新たな縄張で石垣を巡らして本丸・ニの九・三の丸を築きました。また、内丸から本町方面、中津川対岸の内加賀野・紺屋町・肴町・穀町方面にも外曲輪や総構遠曲輪の堀を巡らし、更に慶長14-17年にかけて中津川両岸が上の橋・中の橋・上の橋で結ばれて城下町の建設と整備が進められました。以来盛岡は江戸時代を通じて盛岡藩の中心として栄え現在の盛岡市へと引き継がれています。明治の廃藩置県の後、城は明治5年に陸軍省所管となり、明治7年に城内建物は取り壊されました。明治36年に岩手県により公園整備が開始され、明治39年に「岩手公園」として開園。その後、所管は盛岡市に移されて国指定史跡となりました。東北随一の美しい石垣を見ることができます。昭和59年からは市が石垣修復工事と発掘調査を行っています。

戦国時代の不来方城(不来方城1・2期)は、丘陵を切り盛りして平坦地や空堀・土塁を廻らせた土の城で、建物はほとんどが板葺き・茅葺きの屋根でした。最初の盛岡城1期は、不来方城の堀を埋め、平坦地を拡張して築かれました。頂上の本丸・二の丸の一部には石垣が積まれ、瓦茸きの櫓などもありましたが、中腹の腰曲輪や二の丸西側・三の丸などは土手のままで、周囲に木柵が廻っていました。腰曲輪が石垣になるのは盛岡城2期の段階で、この時に本丸石垣も積み直されており、双鶴(向鶴)紋の瓦が葺かれます。しかし間もなくして本丸の三重櫓などが落雷で焼失。これらの建物は延宝2年より再建が始まりますが、ほぼ同時期に二の丸西側も北上川の川筋が切り替えられ、貞享3年にかけて高い石垣が築かれます。これが盛岡城3期であり、この時期から主要な櫓などには赤瓦が葺かれるようになります。
Wikipediaより…盛岡城は岩手県盛岡市(陸奥国岩手郡)にあった日本の城。別名不来方城(こずかたじょう)であると一般に理解されていますが、厳密には盛岡城の前身であり両者は別の城郭。盛岡城は南部(盛岡)藩南部氏の居城。西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城。本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ現在は朱塗りの橋が架かっていますが、存城当時は廊下橋(屋根付橋の一種)が架けられていました。更にその北側に三の丸が配され、本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪が配されました。本丸には天守台が築かれましたが、幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に御三階櫓が建造されて代用とされました。後の天保13年に12代利済により天守へと改称。白い花崗岩で組まれた石垣は、土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放ちます。建造物は明治初頭に解体されており現存するものは少なく、城内に移築された土蔵と、市内の報恩禅寺(名須川町)に移築された門が残っていますが、移築門については城門であった確証は得られていません。また、清水寺にいずれかの門か定かではない城門が、木津屋本店奥土蔵(南大通)、岩手川(旧浜藤酒造・鉈屋町)に土蔵が再移築され現存。また、徳清倉庫(仙北)には二の丸にあった勘定奉行所の一部が移築されています。他に日露戦争で戦死した南部家第42代当主南部利祥を表彰した騎馬像「南部中尉銅像」が明治41年に建立されましたが、太平洋戦争中に金属供出で持ち去られており、現在は台座しか残されていません(櫻山神社に胸像部の鋳型、報恩寺に馬の頭の部分の鋳型が現存)。現在の盛岡城址は近代公園の先駆者である長岡安平の設計により、明治39年に「岩手公園」として整備され、当地で学生時代を過ごした宮沢賢治の詩碑や、石川啄木の「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」と刻まれた歌碑などが公園内にあります。
