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岩手県二戸市福岡城ノ内。基本的に現地配布パンフレット及び案内板に忠実に説明していきたいと思います(平成30年現在)。
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九戸城エントランス広場。
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三ノ丸跡です。
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九戸城エントランス広場から本丸を望む。エントランス広場の東側には土塁と堀跡があり、その先に本丸を望むことができます。また、エントランス広場には休憩できるガイドハウスがあります。この広場を起点に、本丸・二ノ丸の下方にある腰曲輪を抜け、城跡を広く散策することができます。
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パンフレット(日本中世史終焉の場 国指定史跡 九戸城跡)「政実無残。太閤仕置の大乱に散る。」より…『◆秀吉の全国統一完了…豊臣秀吉は、奥州再仕置(九戸征伐)と称して全国に出勤命令を出した。そこには総大将に豊臣秀次以下、徳川家康・伊達政宗・石田三成・蒲生氏郷・上杉景勝・浅野長政・井伊直政・大谷吉継・堀尾吉晴・佐竹義重など、錚々たる戦国武将の名が連ねられていた。【南部の二大勢力】鎌倉時代の初めに発祥した奥州南部氏は、26代信直が盛岡藩を確立し、幕末には陸奥10ヵ郡・20万石を領す大名でした。天正10年(1582)、24代当主晴政が死去したことで、娘婿の田子信直支持派と晴政の遺子晴継(25代)を擁護する九戸派が対立、その後、晴継も13歳で謎の死を遂げ、世継ぎ騒動は混迷の度合いを深めていきます。結局は信直が26代目を継ぎ決着しますが、この嫡流と傍流に関しては、永禄6年(1563)の室町幕府「諸役人附」の「関東衆」の中に「南部大膳亮」と「九戸五郎」が併記されていることから、南部氏と九戸氏は同格の別族であるという説や、併記は同族並立状態が依然として続いていた北奥羽の様相を反映したものとする説もあります。要するにこの時代、南部は二大勢力が対立する時代でした。【6万対5千】天正19年(1591)3月、九戸政実はついに挙兵し、南部を二分する戦いに突入します。豊臣秀吉の重臣前田利家を通じ、自らが南部家本宗であることの確認の起請文を送っていた信直に対し、秀吉は領地安堵の書状を与えて26代当主を公認、緒戦は九戸方が優勢でしたが徐々に形勢が逆転し、政実は天下人に背く謀反人として奥州再仕置軍と戦うことになりました。9月2日、馬淵川流域をはさんで、一説には再仕置の上方軍勢6万に、九戸籠城軍は約5千人が対峙、熾烈な攻防が始まりました。【偽りの和睦】9月4日、難攻不落の城に苦戦を強いられた上方軍は謀略を巡らせ、九戸氏の菩提寺長興寺の和尚(一説には4代目住職薩天)を使者にたてました。持たせた手紙の中で政実の武勇を讃え、女子供の助命を条件に降伏を説得させました。謀略とは知らぬ和尚と、一人でも多くの一族郎党を救おうと和睦に応じた政実でしたが、開門した城内には火が放たれ、城内の者は撫切りにされたと伝えられています。また、政実と7人の重臣は豊臣秀次の待つ三ノ迫(宮城県栗原市)で斬首されました。』
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パンフレット(日本中世史終焉の場 国指定史跡 九戸城跡)「兵共が夢の跡。発掘調査による新事実」より…『◆畑とうっそうとした樹木の下に、中世平山城として東北随一の規模を誇る九戸城が眠っていた。【中世城郭から近世城郭へ】昭和10年(1935)に国の史跡に指定された九戸城は2つの時代が併存しています。まずは九戸光政の代の頃(明応年間=1492-1501)に築城されたといわれる中世平山城の九戸城で、本丸・二ノ丸・三ノ丸を除く部分が九戸城そのままの姿と考えられます。九戸城落城後、上方軍によって普請された本丸・二ノ丸・松ノ丸を加えた現在の姿が近世城郭、福岡城の姿です。九戸城は落城後再普請されて福岡城と改名されましたが、地元では今もって九戸城と呼んでいます。【本丸・二ノ丸に眠る九戸城】平成元年度(1989)から開始された九戸城の史跡環境整備事業により、落城直後、秀吉の命によって蒲生氏郷らにより現在の本丸跡・二ノ丸跡を中心に安土桃山様式の城に築き直されたことが分かりました。その本丸整地層の断面には焼土や木炭、火を受けた生活遺物や火縄銃弾丸など戦禍の痕跡が見られ、さらにその下位に地上では観察できない堀跡や溝跡などの九戸城時代の遺構が残っていることが明らかになりました。