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稲屋敷村。字高松には式内社栗原七座の1つと伝える雄鋭神社があり、奥の院は天王山林に鎮座、往古松の大木があり高松八社権現、高松権現とも称され、春日山大勝院高松寺という寺があったと伝えます。寺として真言宗愛宕山法蔵寺、曹洞宗奇雲山竜昌寺、そして九ノ戸という小字には南部氏の九ノ戸城主九戸左近将監政実の首を葬った九ノ戸塚と、それにまつわる九戸神社があります。九戸政実は天正19年、豊臣秀吉の太閤仕置に反抗し、豊臣秀吉に従った三戸南部信直と争い、謀略により捕らえられ、護送される途中、豊臣秀次の本陣のあった三迫で処刑されました。また近くの大鳥と称する所は岩ケ崎邑主中村日向の足軽が居住した足軽町であったと伝えられます。
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九ノ戸神社の鎮座地は栗原市栗駒稲屋敷九ノ戸。近くには大鳥公園(九ノ戸公園)九戸政實首級清めの池もあります。九ノ戸という地名を残しているのが凄いですね。
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豊臣秀吉天下統一最後の戦いの相手こそ九戸政実(1536-1591)です。九戸政実の乱は天正19年(1591)南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直及び奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱。九戸城の正面南側には蒲生氏郷と堀尾吉晴、猫淵川を挟んだ東側に浅野長政と井伊直政、白鳥川を挟んだ北側に南部信直と松前慶広、馬淵川を挟んだ西側に津軽為信、秋田実季、小野寺義道、由利十二頭らが布陣。その数6万5千。九戸政実はこれらの包囲攻撃に少数(5千)の兵で健闘。そこへ浅野長政が九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者にたて「開城すれば残らず助命する」と九戸政実に城を明け渡すよう説得。謀略とも思われましたが一人でも多くの一族郎党を救おうと、九戸政実はこれを受け入れ、弟九戸実親に後を託し、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光種、大里親基、大湯昌次、一戸実富らと揃って白装束姿に身を変えて出家姿で降伏。しかし助命の約束は反故にされ、九戸実親はじめ城内に居た者は全て二の丸に押し込められ惨殺、撫で斬りにされ火をかけられます。九戸城の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる斬首された女の人骨などが発掘されています。政実は他の首謀者達と共に連行され、豊臣秀次の指示により栗原郡三迫(宮城県栗原市)にて処刑されました。この乱以後は、豊臣政権に対し組織的反抗をする者はなく、秀吉の天下統一が完成するのです。なお、言い伝えでは斬首された政実の首は家臣が密かに地元まで持ち帰り、九戸神社(岩手県九戸郡九戸村長興寺)近くの山中(九戸政実首塚)に埋めたと云われているそうです。
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明治初期、遠田郡のある行者が政実の姿を夢に見て、その宣託に従って近くの草むらを探したところ、遺骸を埋めた塚を見つかったので、供養のために奉ったのが神社の由来。特に頭部(目・鼻・耳・口)の疾病に霊験あり、地域住民の深い信仰を受けているそうです。
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社殿神額(昭和2年3月17日奉納)。
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こちらには中央に政実の絵、8名(九戸左近将監政実、櫛引河内守清長、櫛引左馬助清政、七戸彦三郎家国、久慈備前守直治、久慈中務輔政則、大湯四郎左衛門昌次、大里修理亮親基)の名と処刑日(天正19年9月20日)があります(「祈大願成就」昭和62年9月20日岩手県二戸市※願主省略)。
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木製の五輪塔など。
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九戸城戦闘要図(天正19年9月4日落城・昭和62年9月20日奉納)。
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九ノ戸神社裏手の建物も…
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落城しそうですが大丈夫ですかね。
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