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青森県むつ市大湊新町。大湊ホタテセンターの裏。
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大湊湾に面しています。
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明治元年、激戦の末に会津戦争に敗れた会津藩は廃藩となり藩主松平家は改易となり、多くの藩士が謹慎処分となりました。明治2年に松平容保(会津藩9代藩主・会津戦争を指揮)の嫡男容大に松平家の家名存続が許され、陸奥下北半島一帯3万石が与えられ斗南藩が立藩。当初は南部藩領時代の五戸代官所に藩庁が設けられましたが、田名部の円通寺(恐山菩提寺本坊)に仮藩庁が移されると明治3年には多くの藩士が新潟で船(アメリカの蒸気船ヤンシー号7隻)で日本海を北上し、6月10日に大湊大平浦(現在の大湊新町)に上陸して田名部に入りました。江戸で謹慎した藩士は陸路で奥州街道を北上して野辺地に至り田名部に入っています。
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会津から田名部の入植者は1万7千人を越えましたが、明治4年の廃藩置県により斗南藩が廃藩となり藩主容大が東京に引き上げると、行き場を失った藩士たちは離散して明治7年時点で既に1万人以上がこの地を離れました。石碑は斗南藩120周年の記念事業で建てられたもので、会津若松城(鶴ヶ城)の石垣と同じ慶山石を使用し、遥か遠くに位置する会津若松市を望む方角に向けられています。
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斗南藩士上陸の地…『明治2年斗南藩として再興を許された旧会津藩士の一団が新潟から海路をたどり見も知らぬ新天地の未来の生活に夢を抱きここに第一歩をしるしました。この史跡はむつ市市制施行30周年記念事業として会津人の心を偲んで設置されたものであります。【記念碑】鶴ヶ城の石垣にも使用されている慶山石を会津若松市よりご寄贈いただき、飯盛山に思いをはせて組み立てられております。また記念碑正面からは会津若松市を望む方角に設置されております。【台座】明治25年に田名部尋常高等小学校(現代官山公園)建設の際使用した基礎石を利用して組み立てております。【植栽】記念碑をとりまく花木は、むつ市の花である「はまなす」と会津若松市の木である「アカマツ」を組み合わせ植栽しております。平成2年3月吉日』
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釜臥山・釜臥山展望台。
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