平成11年(1999)には九戸城時代の遺構(二ノ丸跡)から竪穴遺構が検出され、そこから漆塗りの工具として用いられたと思われる漆の付着した貝殻や、漆に金泥を塗り込めた鎧の札(さね)など、漆製品が一括して出土しました。城内には武具を仕立てる工房があったと考えられます。【四肢骨の刀創と撫切り】平成7年(1995)、二ノ丸大手門近くで九戸城落城直後に掘られたと思われる粗末な墓穴から、首のない人骨十数体分が発見されました。これらには無数の殺傷痕や刺突痕があり、平成20年(2008)に東北大学医学部で再調査の結果、女性も含まれていることが分かりました。地元に伝わる伝承や後世の軍談記にある撫切りの犠牲者と考えられています。』
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史跡案内図より…『【九戸城の歴史(築城-廃城)】九戸城は、九戸氏が明応年間(1492-1501)に築城したといわれる。九戸政実が城主の頃、豊臣秀吉による奥州仕置で奥羽が混乱する中、三戸南部26代当主・南部信直は秀吉から本領を安堵された。一方、奥州仕置や信直に不満を持つ糠部の領主たちは政実のもとに結集、天正19年(1591)春、政実はついに蜂起したが、同年9月、秀吉がおくった再仕置軍に包囲され、政実は降伏し九戸城は落城した。再仕置軍の蒲生氏郷が再普請して信直に引き渡し、信直は南部氏の本城とし名を福岡城と改めた。その後、信直の子利直が盛岡城を築き、本城を移した後は城代が置かれたが、寛永13年(1636)に廃城となった。【国指定史跡「九戸城跡」の見どころ】九戸城跡は昭和10年(1935)6月7日、国の史跡に指定された。豊臣秀吉が全国統一を果たす最後の合戦場となった歴史的舞台であり、本丸には東北最古級といわれる野面積の石垣が残り、東北の中でも大規模な城郭であったことが指定理由として挙げられる。城は馬淵川右岸の河岸段丘上に位置し、馬淵川・白鳥川・猫淵川を外堀とする。また、二ノ丸と松ノ丸・在府小路の間に巨大な堀(深田堀)がある。現在の本丸、二ノ丸、松ノ丸は落城後に再普請された福岡城期の姿であり、九戸城期の姿を留めているのは石沢館、若狭館と推定される。』
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史跡案内図。
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現在ここです。
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本丸西側の土塁と堀跡付近の案内板。
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堀跡沿いに二ノ丸大手方面へ。
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左側は断崖絶壁。深田堀の中から二ノ丸切岸を見上げている感じです。
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堀跡標柱。
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大手門脇堀跡…『ここは九戸城の二の丸と松の丸、在府小路(武家屋敷跡)を隔てる堀跡です。底での幅が60mもあり日本の城跡でみられる堀跡としては最大級の立派なもので、城の時期によっては水堀であった可能性もあります。』この付近です。
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史跡九戸城跡標柱。
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大手門前になります。
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この付近です。
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二ノ丸大手…『二ノ丸には、出入口である虎口が3箇所に開かれており、正面とされるのが二ノ丸大手です。大手は城郭において政治的、軍事的にも重要な道筋で、堀を挟んだ武家屋敷跡とされる在府小路遺跡と土橋で繋がっていました。二ノ丸大手は、福岡城の普請時に改修したと推定されます。現存するいくつかの古絵図には、方形の空間をもった桝形の虎口が描かれていますが、現状では確認することはできません。平成7年に実施された発掘調査では、虎口の一部と推定される土塁の痕跡が確認されていますが、門や石垣などの施設は明らかになっていません。平成27年に実施した地中電気探査では、東西方向に幅約6メートルの構造物が存在することが確認されており、二ノ丸大手の一部である可能性があります。』