石垣について…『●本丸東側石垣は花崗岩の野面石(自然石)を多く用いており、割石は角石など一部に使用されています。盛岡城で最も古い、築城当初の慶長年間の石垣と考えられます。本丸南西部や北東部では現在の石垣の中に埋もれた築城当初の石垣が確認されています。他に二の丸の廊下橋下や不明門の西側などに古い石垣を見ることができます。●腰曲輪石垣は花崗岩を粗く分割した割石を力強く積んでいます。割石には分割時の矢穴が残っています。元和から寛永年間初期の石垣であり、同じ石垣は本丸の北半分と南東部、三の丸の北側を除いた部分などに見られます。●二の丸西側石垣は北上川の川筋を切替えた後に積まれ、「貞享三年三月吉日」の普請奉行銘を残す石垣です。規則正しく四角形に加工された奥行の長い石材を用いています。石垣の稜線には美しい反りがあり急勾配に高く積み上げられています。角石は鑿で整形されて、石材を切組んだ箇所が見られます。●三の丸北側石垣は元和から寛永年間初期に積まれた石垣が地震で破損し、積み替えられた石垣と考えられ、「宝永二年九月二日」の普請奉行銘を残します。二の丸より大きな横長の長方形の石材で積み上げており、角石は鑿で整形され、石材同士で切組んだ箇所が見られます。』
騎馬像「南部中尉銅像」台座。
案内板より…『●盛岡藩の解体と南部家…明治元(1868)年(慶応4年)、奥羽越列藩同盟の各藩が戦争に降伏する動きを受けた盛岡藩は久保田(秋田)藩に対して休戦の使者を送って、9月24日に降伏の手続きを取った。盛岡城へは官軍の先遣隊が10月10日に入城して接収された。それと時を同じくして藩主利剛・利恭父子親子は以下、主席家老楢山佐渡など戦争の首謀者は東京への連行指令が出され、11月13日に監察使に伴われて東京へ出発した。東京に着いた利剛・利恭は、南部家の菩提寺芝の金地院に入り謹慎。その後、江戸下屋敷(現:有栖川宮記念公園)を経て、明治3年7月頃から東京府神田区西小川町二丁目9番地へ移り住んでいる。利祥は、父利恭、母喜久子の長男として明治15(1882)年1月25日、東京府神田区西小川町(現:専修大学敷地)で誕生した。明治21年1月9日に学習院初等科に入学、7月に予備科第六級を卒業し、第五年級に進級して毎日乗馬で通学したと伝えられる。8歳となった明治23年6月には旧熊本藩細川家の次男長岡護全(後に日露戦争で戦死)とともに皇太子殿下(後の大正天皇)の「御学友」に任ぜられた。なお、この年の7月に自宅は神田区小川町から麹町富士見町(現:護国神社東側の白百合学園敷地)に転居し、学習院初等科四年級から軍人として歩んだ多感な時期を過ごしている。11歳の時、明治26年9月には中等科第一年級に進み、翌年10月には西郷従義・毛利八郎・岩倉道倶らとともに東宮職出仕を拝命して、殿下とともに沼津・葉山・箱根・御殿場・那須など各地の御用邸に供奉、明治28年11月、第二年級の13歳の時に依願退任するまで続いた。●軍人として歩み始めた利祥…明治30年7月、学習院第四年級卒業と同時に陸軍幼年学校の進学を試みたが、受験に失敗。翌31年9月、16歳の時に陸軍中央幼年学校に入学した。この陸軍入りを強く勧めたのは、東京で南部家を支えた東條英教(英機の父)少将であったと言われ、幼年学校から士官学校を通じて利祥の身元保証人になっている。明治34年5月に幼年学校を卒業した後は、士官候補生として近衛騎兵連隊に配属され、同年12月には陸軍士官学校に入学した。成人となった明治35年6月には従五位に叙せられ、4月には参内拝謁して天盃を下賜されている。また、この年の11月には陸軍士官学校を卒業し、騎兵見習士官を拝命。明治36年6月に近衛騎兵連隊附の陸軍騎兵少尉に補された。●利祥の戦死と岩手公園の開園…明治37年、日露戦争に出征した利祥は、翌38年に近衛騎兵連隊第一中隊第三小隊長となり、旅順攻略後の2月21日からロシア軍の拠点、奉天に向けて進撃を開始した(奉天会戦)。3月1日からは攻撃が激化、3月10日に奉天が陥落する直前の同月4日の井口嶺争奪戦の最中、敵弾に倒れて戦死した。一方、利祥が日露戦争へ出征した明治37年には、明治23年以降、南部家所有に戻ったものの利用されずにいた盛岡城跡の土地利用について、利祥は県知事北條元利との間で新しい公園を作るための作業を行っていた。それまでの公園は、明治10(1877)年に開園し、明治39(1906)年に「岩手公園」に引き継がれるまで内丸(中ノ橋から上ノ橋にかけての中津川右岸)にあって狭隘であった「盛岡(内丸)公園」があったが、周囲が官民の所有地が入り混じり、かなり変形した狭隘地であったことから新しい公園が必要とされていた。すなわち、利祥は盛岡城跡を後の「岩手公園」にすることを決断した南部家の当主で、その意志は弟利淳に引き継がれた。●南部利祥伯爵銅像の建立…盛岡城跡(岩手公園)の本丸に今は台座を残すだけになっているその上には、かつて南部家42代当主南部利祥の騎馬像が建っていた。陸軍騎兵連隊の少尉として日露戦争へ出征していた利祥は、明治38年3月4日に満州の井口嶺で戦死した。