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主殿内部へ。
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主殿内は各所で説明のアナウンスが流れているのでわかりやすいです。
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台所。奥御殿から運んだ料理を配膳する部屋。
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詰ノ間。来客の応対をする人がいる部屋。
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茶ノ間。来客にお茶をたてる部屋。
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7.5
縁。廊下。
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控ノ間。儀式の準備をする部屋。
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9.5
二ノ間。広間に次ぐ部屋。
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広間。儀式を行う一番格の高い部屋。
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正月11日の儀式の様子。中央に八幡大神・三島大明神・月山大権現。
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雪隠。展示室になっています。内容は省略。
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縁の展示物。写真はミニ合掌土偶。詳細は省略。
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重宝ノ間は南部家につたわる重宝を入れる部屋。展示室になっています。一部紹介。
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重要文化財紺糸威胴丸(兜・大袖付)。林原美術館所蔵。『この胴丸は淡い紺糸で全体を威しており、胴の裾広がりの形は、南北朝以前の特色をよく示し、その時期にさかのぼり得る胴丸として特筆されます。胴丸も鎌倉時代末期頃からは、兜や袖を付属するようになります。この兜には大きな鍬形が付いていたと思われ、豪壮な感を抱かせる甲冑です。紺糸威胴丸は、興国2年(1341)に根城南部5代南部政長が後村上天皇より、粟田口国安の太刀一腰と共に拝領したと伝えられています。その後、根城南部家の重宝として毎年正月11日の武事初めの儀式に際し、盤上に置かれ、諸臣とともにこれを拝したといわれます。』
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「清心」の書。『この書は、遠野市長の菊池正氏から八戸市に寄贈されたものです。「清心」は、根城南部家21代当主清心尼の名に由来しています。根城南部家20代直政の正室で、名を子子といいました。夫と嫡子に先立たれた子子は根城南部家21代当主となり、剃髪して尼となりました。その後、一族の新田家から直義が養子として迎えられ、22代当主となりました。寛永4年(1627)、根城の南部家は盛岡藩主南部利直の命により遠野に移りました。直義は、盛岡藩筆頭の重臣であり盛岡にいることが多かったため、遠野での治政は清心尼を中心に行われたと伝えられています。清心尼という名は、「清い心と公正な人」という意味で、家臣や領民からは「清心様」と尊称されていたといわれています。正保元年(1644)59歳で亡くなりました。書の揮ごうは、遠野市名誉市民で書家の林錦洞氏によるもので、中央には南部氏の家紋である「向鶴紋」が描かれています。遠野市日枝神社境内の樹齢300年を越える赤松を遠野市松原造園・松原宏氏のご協力により製材した板を使用しています。2001年2月第17回南部氏首長会議開催記念、八戸市長中里信男』
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アメリカへの夢はるか、遠野南部家第33代南部義敦公・青春の群像(遠野市澤里裕氏寄贈)。『南部義敦は、遠野南部家32代済賢(ただかつ)の次男として嘉永6年(1853)に生まれ、幼い頃から学問を好み、秀才とうたわれました。明治2年(1869)東京に遊学し、芳野金陵のもとで漢学を修めました。さらに西洋の学問も学ぼうと、明治5年(1872)に再び東京の福沢諭吉の慶應義塾に入りました。先にアメリカ留学の経験のある友人が、しきりにアメリカ留学をすすめたので、義敦も喜んで渡米しようとしたところ、同年急な病にかかり20歳の若さで没しました。この写真左の椅子に腰をかけた秀麗な顔立ちの若者が、義敦公です。明治2~3年頃に撮影されたものと伝えられています。(※写真左:南部義敦、中央上:工藤鼎、中央下:高橋仙助、右:田口小作)』
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南部勤王五世肖像(遠野市鶴田馨一氏寄贈)。『上段中央に紫宸殿の高御座、右側に御帳台を配し、大正天皇・皇后の肖像を描き、下段には、右側から南部師行・政長・信政・信光・政光のいわゆる「南部勤王五世」の肖像を描いています。根城南部家4代の師行から8代政光までの時代は、南北朝の動乱期であり、南朝方の拠点となったのが、この根城でした。大正4(1915)年11月6日、岩手県遠野町(現在、遠野市)の芳文京で印刷されたものの複写です。』
