八戸市長者1丁目。地内には藩政時代からの神社仏閣が多くあり、長者山(板橋長治の子孫が住んだ長治山)を中心に長者山新羅神社、大慈寺、光龍寺、南宗寺、弾源寺、八坂神社などが鎮座しています。長者山新羅神社は、青森県八戸市の長者山山上に鎮座する神社であり、重要無形民俗文化財の八戸三社大祭やえんぶりで有名です。八戸市内では櫛引八幡宮と並び篤く崇敬を集める神社。
男坂。まさに石段。モーグルに最適です。長者山坂の石段が天保4年に完成との記録がありますが、長者山坂石段とはこの男坂のことでしょうね。ちなみにこの石は弁慶が運んだ力石と呼ばれているそうです。
すぐ横に女坂。こちらは普通の石段。
「伝説」源義経北方コース「長者山」…『悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は兄の頼朝に追われ文治5年(1189年)4月平泉の高館において31歳の若さで自害したといわれている。短く華麗だったその生涯を想い、後世の人々は「義経はその前年にひそかに平泉を脱出し、北をめざして旅に出た」という伝説を作りあげたのである。世に言う「判官びいき」であろう。当地方に伝えられている伝説によれば、平泉にいた義経に命令された板橋長治と喜三太が義経の居所をこしらえようと柴を回し、木を植えみだりに人が入らないようにした地と伝えられており、昔は長治山と呼ばれていたといわれている。それを今では長者山と呼んでいる。社団法人八戸観光コンベンション協会』
長者村は糠塚・類家・田向・中居林・石手洗の5ヶ所村が合併して成立。かつての糠塚村。近世初期は根城南部氏の知行地で、元和4年の南部利直知行宛行目録(南部家文書)に「糠塚」「板はし」とあります。北は八戸城下に隣接し西端を登り街道が南北に走ります。地内の北に小丘の長者山があり、その麓には寺院が集中ていますが、これは八戸城下南方の防衛拠点としての役割を担っていたものとみられます。天保7年には大慈寺の住職が恤救方取扱を命じられ、裏門向かいに置かれた救助小屋に飢民を収容。長者山は寛文5年9月の八戸藩日記に「長者林」とあり、延宝7年御家中のキジ狩りが禁止されました。同書元文4年7月には「長者山境聢と相知不申、糠塚村御百姓共境御立被成下度段御代官迄願出候付、古来之儀常泉院并糠塚村古人御尋之上常泉院より茂古来之儀以書付申上候」とも見え境界が定められた。文政9年には長者山からの船材運搬で、糠塚・板橋の28軒だけでは負担できかねるとし、当村給所及び石手洗村からの加勢を願い出ています。天保4年長者山坂の石段工事が完成。長者山頂上には三社堂(現長者山新羅神社)があり、別当の常泉院は寛文7年領内修験の惣録となっており、領内10か寺の1つともなっていました。なお、現在八戸三社大祭の中日に長者山新羅神社の旧馬場で行われる加賀美流騎馬打毬は県指定の無形民俗文化財。享保6年に法霊社(現おがみ神社)の神輿渡御が始まり、同12年以降は祭礼時に歌舞伎芝居の興行もかかるようになりました。明和4年からは商宮律(しやぎり)の練習所として天王堂の拝殿が充てられたといい、文政10年には境内に馬場が新設されて流鏑馬と騎馬打毬も実施されるようになりました。寺は八戸藩主の菩提所で領内10か寺の筆頭とされる臨済宗月渓山南宗寺、元禄5年の建立という曹洞宗石田山光竜寺、元和4年の南部利直和行宛行目録(南部家文書)に禅源院とあり、当初根城にあったとされる領内10か寺の1つで内5か寺の臨済宗臥竜山禅源寺、延宝元年の建立と伝え糠部三十三観音の第9番札所とされる曹洞宗福聚山大慈寺があります。また、江戸期には延宝元年八戸藩初代藩主南部直房の母仙寿尼を荼毘に付した地に小庵を開いたのが始まりという仙寿寺もありましたが、明治初年南宗寺に合併するとともに廃寺となります。南糠塚には糠塚不動堂があり、明和8年の造立と伝えます。なお、八戸城下の南西部に当たる荒町・新荒町・稲荷町・町組町・上組町・上徒士町・常番町はいずれも当村が割かれて成立したものとみられます。明治初年の国誌によりますと、家数は本村106、支村の板橋18・平中8・鍛冶丁6・下屋敷5。地内の状況を「水田少く土地は下之下。畑に蕎麦を植、瓜柿また宜しと云」と記し、また平中は「八戸町常番町の裡に散居す」、鍛冶丁は「長者山の麓にして八戸町の鍛冶丁に継き、片側に住し、傭役して世を渉る者多し」、下屋敷は「八戸町の荒町の北裡にありて稲荷丁の西に続き、売市村の東、新荒町の西土手下より稲荷丁の南北の方、堤の鰭飛地にあり」と記されます。