この戦死を受けて政官財人や旧藩士を中心とした人々は、朝敵となった旧藩の汚名をそそぎ、南部家当主の武勲をたたえ銅像を建立するための募金活動を行った。銅像は5千数百人から寄せられた寄附金とともに皇太子殿下(大正天皇)からの下賜金により明治41年9月15日に竣工した。しかしながら、太平洋戦争の戦局悪化から金属の供出が求められ、銅像は玉垣の鎖とともに昭和19年4月4日に自主的に供出した。供出に先立つ「出陣式」は、南部家など関係者約500名が参列して盛大に催された。このほか戦時中には横川省三像、中ノ橋の欄干、県の時鐘、県の鉄門なども供出された。●南部利祥伯爵銅像台座の現代的意義…平成30年は、明治維新(明治元年)からちょうど150年を迎え、また本丸に台座だけが残る南部利祥伯爵銅像が建てられてから110年を迎えた。盛岡城は江戸時代を通して盛岡藩の藩庁であるとともに、南部氏の私的居住空間であったが、戊辰戦争の敗北にともなって新政府(兵部省)の管轄に置かれた。明治7(1874)年、維持管理ができず老朽化した城内の建物は取り払われ、更地になった城地は引き続き陸軍省が管理したが、明治22(1889)年、土地の払い下げの動きを知った南部家は取得に動き、翌23年に有償で縁故払い下げを受けた。その後、使われることがなく推移したが、明治36(1903)年10月19日に南部家第41代利恭が亡くなり、利祥が家督を継いだ後の12月には盛岡城跡の土地を南部家から借地して公園とする案が県議会に提出され可決している。この南部家の私有財産であった「盛岡城跡」を県民共有の娯楽地「岩手公園」として開放するにあたっては、南部家の家政顧問であった原敬が大きく関与したことが伝えられている。いずれにせよ、南部家の当主となった利祥が、時の県知事北條元利との間で「土地使用貸借契約書」の草案を作成した。この草案は9条から構成されているが、その中で最も注目されているのが、第3条中の「城内ニアル石垣其の他、旧城址ノ形状ヲ表示スベキ営造物ハ之ヲ保存シ…(後略)」とした条文であった。明治39(1906)年4月14日に公園造成に着手し、その年に開園した「岩手公園」はこの「保護措置」により大きな改変が行われることがなかった事が、後の「近世城郭の本質的価値を良好に遺している」として、昭和12(1937)年4月1日の「国指定史跡」告示につながっている。利祥は、明治38年に戦死したため、新たな公園の姿を観ることは無かったが、その意志は弟の利淳に引き継がれ、明治39(1906)年9月15日「岩手公園」は開園した。利祥の銅像建立の位置は、「岩手県公園設計図」が描かれた段階で既に描かれており、公園開園日と同じ9月15日に銅像の除幕式が行われたことに深い因果を感じさせる。当時、利祥の生き様と死に様は悲しみと同時に、朝敵とされて戊辰戦争を戦った「盛岡」の汚名挽回を果たした旧主君として賛美され、皇室の藩屏たる国家と天皇に殉じる英雄とされた。明治20年以降に盛行する全国の軍人の「銅像」は、正しく理想的な臣民像を育む手段として扱われたのである。利祥の銅像は太平洋戦争の金属回収令を受けた自主供出により、二度とこの場所に戻ることは無かった。今日残る台座は、戦争の悲劇と教訓を伝える「戦争遺跡」でもある。また、今日まで語り継がれてきた「南部利祥伯爵銅像」は「軍人崇拝」や「英雄賛美」の象徴ではなく、文化財を保護しながら広く県民のために私有地の開放を決断した人物としての位置づけられる。』
明治39年に岩手公園(盛岡城跡公園)が開園した時、園内に8棟の四阿が建てられて、それぞれに景観や自然、情緒にちなんだ愛称が付けられました。
夕陽亭(本丸西側)・凌虚亭(天守跡)・枕流亭(淡路丸下梅林)・望岳亭(二ノ丸西側)・拾翠亭(三ノ丸南側)。
凌虚亭(天守跡)です。
案内板「本丸北西部の発掘調査」…『本丸北西部では、石垣修復のための発掘調査により、福士氏の不来方城(14世紀末-16世紀末)から、南部氏の盛岡城1期(16世紀末)、盛岡城2期(17世紀前葉以後)の変遷が確認されています。本丸北半部の石垣は、元和3年(1617)-同5年(1619)に築かれたと考えられ、中央には本丸正面の廊下橋門、北西角には4.5間×3間(約9.0×5.4m)の小納戸櫓が設けられ、廊下橋門と小納戸櫓の間は8間×2.5間(約14.3×4.3m)の多聞櫓(長屋)で結ばれていました。このほか小納戸櫓の南からは、次(控え室)、湯殿(風呂)、排水施設も確認されています。小納戸櫓台の石垣については、発掘調査結果に基づいて、明治期の公園整備により部分的に撤去されていた石材を補い、復元したものです。』

