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社号標(御鎮座1140年記念・昭和53年5月大豊日・九戸郡九戸村納主千葉喜久治)。国道340号線沿いにあります。
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社号標付近にある「九戸氏の旧蹟」碑(昭和56年5月吉日・九戸氏旧蹟保存会建立)…(表面碑文)『・九戸草創期の居「大名館跡と御膳水」・代々の祈願所「九戸妙見と光政公手植の梅跡」・菩提所「長興寺と大公孫樹」・九戸二十四代「政實の首塚」・米糠戦法の「幡福川と引水溝」』。(裏面碑文)『中世南部氏の支葉 五郎行連 承久元己卯年この地を采領して九戸氏を称し 以来 天正十九辛卯年九月に至る凡そ四百年に及ぶ 代々地方の開拓産業の振興に力を効たし 特に南部駒の育成と二年三毛の畑作を結ぶ當地方独自の殖産営農を奨めて 高冷の悪条件を克服して其の勢力を伸張し よく民生の安寧を計りたるは 北奥における生業の基礎構築の偉業と言はざるべからず。永くその恩恵に浴せざるはなし。嗚呼 しかるに歳月巡り 九戸氏の特去りて既に四世紀 その経緯詳らかならず その足跡絶ゆるを憂ひ 僅かに残存する旧跡を保存して世に紹介し 以って九戸氏一族を追懐し その功を顕彰するもの也。昭和56辛酉年5月吉日九戸神社宮司千葉鏗一謹撰』※「鏗」は異体字使用
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神社はここからそこそこ離れています。車で行くのがおすすめです。
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途中の十字路にも九戸神社社号標(天皇陛下御在位60年記念・昭和60年12)があり、そのまま真っ直ぐ進めば九戸神社。左折すると九戸政実首塚がございます。社号標の近くには「旧跡 首塚 中世の英傑 九戸左近将監源政実公 自是南へ凡200m」という石碑と「平和祈念像」があります。
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平和祈念像由来(台座碑文)…『戦国時代、我々の郷土九戸村長興寺で育った誉れ高き武将九戸政実公が、天正19年(1591年)9月4日、時の天下人豊臣秀吉の軍勢約7万と、約5千の兵を以て九戸城に対峙するも、家来や領民を思いやり平和と子孫繁栄を願い、自らの命と引き替えに和睦開城した歴史は地域の忘れられない教訓であります。時恰も新世紀を迎えて、先の大戦を始め古くから、数々の郷土出身戦争犠牲者のご冥福をお祈りすると共に後々の郷土のすばらしい自然と風土で育まれた総ての人々の、平和と安寧を祈念し、九戸神社宮司千葉鏗一氏より土地の寄附と八戸市在住の中里信男氏の寄贈により茲に平和祈念像を建立します。平成13年(2001年)9月20日。九戸村長:岩部茂。揮毫:中里信男。製作:日展会員嶋田秀男。施工:㈱泉山石材泉山良作』
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九戸神社到着。
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岩手県九戸郡九戸村長興寺第1地割。九戸村は江刺家村・伊保内村・戸田村が合併して成立。軽米通江刺家名主組に属する長興寺村。寺社として曹洞宗長興寺、九戸神社、羽黒神社が見えます。
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九戸神社は承和9年(842)の創建と伝えられる九戸地方の総鎮守。九戸家代々が戦勝を祈願した神社として知られています。御祭神は天之御中主大神、宇迦能御魂大神。
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案内板「九戸神社」より…『祭神は天之御中主大神で、創建は承和9年(842)と伝えられる。古くは北辰妙見または九戸妙見と称したが、明治元年九戸郡一ノ宮の故を以って九戸神社と改称された。天正3年(1575)の山火事延焼で社殿などことごとく灰燼と帰したが、寛文3年(1663)再建された。御神体のみは神池に沈めたため安泰であり現在に至っている。九戸神社は、この地を知行した九戸氏代々の祈願所であった。妙見菩薩、毘沙門天、泥絵、棟札、奉納剣が村文化財に指定されており、例大祭は5月5日である。』
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光政公手植の梅跡…『由緒…九戸修理光政公、文明の頃(1470年代)二戸の荘を領し、白鳥城(現二戸市福岡)に転拠するに方り社前に武運を祈りて献樹せる所と言えり。目も鮮かに深紅五辨、馥郁たる芳香漂い、衆庶佳境に誘ふのひしり木なり。幾世代克く風雪を凌ぎて、姿容壮麗にして優雅、世に九戸梅と伝え称せり。しかるに世は遷りて、いつももとせあまり、老い盡きて昭和の初頭遂に枯損滅歿せり。嗚呼寂莫禁じ難く追憶の情措く能わざるなり。ここに碑を建て由来を刻して永くその謂を伝えんとするもの也。昭和56辛酉年5月吉日。九戸神社宮司千葉鏗一謹撰。九戸氏旧蹟保存会・特別協賛者千葉喜久治』
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神社庁由緒…『古来、九戸妙見と称し、創立は仁明天皇の承和9年(824)6月15日、千葉氏の祖松王丸の創祀と古伝ある。中世南部氏の支葉九戸氏代々の祈願所にて、殖産興業・馬産守護神として尊崇する。天正3年(1575)3月、野火の災禍で社殿・社家・宝庫等悉く灰儘に帰し、古器・古文書等の旧記を失い、古来の確証整わず、本尊の妙見菩薩・毘沙門天・不動明王(鎌倉期作)は御手洗池に沈めて安泰現存す。慶弔17年(1612)南部利直、社鷯二十三石四斗を永代寄進、境内付山林六十万余坪を妙見林として安堵。官営18年(1641)境内殺生禁断を郷中に布告。寛文3年(1663)南部重直が社殿修改築のため、式年制を立て明治の廃藩置県まで十数度藩費を持って造営す(八戸分藩後は八戸藩と同様)。明治元年(1868)九戸神社と改称。同4年(1871)郷社定則による郷社となり群内諸社を付属す。明治43年(1910)無格社羽黒神社を併合。昭和60年(1985)12月、天皇陛下御在位60年奉祝記念社殿増改築、神域整備を完了す。』
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石段参道の途中。
