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長者山新羅神社(八戸市)』からの続きです。
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境内案内板より…『【御由緒】新年の元朝詣でに始まり、春のえんぶり(木+八)・花見、夏のお盛り・森のお伽会、八戸三社大祭・騎馬打毬、秋の奉納相撲、冬の七五三詣でなど人々は、季節の区切を長者山新羅神社の行事を通じて知る事ができる。当社は、延宝6年八戸南部二代藩主直政公が、藩主の守護と領内の五穀豊穣・万民安穏・無病息災の祈願所として、長者山の山頂に神社を創建、社号を三社堂又は虚空蔵堂と称し、歴代藩主の崇敬最も篤い藩直営の神社で、領内の一の宮であり又総鎮守であった。元禄7年三社堂を改築更に文政10年、八代藩主信真公が再改築(現社殿)、同時に桜の馬場も開設して打毬の奉納も創設され、爾来1年も欠かさず、大祭日には加賀美流附伝騎馬打毬は、今日迄奉納され、明治14年には、畏くも天皇御巡幸の砌、天覧の栄に浴している。又、毎年2月17日にえんぶり行列である当社の、稲荷大神の御輿渡御式が、執行されて耒たが、これは明治30年以耒のもので、現行の2月17日になったのは、明治42年旧暦廃止に当り、伊勢神宮の祈念祭の奉幣日に合わせたものである。明治2年神社制度の確立により、社号を新羅神社と改め、更に昭和51年に、長者山新羅神社と改称して、現在に至る。【主祭神】素戔嗚尊・新羅三郎源義光命。【相殿神】倉稲魂命(稲荷神社)・大物主命(金刀比羅神社)・素戔嗚命(八坂神社)・天照坐皇大御神・豊受姫命・誉田別命(應神天皇)。【大祭】8月2日【創建】延宝6年【神紋】源氏菱【本殿】流造6坪【幣殿】入母屋造8坪【拝殿】入母屋造18坪【境内】4898坪【社宝】采配二振・長刀(友成銘)【旧社格】県社【境内社】・高おがみ神社-御祭神高おがみ神、例祭9月19日、創建承和3丙辰年。・桜山招魂社-御祭神護国の英霊、例祭5月3日、創建昭和28年』
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境内案内板「主な祭りと行事」より。
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境内案内板「主な昇殿祈願(安産祈願・初宮詣・厄年祓・交通安全・宮形祓)」「家庭の祭り」「主な出張祭典」の内容は一般的な説明だったので省略。
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手水舎。
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古札納所。
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古札納所横にあった稲荷の小祠。
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御祭神は素佐鳴尊・新羅三郎源義光命。新羅神社の創建は不詳ですが、古くから信仰の山として神聖視され、祈祷などが行われていたとされます。江戸時代初期の寛文5年に八戸藩が立藩すると、初代藩主南部直房は長者山山頂に一宇を設けて素佐嗚尊と虚空蔵菩薩を勧請。祇園堂・虚空蔵堂と呼ばれました。延宝6年に2代藩主南部直政は藩内の五穀豊穰、万民安穏、無病息災を祈願するために、南部家の祖神である新羅三郎義光の御霊を勧請。素佐嗚尊、新羅三郎義光、虚空蔵菩薩の三神が祀られたことから三社堂と呼ばれるようになります。以後、長者山新羅神社は八戸南部家歴代の祈願所、八戸藩の総鎮守、一之宮として崇敬庇護され、社領の寄進や社殿の社殿の改修、再建は藩費で賄われ、社運も隆盛。古くから神仏習合の形態をとっていましたが明治の神仏分離令により仏式が廃され、明治2年に郷社に列して新羅神社と社号を改め、更に昭和51年に長者山新羅神社に改称。
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拝殿は桁行5間、梁間3間平入の入母屋造に1間の向拝を付けていますが、梁間が3間の拝殿は珍しく、市内では櫛引八幡宮と当神社に見るのみ。本殿、拝殿ともに細部の彫刻等に江戸時代の神社後期建築の特徴がよく残される事から平成3年3月13日に青森県の重宝に指定されています。
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八戸藩8代藩主南部信真の命により、文政9年から同10年にかけて建立されたもので、家老野村軍記の藩政改革の一環として社殿造営が執り行われたものであり、建築にあたっては都から宮大工を招き、毎日500人から1000人もの人夫を駆り出し、作業に景気をつけるため、鮫と港のオシャラグ(遊女)たちに太鼓を打たせ、拍子をとらせるという大規模な事業であったと伝えます。その際、境内の整備と馬場の整地も行われており、桜をはじめ、梅や松も植えられました。長者山新羅神社の例祭である八戸三社大祭では、紅白に分かれて8人の騎馬武者が毬杖で毬をすくい上げて得点を競い合う「加賀美流騎馬打毬」が奉納され、古式を伝える行事として貴重なことから昭和47年に青森県指定無形民俗文化財に指定されています。
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拝殿蟇股・木鼻・手鋏・その他彫刻。
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向拝神額「新羅神社」「長者山」等。