鳥居と栖原屋久次郎の寄進の狛犬一対(文政11年6月吉日)。台座には「海上安全」。
江戸霊岸島・石工本宮勘兵衛、願主当所廿八日町石橋徳右衛門、江戸小綱町三丁目湯浅屋興右衛門、同鉄砲洲栖原久治郎、同大傳馬町田端屋治郎左エ門、同室町美濃屋宗三郎。
小蓑塚(向って右)…『初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 芭蕉』(発起人神山瓢・白梅舎家文)。※寛政3年に南部信房は星霜庵白頭(熊谷有益)から二世星霜庵を継承しましたが、同4年に江戸で文台作りを生業とする檜物師の秋杵に星霜庵三世を継がせています。同5年10月、信房の弟百丈軒互連は宗匠互来を招待して、芭蕉の百回忌を催しました。この時、八戸藩士の神山瓢馬と町人の白梅舎家文(上野伊右衛門)は信房の命を受けて、長者山に芭蕉の「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」の句碑を建立。信房は、松永貞徳を祖とする貞門俳諧の人々とも交わり、文化6年には、芦丸屋花下七世貞居から「花下伝書」を伝授され、「花咲亭畔李」を称した時期がありました。しかし文化12年以降、信房は「五梅庵畔李」と名乗り、貞門俳諧に別れを告げ、蕉風俳諧への道を進むことになりました。畔李の「五梅庵」の号は、五柳先生と称した陶淵明と、梅を愛した菅原道真に因むといいます。信房は寛政8年に隠居し、文化8年には剃髪して「伊勢入道」と称しました。
国光の碑(向って左)…『国の光皆此の山の春風ぞ 五梅庵畔李』(旧八戸藩主大沢多門建立)。※文政10年(1827)、長者山三社堂(現長者山新羅神社)社殿及び桜の馬場が完成したのを記念して南部信房は「国の光り皆此山の春風ぞ」(国光の発句)の献額(八戸市指定文化財)を神前に奉納しています。
招魂碑(三條實美書)。
雪蕉先生之碑(向って右)…明治41年。橋本雪蕉(日本画家)。発起人菊池黙堂。南部芸能協会創立拾周年記念之碑(向って左)…昭和33年4月18日。音喜多富寿書。
頌徳碑。昭和2年。大沢多門(根井沢定右衛門)。
八戸地方相撲紀年碑。昭和31年9月吉日。武守勘太夫書。
天覧打毬碑。明治14年11月。同年の明治天皇東北御巡幸の際、長者山で騎馬打毬を御覧になられた時の記念碑。
逸見兵庫源直矩碑(明治17年3月)。
南宗寺への下り坂前に設置。わかりにくい場所です。
順不同でいくつか紹介しましたがこの他にも色々石碑がありました。苫米地収蔵隊下美濃屋宗三郎碑(明治元年9月23日の野辺地戦争にて23歳で戦死)、野村軍記表彰慰霊碑(明治16年。文政13年に軍記が八戸藩8代藩主南部信真より賜った感章を刻む碑)、庚申塔などなど。
全体的に状態はいいです。興味のある方は現地にてご覧になってください。
マンサク(八戸市保存樹木・平成27年3月30日指定)。
アカマツ。
他にも境内には立派な御神木がありますが…
神社前庭中央にあるエドヒガンザクラが一際存在感を放っています。
八戸市保存樹木(平成21年2月19日指定)。
おとぎの桜とあります。
大正13年の八戸大火を機に始められ、今では夏の風物詩となっている「森のおとぎ会」が行われる場所に立っているので「おとぎの桜」と名付けられているそうです。
長くなりましたので『長者山新羅神社~其之弐』へ続く。
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