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右手にも鳥居と参道があります。所謂女坂です。
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池があります。由緒にも出てくる池でしょうかね。
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手水舎。
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御神木、不明の石、供養塔(天保7年)。
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狛犬一対(大正15年5月8日)。
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古神札納所。
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石段上鳥居。
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社殿正面。
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ちなみに女坂から上がってくるとこのように社殿が見えます。
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裏参道鳥居。
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広い境内です。
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石灯籠大小二対(大:昭和5年4月4日、旧3月3日・小:天保7年6月)。
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手水石(昭和15年11月10日ほか)。
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拝殿。
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拝殿向拝神額等。
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拝殿内。
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幣殿・本殿覆屋。
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境内案内板「御由緒」より…『御祭神:天之御中主大神、宇迦之御魂大神。古来より北辰妙見宮又は九戸妙見と称し、創立に第54代仁明帝の承和9年6月15日勧請創祀すと古伝す。以来當地方開拓興業の産土神として信仰篤き社なり。中世南部藩主祖光行公五男行連公當九戸地方を知行するに及び九戸一郷の総鎮守、九戸家累代の祈願社として信仰奉斉せり。天正3年(1575)春山火事により延焼し社殿及び旧記の悉く灰燼に帰したが御神体は御手洗池に沈め安泰現存す。天正19年(1591)九戸戦乱後盛岡藩主の崇敬厚く慶長17年(1612)27世信濃守利直公社領23石4斗余りを永代寄進し、寛永18年(1641)神域内殺生禁断を仰出さるなど崇敬奉も鄭重を極め信仰殊に深かった。寛文3年(1663)28世山城守重直公国家安穏万民繁昌の為、社殿を再建奉納し、尓後の造営は式年制を建て悉く藩費を以ってし遷宮式は藩祭を以って行い、八戸分藩後は八戸藩主に於いて同様崇敬された。境内に伏見の老桜ありて藩主観桜の宴度々なりしため桜沢の地名となる。明治9年3月九戸郡一ノ宮の故を以って九戸神社と改称、同4年郷社定則により郡内最首の社として郷社に列す。明治40年日露戦勝利報賽のため、陸軍省より戦利品を奉納。明治42年神饌幣帛料供進神社、同43年5月例祭日を新暦5月8日に変更、同年7月官命により羽黒神社を併合、昭和20年12月神道指令により国家管理を離れ神社本庁の所属となる。同25年3月国有境内地の無償譲与を受く。基本財産成、参道開設、神楽殿の新設と次々に記念事業を行う。昭和53年5月創立1140年記念として社殿の補修、境内の拡張整備の工を起し、神域の尊厳維持を画る。以上事蹟により、歴代藩主の尊崇と庶民の限りない信仰と奉賛は幾多の奉納物をもって知られ、霊験あらたかに神威いよいよ高く地方鎮守の社として崇敬されている。九戸神社社務所』
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神輿庫。
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境内社。
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案内板がありますが、ほぼ消えかかっており、ハズキルーペを使っても読めませんでした。
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境内社。大洗磯崎神社。
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茨城県大洗薬師の御分祀。
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案内板には「文化九年九戸妙見別當知音郷中平穏を祈り創祀す」と見えます。それ以下は「少彦名神」の文字など部分的に見えますが、ほぼ読み取れなかったため省略。
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政實神社。
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社殿。
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社殿内。
