
『呑香稲荷神社(二戸市)』からの続きです。
稲荷文庫の裏には九戸政実神社や大作神社などがあります
九戸政実神社。

九戸政実神社から御神木を挟んで、北白川宮成久王殿下御参拝記念碑。

更にその横には末社の稲荷社。

稲荷社横にも石祠。大黒様と恵比寿様がおりますが、馬頭観音かな。紀年銘は延享3丙寅年7月庚申。状態の割には結構な古さでした。

その横の石碑。

題字には篆書体で「下斗米将真之遺墨碑」とありました。

津軽寧親公に宛てた隠居勧告文遺墨。
更にその下に「下斗米将真傳」と題した文もあります。藤田東湖作、吉田松陰自筆。かなり状態が良いので解読は可能ですが、長い上に字体がかなり個性的なのでパス。興味のある方は現地へどうぞ。見応えのある碑です。
大作神社。
大作神社標柱。

御祭神は相馬大作(下斗米秀之進)。かつて県社八幡宮(盛岡)境内にあった相馬大作を祀る光孝社堂(光孝神社)が廃藩置県の際に廃社となり、その後、末裔の下斗米與八郎氏等により大正7年10月20に福岡町宅地内に遷座再興し、氏神として崇敬され、昭和6年に呑香稲荷に遷座されたもの。昭和44年改築。

付近の小祠。

人形がありました。

こちらも小祠。

石などが祀られております。

棟札横に金精様。
よく見たら金精様だらけでございました。
松の丸跡へと登る石段。

永井栁太郎筆で立派な坂名が付いていますが…くずし字が読めません。開拓坂?


石段を登ります。

松ノ丸跡。


松ノ丸跡標柱…『松の丸とよばれ、九戸城落城後に福岡城の主郭あるいは御仮屋として南部藩主が居た場所です。九戸城と福岡城の正確な位置関係はまだ不明ですが、盛岡城が名実ともに南部の主城となるまで20年の間南部藩の根城でした。』
畜魂碑(福岡町農協畜産部会)。

今上陛下即位記念植樹標柱。

立派な忠魂碑。

湯殿山碑「二千日山籠木食行者鐡門海」「四十八日寒行」(文化9年正月吉日)。

先彰碑(昭和37年晩秋)…建碑の由来『天地は悠久にして歴史は遼遠人は歴史を作り歴史は人を産む。偉大とは人に方向を與へることである。人工僅かに七千余の旧福岡の小天地は古來異色ある人物を産むといはる。こけ美しき山河につちかはれ秀れたる先人の遺教に養はれしに依るものか。されどこの郷土に貴き業績を残されし先人の名も星移り年変ると共に漸く忘られ行くは誠に遺憾の極みである。時たまたま花巻の人福岡髙等学校長己が郷里に鶴陰碑ありて社会公益につくせし人々の名を刻みあることを語るや黒沢治助氏いたく心を動かし我郷土にも同趣の碑を建て永く後世に遺さんとして其の人選を余に托す。依て旧記を調べ古老にただし古き頃より今日に渉り国家社会公益に影響を及ぼせし物故先人百丗名を選びこれを刻みて後世の亀鑑となさんとす。また裏に刻みたる人士は曽て此の地に來遊し或は交信して此の郷土の人心風教に深き感化指導を與へられし人傑の芳名にして之を南部信直公の居城たりし松の丸に建て後輩感奮の一助たらしめんとす。希くは先人の志業を継ぎ国家社会世界人類のため挺身せられんことを。かくして歴史は古今を一貫して不朽に伝はることを記憶せられたし。』

英霊顯彰碑…『此處ニ顕彰スル英霊ハ郷土出身將士ニシテ満州及支那ノ両事変並ニ太平洋戰役ニ於テ陸海空軍ニ所属シ参戰遂ニ戰死歿セル軍人軍属ヲ始メ公務中不慮ノ死ヲ遂ケタル百五十九名ノ英魂ヲ合祀スルモノナリ。惟フニ各將士ハ戰局苛烈トナルヤ大命ノ下緩急ニ應シ克ク軍命ニ服シ厳寒ノ大陸ニ又ハ北方ノ列島ニ玉碎ヲ遂ケ或ハ灼熱ノ南方諸地域ノ大激戰ニ於テ散華病歿セシ盡忠報國ノ赤誠ハ豼貅ヲ泣カシムルモノニシテ其ノ勲功誠ニ万世不朽ト謂ナヘシ茲ニ終戰ナリテ二十年吾等遺族ハコレヲ記念シテ以テ顕彰碑ヲ建立シ郷党ト倶ニ永く顕彰ノ誠ヲ捧ケントス希クハ英霊鎮マリテ平和ト祖國ノ繁榮ヲ加護アランコトヲ』

狛犬一対。




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