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青森県むつ市新町。
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田名部川。下北郡東通村からむつ市を流れる川。2級河川。東通村の朝比奈平の東麓に源を発し、約8kmを北進、蒲野沢付近で北西に流路を変え、更に石持で南西に流路を変え、土手内付近でむつ市に入り、陸奥湾北東部の大湊港に注ぎます。河口から現在のむつ市街地までの約2kmの間は川幅も広く流れも緩やかで、藩政期には船着場もあり、安渡・大平(現大湊港)両湊に入港した物資を川舟をもって田名部に運ぶなど河港的性格を持ち、田名部大橋のたもとの舟着場は田名部橋前と称され、田名部七湊と同様の取扱いを受け、古くから下北地方の商業経済・文化の中心地でした。地元では昔から「田名部横町の川の水飲めば八十婆様も若くなる」という言い伝えがあるそうですが、現在の田名部川下流には大量の生活排水が流れ込んでおり、水質はあまり良くありません。
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大覚院熊野神社。
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社号標「大覺院熊野神社」
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御祭神は熊野久須美命、櫛御気野命、御子速玉命、火迦具土神、釜臥山大神、泉海命。例祭6月19日。
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田名部海辺三十三観音巡礼第29番札所。田名部五か院「大覚院(渡辺)、大宝院(中里)、宝鏡院(目時)、竜蔵院(菊池)、寛明院(菊池)」の内の一か院。
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田名部新町の薬師堂は大永4年(1524)6月に大覚院の祖先、大宝院真如坊という山伏・行者(肥前国仁比山の(長崎・佐賀)出身で熊野修験)が紀州熊野に於て修行し、霊験を体得し北に進み田名部に土着し熊野大社の分霊を勧請して開基となりました。渡辺氏(神官)によりますと、神によって熊野神社の御神体を背負い、田名部に落ち着いたといいます。
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古くから釜臥山山頂に鎮座する釜臥山嶽大明神と関係が深く、大覚院が別当を務めており、現在でも大覚院熊野神社が祭祀を司っています。この背景として、大覚院は円通寺と密接不離な関係にあり、円通寺の力を背景に勢力を伸長し、釜臥山の祭司権利を獲得したとあります。明暦年間に釜臥山を掌握。江戸末期になると次第に田名部各地の社堂の別当職を入手。大覚院支配の神社数は29社ともいわれ、この中には下居明神(兵主神社)も含まれ、他地域の里修験を圧倒した存在でした。
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明和年間には田名部通の修験の中でも目名不動院と並ぶ指導的役割を果たしていました。大覚院熊野神社はその他兼務社の遥拝殿にもなっており、例祭には各社の総代・崇敬者多数参拝し、祭事後は神道講話を行ないます。
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3代泉海坊は弘治3年(1557)旧4月8日、自ら火に投じて鎮火の行事をして氏子崇敬者の危急を救ったので「行人塚様」として称えられています。ちなみに私が調べたところでは2代漂海坊、3代光円坊、4代千海坊で、千海坊の文禄2年12月に薬師堂は自火のため炎上。5代目の頃に熊野山官の別当。文政10年行人塚を設置。
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かつては川沿いに薬師堂が建立され、本地仏である馬頭観音が祀られていましたが、明治の神仏分離令により仏式が廃され、馬頭観音像は隣接する円通寺慈眼堂に移され、逆に田名部海辺三十三観音霊場第16番札所である大平神明宮の本地仏である十一面観音像が大覚院熊野神社に移されています。ちなみに大平村新高観音堂(大平神明宮)の創建は室町時代末期の永禄3年(1560)、尻高城(巣鷹城)の城主竹花因幡が身の着けた兜の前立にした十一面観音像を本尊として一宇を設けたのが始まりとされています。
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大覚院薬師堂(大覚院熊野神社)・田名部海辺三十三観音巡礼29番札所・馬頭観音…『大覚院の祖先は肥前出身の大宝院真如坊で、大永4年(1524)来村し、釜臥山嶽大明神を管掌することになった。観音像は、現在の大覚院境内の川沿いに鎮座した薬師堂に安置されていたらしい。馬頭観音は火伏せに御利益のある観音で、明治の神仏分離令により、隣接する円通寺慈眼堂に移安された。大覚院の神殿には、十六番札所の十一面観音が御神体として祀られている。』
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狛犬一対(天皇陛下御在位60年記念・昭和61年6月19日建立)。
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境内社。未確認ですが秋葉小祠かな。
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