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拝殿脇障子。
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拝殿内。
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拝殿内神額は「新羅神社」「八坂神社」「金刀毘羅」。
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八戸打毬会。
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五梅庵畔李公「国光の発句」献額。社宝である五梅庵畔李(7代藩主南部信房)公「国光の発句」献額は文政10年に奉納された俳諧献額であり、八戸市指定有形文化財に指定されています。
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右大臣左大臣。
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本殿。
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本殿は三間社入母屋造、金属板葺き、平入、桁行3間、梁間2間、3間向拝付き、向背柱廻りや正面扉などに華麗な彩色模様が施されています。正面から両側面に縁が回り、脇障子が立ち、高欄が付き、向拝部分から木階で登る形。
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青森県神社庁HPより…『御祭神:新羅三郎義光。慶長年間後陽成天皇治世12年(1607)甲斐の国より小宮山内善故有りて、此地に趨向小祠を草創神霊を奉祀せるに起因する。延宝10辛酉年府君奥瀬治大夫善定再興。明和8年奥瀬定職公の命を拝し遷座導師現大僧都尚純稲荷大明神を合祀。文化5戊辰年奥瀬内藏崇儀公武運長久諸願成就の為本社及御内社を建立、毎歳五石を賜る。嘉永年中山火に遇し災焼。嘉永6癸丑年再築成る。昭和25年3月31日国有境内地の譲与許可される。』
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『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)には「長者山神社は高おがみ神を祀るが、承和3年(836)の大ひでりに雨をふらせたので草創され、長者山権現と称したというが疑わしい。水神であることはまちがいない」とあります。
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『青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)』に次のようにあります…「八戸市の繁華街からすぐ南に、杉木立ちにかこまれた長者山があり、南部家の祖新羅三郎義光を祭る新羅神社や、近くに八戸南部家墓所のある南宗寺に出る。伝説では、八太郎沼の主に石臼をもらった人が、長苗代(地名)を開いて長者になり、今の長者山に住んだ。長苗代からとれたモミを、沼の主からもらった石臼でひき、そのモミヌカを積んだところが、長者山の背後の地名糠塚になったという。」。確かに糠塚という地名が近くに残っていますね。
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上の写真は社殿付近にある神楽殿のような建物。その他、社殿の周囲にある境内社などを紹介します。細かい説明は省略致します。
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参剣白龍神。
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高龗(おかみ)神社。こちらは鳥居と狛犬付です。
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狛犬一対。
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社殿。
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横にある小祠や庚申塔。棟札等は見ていません。
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その他にもたくさんの石祠や庚申塔などがあります。狐もたくさん。
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こちらの石は不思議な形ですね。
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蛇もいました。
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十和田山神社(明治16年11月15日)。
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天照皇大神、十和田山など。
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包丁塚
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八戸調理師研究会。