現在地。
本丸北西部の遺構配置。

発掘調査の様子。

真っ赤に染まった本丸を跡にします。
本丸から腰曲輪へ。御馬場跡付近から下ります。


本丸石垣。四阿は凌虚亭。
石垣を見上げるの図。
宮野小提灯句碑。

宮野小提灯句碑…『「月待つや 独り古城の 松のもと 小提灯」宮野小提灯(本名=藤吉)は明治28年(1895年)盛岡市仙北町に生まれた。15歳頃から俳句に親しみ、大正3年高浜虚子主宰の「ホトトギス」に投句を開始。花鳥諷詠を信条とし、本格的に取り組む。昭和5年県内の俳人に呼びかけ、山口青邨を選者とした「夏草」を創刊。以後「夏草」は平成3年5月まで通巻650号が発刊され、多数の後進俳人を育成した。郷土を愛し、郷土を詠いつづけ生涯を市井の俳人として過ごした。豊かな詩情と朴訥とした表現は、時代を越えて人々の心に明りを灯し続けている。昭和26年、この地に句碑が建立され、昭和33年には、岩手日報文化賞が贈られた。昭和49年7月7日、78歳にて永眠。その人柄を示す句を記す。「日もすがら 蜩鳴くや 山稼」「夕寒や 箕もて追はるゝ 矯鶏二つ」平成30年7月盛岡市観光交流課』

腰曲輪吹上馬場跡・彦御蔵(米内蔵)。
岩手山が見えました。
池野祐壽翁紀徳碑(大正7年8月)。碑文省略。

裏面にも碑文(北田親氏・中村治兵衛)あり(省略)。
腰曲輪の遺構変遷…『石垣修理に伴っておこなわれた発掘調査の結果、腰曲輪の構造が大きく4時期にわたって変化していることがわかりました。①不来方城期(15-16世紀)-盛岡城築城以前の福士氏の居城であった時期で、斜面に空堀、土塁などが階段状に設けられ、本丸の周囲を廻っていました。②盛岡城1期(16世紀終末)-南部氏における築城が開始された時期で、本丸や二ノ丸などには石垣が築かれましたが、腰曲輪は土手のままで、周囲に柵が廻っていました。③盛岡城2期(17世紀前半)-腰曲輪の南側と東側、北東側に石垣が築かれます。この時期の腰曲輪の南側は、現状の平坦面よりも2mほど低い窪地になっていました。④盛岡城3-5期(17世紀後半)-腰曲輪西側にも石垣が構築されたほか、南側の窪地はしだいに埋め立てられ、江戸時代末期(19世紀前半)には、現状のような平坦な地形になりました。』

腰曲輪の遺構変遷(断面模式図)。
発掘調査の様子。
江戸時代前期の絵図(伝寛永盛岡城図)。
本丸石垣。上に見えるのは凌虚亭。
案内板。

二層櫓跡の調査。
江戸時代中期の絵図(明和3年書上盛岡城図)。
復元図。
この付近には御宝蔵がありました。

淡路丸へ。


淡路丸から見た本丸石垣。
この付近です。
櫻山神社跡碑。

櫻山神社は江戸時代中期の寛延2年に盛岡藩第8代南部利視により盛岡藩初代信直の遺徳を偲び、盛岡城内淡路丸に神殿を建立、同年9月26日にその神霊を勧請して「淡路丸大明神」と奉ったのに始まります。

本丸石垣(御未門)。
御未門付近。

渡雲橋が見えます。
御台所跡を見下ろします。

『盛岡城跡 ~其之参』へ続く。



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