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案内板より…『平成7年の発掘調査風景。二ノ丸大手虎口に伴う土塁の下端が確認されています。』
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案内板より(周辺案内図)。
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二ノ丸跡。
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二ノ丸跡。現在見える姿は本丸と共に福岡城の姿です。九戸城時代にも一部、土塁が構築されていた可能性があります。また、東側では竪穴式の工房や大型の建物が立ち並んでいた区画が見つかっています。
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國分謙吉・農事試験場記念碑。国分謙吉(1878-1958)は二戸出身の農政指導者、政治家(岩手県知事2期)。明治26年、九戸城跡地に私立国分農事試験場を創立。小作人への経営指導や優良種苗の無料配布などを行い、以降も二戸郡の青年会長や農会長を歴任。大正6年、蚕種・種苗の生産販売、農薬・農機具の販売を営業とする「岩手蚕種(現、岩手農蚕)株式会社」を岩手県の支援を受けて設立し自ら社長就任。大正14年には岩手郡滝沢村(現滝沢市)に「国分農場」を設立。昭和8年には「岩手農政社」を組織して農畜一体をとなえ運動を展開。岩手県会議員を経て、昭和22年4月5日、岩手農政社の組織力をバックに岩手県知事選挙に当選。
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地形模型がありました。案内板より…『【九戸城の歴史】九戸城を九戸氏が居城としたことが文献に最初に現れるのは九戸政実より4代前の九戸光政の頃(明応年間=15世紀)です。天正19(1591)年、城主九戸政実は南部26代当主の座に弟を擁し、田子信直と奥州南部を二分して争いました。信直が天下人秀吉の領地安堵をとりつけたことから、天下の謀反人として秀吉の奥州仕置軍6万余を敵に回しこの城にたてこもり戦う事となりましたが、仕置軍の策謀により落城しました。その後、秀吉の命で仕置軍の軍鑑であった蒲生氏郷がこの城を普請し南部信直に渡し、信直は三戸城より移り福岡城と命名、盛岡城の築城が成るまで南部氏の本城として機能しました。【九戸城の特色】城の形式としては規模雄大な平山城であり占地や縄張には中世南部地方の城の特色が色濃く見られますが、石垣を築き、虎口は枡形の形態を取るなど近世的な特色も強く、中世から近世への過渡期の城であると言えます。特に石垣は東日本では最古級であり、古式穴太積の石垣としては最北のものです。城郭史のうえでは三戸城と盛岡城の間の時間に位置する南部氏本城であると言えます。【九戸城の規模】昭和10年に国の史跡指定を受けているのは字城ノ内及び字松ノ丸の合わせて約21万㎡であり、この中には本丸、二ノ丸、松の丸、若狭館、外館(石沢館)が含まれていますが、本来の城域は西の馬淵川、北の白鳥川、東の猫淵川を天然の外堀として、南は松ノ丸の人造の空堀までの34万㎡(市営球場のおよそ25倍相当)にも及ぶ広大なものでした。指定当時、三ノ丸(字城ノ外、字五日町)は既に市街地であったため指定区域から除かれています。』
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とてもわかりやすいですね。
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写真じゃ伝わらないと思うので現地で見て下さい。
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九戸御陣図(寛文7年作)
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この付近です。
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ということで、長くなったので『九戸城跡 ~ 其之弐』へ続く。
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