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殉忠遺蹟供養塔(大阪府堺市浜寺石津町所在)。『南北朝時代(今から約670年前)、日本国内は後醍醐天皇と足利尊氏が対立していた。後醍醐天皇方を南朝(奈良県吉野が拠点)、足利尊氏方を北朝という。源顕家(北畠顕家)は陸奥守鎮守府大将軍として南朝方の中心的存在であった。北朝方との対立が激しくなった延元2年(1337)、多賀城(宮城県多賀城市)から霊山(福島県霊山町)に拠点を移した北畠顕家と、ここ根城から駆けつけた南部師行等の連合軍は京都回復のために西上の途についた。翌年の5月22日、北畠軍と足利軍は大阪湾に注ぐ石津川の河口付近でついに激突した。この戦いは足利軍の勝利に終り、顕家と師行は激戦の末、戦死した。足利軍1万8千人、北畠軍は最後に残った精鋭3千人の戦いであった。昭和12年(1937)、石津の古戦場であるこの地を選んで600年忌の大法要が執行された。北畠顕家、南部師行両公をはじめ戦病死された英霊の供養が行われ、五輪塔と記念碑が建立された。五輪塔地輪正面中央に「殉忠遺蹟供養塔」、その左右に「源顕家公」、「南部師行公」と2人の名前が刻まれている。側面には「判明戦病死者烈名」の名前が刻まれている。また、記念碑は根城南部家36世の南部日實氏の筆によるものである。』
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「多賀城碑」の拓本掛軸。『この拓本の掛軸は、宮城県多賀城市長の鈴木和夫氏から八戸市に寄贈されたものです。多賀城市には国の特別史跡「多賀城跡」があります。奈良時代から中世にかけて陸奥国府があった場所が多賀城跡です。この多賀城跡の一角に「多賀城碑」があります。碑文は次のとおりです。「多賀城は京を去ること一千五百里、蝦夷国の界を去ること一百二十里、常陸国の界を去ること四百十二里、下野国の界を去ること二百七十四里、靺鞨国の界を去ること三千里。此城は神亀元年歳次甲子、按察使兼鎮守将軍従四位上勲四等大野朝臣東人の置く所也。天平宝字六年歳次壬寅、参議東海東山節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝猟(※けものへん+葛)が修造する也。天平宝字六年十二月一日。」前半には、多賀城までの距離を記し、後半には神亀元年(724)大野朝臣東人が多賀城を設置したこと、天平宝字六年(762)藤原恵美朝臣朝猟が多賀城を修造したことを記しています。この碑は、江戸時代の初め頃に歌枕「壷碑(つぼのいしぶみ)」として、全国にその名が知れ渡りました。平成10年6月、国の重要文化財に指定されました。元弘3年(1333)、後醍醐天皇は、奥羽の重要性を考え、従二位権中納言北畠顕家を陸奥守に任じ、義良親王(後、後村上天皇)を奉じさせて、陸奥国府の多賀城に下向させました。このとき、南部師行は顕家に従い、本領の甲斐国より下向。国代(国司の代官)として八戸地方に派遣されました。師行は「郡奉行」という行政権を執行する権限と軍事警察権をもつ「郡検断」という権限をもち、当時糠部郡と呼ばれていた岩手県北部から下北半島までの地域をはじめ、山北・鹿角郡(秋田)・久慈郡・閉伊郡(岩手県)・津軽(青森県西部)まで支配力を及ぼしました。2001年4月21世紀記念八戸市長中里信男』
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祈祷ノ間。東善寺住職が当主の家内安全をいのる部屋。
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愛染明王。
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主殿を出ます。
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板倉(倉庫)と主殿の間、上馬屋前を通って中馬屋へ。
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季節的に緑で目立ちませんが、中馬屋の裏に見えるのが「根城の大公孫樹」(幹周9.1m、樹高24m。樹齢は不明ですが築城当時のものと推定。八戸市保存樹木第3号指定)。横には師行32代の後裔南部日実氏の筆による「初代實長公以来使用の光明点題目大幡」を象った記念碑が建立されています。背面には根城の由緒。雨がひどくなってきたため内容はスルーします。
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中馬屋。馬房と物置になっています。発掘の出土からみて牛や子馬もいたと思われます。屋根は栗の割り板、庇は杉皮。風で屋根が飛ばされないように、屋根の上には石が置いてあります。石置屋根は、発掘調査により、中馬屋周辺で石が多数出土したことから設けられたものです。八戸周辺から下北にかけて、風で屋根が飛ばされないように石を置く習慣が最近までありました。
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中馬屋…『この建物は、来客の馬が繋がれていたところです。手前の部屋にはほうきや桶などの道具や干し草が入っていました。当時の力のある人達は、板張りの馬屋を作っており、古い絵巻物によく描かれています。武士たちは優れた馬を競って手に入れ、大切にしていました。当時の馬はかなり小さく、体格の良い馬でも体高(肩までの高さ)は1.3mほどでした。』
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中馬屋と下馬屋の間の井戸。この井戸はかなり深く危険なため、底まで掘り下げることはできませんでした。
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下馬屋。主に夜間や冬の間、馬を飼っていたところです。馬屋と倉庫を兼ねていて、鞍や鐙などの馬具のほかに、馬の餌となる飼い葉もたくさん蓄えられていました。馬の世話や見張りをするために、番人が交替で詰めていました。建物内にはたくさんの柱が使われていますが、柱と柱の間隔が広いところを通路と考えると、間取が分かりやすくなります。
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7.0尺通りを通路と考えた場合の平面図案(下馬屋)。