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以下、長者山新羅神社HPより一部抜粋。
『青森県八戸市の長者山山上に鎮座する神社。重要無形民俗文化財の八戸三社大祭や八戸のえんぶりで著名です。社格は旧県社。八戸市内では櫛引八幡宮と並び篤く崇敬を集める神社です。江戸時代、延宝6年(西暦1678年)八戸南部2代目藩主直政公が、藩主の守護と領内の五穀豊穣・万民安穏・無病息災の祈願所として長者山の山上に神社を創建、社号を三社堂または虚空蔵堂と称し、歴代藩主の崇敬最も篤い藩直轄の総鎮守である。元禄7年(1694)三社堂を改築、更に文政10年(1827)8代藩主信真公が再改築して現社殿と同時に「桜の馬場」を開設、打毬の奉納も創設され、例祭日には「加賀美流附伝騎馬打毬」を今日まで奉納されている。明治14年(1880)には、天皇御巡幸の砌、天覧の栄に浴している。また、明治14年より「えんぶり」行列である当社相殿神稲荷大神の神輿渡御式が執行されてきた。 現行の2月17日になったのは、明治42年(1908)旧暦廃止に当たり、伊勢神宮の祈念祭の奉弊日に合わせた。明治2年(1868)神社制度確立により、社号を新羅神社と改め、更に昭和51年に長者山新羅神社と改称した。』
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「加賀美流附伝・八戸騎馬打毬の由来」…『八戸騎馬打毬は、八戸南部藩の遠祖新羅三郎源義光公4代孫の加賀美次郎遠光公から始まり、八戸南部藩に伝承された。この騎馬打毬は、「加賀美流附伝八戸騎馬打毬」として、180年ほど前に8代藩主信直公の、八戸南部藩に伝わる御家流馬術の「加賀美流馬術」の中の騎射八道(流鏑馬、笠懸、犬追者、草鹿、八的、手拭など)の一種目として武芸奨励の目的で藩士に奨めた。文政10年(1827)7月21日信直公は長者山新羅神社を大改築され、「桜の馬場」も開設された。その落成を祝って騎馬打毬が奉納された。八戸騎馬打毬は、騎馬武者八人が紅白に分かれ、馬を巧みに操りながら毬杖で毬をすくい上げ、紅白の的に入れ競い合うもので、現在は「八戸・山形県豊烈神社・宮内庁」に保存されている。一番古典的な打毬は、八戸(長者山新羅神社)と聞いている。八戸騎馬打毬は、昭和46年八戸市の無形文化財の指定、八戸文化賞受賞。昭和47年青森県無形文化財、青森県技芸の指定を受けている。』
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「三社大祭」…『毎年8月1日から8月3日までの間、おがみ神社を起源とする大祭式例祭「八戸三社大祭」が開催されます。三社とは、おがみ神社、長者山新羅神社、神明宮の3社を指しており、それぞれの神社行列に御供する形で附祭(山車)が巡行します。また、7月31日は前夜祭、8月4日には後夜祭が開催され、ライトアップされた幻想的な山車の合同運行も見物です。享保6年(1721)の始まりから比較的は長く続いている御神事で、2004年、国の重要無形民俗文化財の指定を受けました。八戸三社大祭の始まりは、享保6年(1721)法霊大明神(おがみ神社)が神輿行列を仕立て長者山三社堂(新羅神社)に渡御し「五穀豊穣」を祈願したことに始まった。そして、明治17年(1884)から、おがみ神社と新羅神社の祭礼に変わり、その5年後に神明宮(廿六日町)が参加して「八戸三社大祭」と三社合同の祭礼と発展した。』
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「豊年祈願祭・えんぶりの由来」…『平安時代、建久2年(1191)南部藩始祖南部光行公が源頼朝公より糠部五郡を賜り、家臣73人を6隻の船にて鎌倉由比ヶ浜を出発、海路北上12月28日、八戸浦に上陸、民情視察のため藩内の豪族を訪問した。正月15日或る家の宴会で光行公の家臣たちが酒に乗じて抜刀、乱舞の大騒ぎとなったこの時、藤九郎という主人おもいの気転者が家人を集め、鳴り物入りで光行公の御前に進み、抜刀酒乱の侍たちの気勢を殺ぎ、「只今より百姓の芸をご覧にいれます」と家人に田植え唄など歌わせ、その中の2、3人の道化者に農具「エンブリ」を持たせ酒乱侍の中に出させ、藤九郎自身も鳴子板を持って拍子をとり、身振りおかしく踊り廻ったので殺気をはらんだ宴会が喜々とした楽しいものとなった。藤九郎は、この時とばかり南部家の千秋万歳を唱えたので、光行公は上下和楽の大吉例とし、毎年この日に、藤九郎を召し踊らせたのが「えんぶり」の起因といわれている。また、馬産地南部の農民と共に育った「えんぶり」も、組同士の喧嘩が絶えず喧騒しい理由で、明治2年県令により禁止されたが、新羅神社の宮司、八戸藩の大沢多門氏らが、明治14年新羅神社の稲荷大神の豊年祭に神輿渡御式を斎行し、其の附社では此の神輿渡御式が、喧騒にならないように、数組の「取締えんぶり」また、「御前えんぶり」「御供えんぶり」など、「長者山稲荷大神神輿渡御式」に、えんぶり組が附祭りとして神輿に御供している。神社は古来古儀を尊び、常にえんぶり組と一体となって伝統を尊重し、民族農民芸能として、「えんぶり」が国からの指定も受けている。各えんぶり組は、午前零時に仮受付をし、7時に祭事委員から番号木札を受付順に拝受し、幟旗の先端に附け、神社に奉納えんぶりをする。そして、2月17日長者山新羅神社より神輿渡御式と共にえんぶり組も行列し、三八城神社に参拝、奉納する。昭和27年青森県無形文化財の指定、同54年2月3日、国指定重要無形民俗文化財に指定され現在に至っている。』
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