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案内板「政實神社(北天宮)」…『【祭神】九戸政実公(神号、北天伯振彦命(ホクテンミチフルヒコノミコト)【祭日】10月30日(公生誕の日)【御創建について】九戸村の生んだ中世の英雄九戸左近将監源政実公の時から400年を経た今もなお人々は、公の遺徳を偲び慕う心は強く甦ってきます。天正19年秋世にいう九戸の乱において、天下人豊臣秀吉麾下6万5千と云われる大軍を相手に、僅か5千の軍兵克く互角に対抗して一歩も引かぬ戦いを展開して、遠征の諸将をして「九戸勢侮り難し」とその武勇を嘆賞せしめて、その名を永く史上に残しています。時に成敗利鈍を問う諸説の伝へあれども、公を評して「人となり沈勇にして喜怒色に顯れず」とその沈着豪胆を述べ又外には責極武を以って臨み、内は万端事を得て温情を以ってし、同盟の士を敬愛庇護し配下皆心服して団結す」と記しています。又「夙に郷土を愛し産業を興し民生を安定してその勢力を伸張し累代の地を守護せんとするまさに土着の領主なり」と勝れた戦国武将たるのみならず、内に秘める優しさとその施政のありようを誉め称えておることは公の本当の人間像を伝へているものと確信し、私たちに郷土の誇りと大きな安らぎを与えてくれます。平成6年8月11日不図も政実公の御意を拝して、村内有志ら相い議りて神社創建を計画し、神霊の降臨を請い報恩感謝の誠をささげ以って村民福祉の向上と郷土の興隆発展に御加護を乞い仰ぐべく発願し、村民大方のご奉賛を得て、故地を卜して新祠を建立した次第であります。今や地方復権のとき崇敬の諸氏それよくご参詣ありたし。【御神徳】北方日高に真の勇者、指導者なる神威を以って諸事の振興、芸術文化、運動スポーツの振興への加護灼かなり。平成7年10月30日政実神社建設委員会』
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九戸神社拝殿と繋がっている建物。
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どうやら御神楽殿のようです。
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九戸神社内には仏像や奉納剣、泥絵、九戸政実ゆかりの棟札(「天文7年9月19日大檀那源政実」)など、村指定の文化財が数多く納められていますが、それらを写真で紹介されています。写真とはいえ、いつでも見ることができるのは嬉しい配慮です。
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どうしても写真が光に反射してしまうので一部だけ紹介します。なお、九戸村HP等で写真(説明付)を見ることができますので、そちらを見て頂いた方がいいかと思います(平成30年現在)。
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妙見菩薩(昭和45年8月29日指定。桂材一木造立像。高さ116.5cm、幅33.0cm)…昭和48年10月25日、司東真雄先生来社調査の際のお話によりますと、法衣の刻み等から推して鎌倉期と察せられますが、髪が耳部に懸かっている事などから推せば室町期か、矢張り鎌倉末期の作か。
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毘沙門天(昭和45年8月29日指定。桂材一木造立像。高さ83.0cm、幅32.0cm)…昭和48年10月25日、司東真雄先生来社調査の際のお話によりますと、法衣の土紋(桜、飛雲くずれ=蕨様画風)等より推して、鎌倉末期の作と思われ、特に鎧の彫刻(ノミ)の切れ味が優れて見事。
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不動明王(昭和45年8月29日指定。桂材一木造立像)…本来は、九戸妙見の脇仏ですが、明治2年神仏分離の際、官命により長興寺に移し安置。
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奉納剣(昭和50年7月31日指定。砂鉄製。長さ20.0cm)…昭和48年10月25日、司東真雄先生来社調査の際のお話によりますと、本来は、不動明王の絵馬剣として納められたもので、砂鉄製でおそらく室町期のもので貴重。他にもかなり奉納されているので、年代別に整理して保存すべきとのこと。コレクションとしても価値あり。
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境内末社群。
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倉稲魂厩神社(おそうぜんさま)…『天明3年6月妙見別當芳全郷中の要請により創祀す。元、馬頭観世音と称え、牛馬を始め家畜の安全、厩舎の息災を祈る。宇迦廼御魂神を祀る。』
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疱瘡神社…『元荒田部落の崇敬者が信仰したが後當地に遷し祀る。年代不詳。疱瘡をはじめ疫病除けに恩頼深き社なり。』
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水波廼賣神社…『明治35年4月、崇敬者沢口高岡松太郎肝入となり里人の創建する所なり。食物とならぶ生命を守り育てる水を恵ぐむ神にして水川を司り随時雨を祈りて霊験あらたかなり。』
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薬師神社…『文政10年6月篤信者の祈願により創祀す。元、千手観音と称え、病気平癒を祈願して、恩頼あらたかなり。大己貴神・少彦那命を祀る。』
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金勢神社(コーセン様)…『明治35年3月、崇敬者千葉由帰により創祀す。安産、縁結びを祈りて御神徳の髙い神。伊邪奈岐命・猿田彦命を祀る。』
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八坂神社…『延享3年7月崇敬者總意により奉齋す。元、牛頭天王と称え、厄除の神、破魔の神として信仰篤き素戔嗚命を祀る。』
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八幡神社…『明治21年3月泉山幸治郎、八幡様を深く信仰しここに祭る。武勇の神として有名であるとともに文化興隆の御神徳と慈愛の心を守り育てる誉田別命(應神天皇)を祀る。』
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竹駒稲荷神社…『崇敬者古館八十吉宮城県岩沼鎮座竹駒稲荷を御分祀奉齋す。生命を守り育て、五穀豊穣・商賣繁昌・幸福を招く倉稲魂神を祀る。』
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