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下馬屋前から見た番所。西門を通る人を監視するための番人が詰めていたところです。休憩所として活用するために開け放しにしていますが、本来は板壁が取りついていたと考えられます。
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物見。平面表示。この建物跡は、遠くを見るためのやぐらがあったところです。敵の気配や荷物をつんで馬淵川を行き来する船の様子を高いところから見張っていました。高さは7、8mあったと考えられます。
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一葉一字供養塔。
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享保3年(1718)、八戸藩士の接待宗碩は、藩の繁栄と先祖や根城の戦没将兵を供養するため、法華経を一枚の葉(板)に一字ずつ書き写し、ここに埋めたといわれています。
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祭壇跡。土まんじゅうのように高く盛り上がっているところは、神様(氏神様)が祭られた神聖な場所と考えられています。
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案内板は疑問形。
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西門。ちなみに本丸を囲む柵は、親柱は栗、子柱はヒバ、くさびはケヤキなどの木材で建てられています。
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西門の先は西の沢方面。
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野鍛冶場。発掘調査で、焼けた地面が十数ヶ所出土したこと、鉄屑やるつぼフイゴ(鉄や銅の精錬、鋳造などで高温が必要であり、炉内の火力を高める目的で用いるための送風道具)の羽口など鍛冶関係の遺物が出土したことから鍜治場と推定。屋外の鍜治場で、こわれた鉄鍋や銅銭などを溶かす作業をしたところです。鉄はまじりものを除いてからいったん棒状にし、銅は鋳型に流し込んで固めたあと、鍛冶工房で加工されました。強い風は、炉の熱を逃してしまうので、板塀をまわして防ぎました。
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イメージ。
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井戸(径2.7m×深さ6.5m以上)。
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ちなみにいくつか井戸がありますが、案内標柱にはこのような井戸断面図があります。
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鍛冶工房。この建物は竪穴式で、地面から90cm下にある鍜治場では職人が鎧や刀の部品のほかに釘などを作っていました。鍜治場にはフイゴと炉があり、周囲には鍛冶道具や不用になった鉄、銅銭、炭などが置かれています。金属は大切にされ、壊れた破片でも再利用されていました。鉄の製品は金づちで鍛え、銅は鋳型に流し込んで作られました。
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鍛冶工房内部へ。
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イメージ。
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板蔵。この建物は、当主やその家族が奥御殿で使う道具や衣類を入れていたところです。品物を守るために厚さ6cmの厚板を使って丈夫に作られています。また、板の柱の溝に上から落ちこむようになっていて、簡単には外すことができません。ここに出入りするのは、奥御殿に仕える女性たちで、品物の出し入れや手入れを慎重に行っていました。
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板蔵の組み立てかた。
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板蔵内部へ。
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黒漆塗りの長持、屏風箱、円座、唐櫃、割籠、石臼、瓶子、折敷、皮籠、書物箱などなど。
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50.4
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イメージ。
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板蔵横の井戸。
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奥御殿。常御殿と同様に平面表示です。当主の家族が住んでいたところで、先祖の霊も祭られていました。
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当主は先祖の拝礼や家族の様子をうかがうため、常御殿から通って来ました。この場所から日常的に使われるものが一番多く出土しています。
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簡単ではありますが、以上で根城跡の記事(全3回)は終了です。中世の城館の復原とは思えないほど立派なものでございました。
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