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春日山林泉寺(米沢市)』からの続き。
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神刺原築城奉行、鐵孫左衛門泰忠の墓。黒金家の大先祖にして謙信公譜代の臣。本姓島倉、通称孫左工門。後に鉄上野景信の遺跡を継ぎ、鉄と称しました。慶長3年禄6200石を領し、同4年3月神刺原築城の折、泰忠総奉行を命ぜられました。同9年10月大阪役に出陣し、11月26日田島野表の合戦において、大和川堤の敵を撃破して功がありました。役後、将軍秀志より感状及時服を拝領。寛永12年1月21日72才で逝去。
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甘糟備後守景継の墓。清和源氏甘糟野次広忠より15代の末孫。越後上田長尾譜代の臣、登坂加賀守清高の嫡男で、初め藤右衛門清長といいましたが、上杉謙信公の命によって甘糟氏を相続。幼少より剛勇無双にして鎗と長刀の名手。はじめ越後五泉の城主、文禄2年には庄内酒田の城主となり、1万1千石を領し、慶長3年には奥州刈田郡白石の城主に転じました(2万石)。同5年の関ヶ原の時、伊達政宗が景継の不在に乗じ白石城を襲い取ったので、景継憤懣やる方なく安田能元、島津下々斉等と共に硬論を持ち、徳川との和戦を好みませんでした。気骨稜々たる侍大将でしたが、慶長16年5月12日62才にて逝去。法名大応寺殿本休徹無大居士。
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甘糟備後守景継の墓…『甘糟景継は、上杉謙信・景勝に仕えた剛勇名高き武将。越後上田長尾の家臣登坂清高の嫡男であるが、謙信の命により甘糟家を相続した。景勝の重臣として、越後の護摩堂城・五泉城、庄内酒田城の城主となり、慶長3年(1598)には白石城(宮城県)の城主に任じられる。気骨稜々たる武将であったが、慶長16年(1611)逝去、享年62。米沢市』
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新津城主、新津左近の墓。新津城は天正元年に14代新津勝資が築城(※金津信資が建武3年築城とも)。勝資は武勇に優れた上杉謙信の重臣の一人。慶長3年に上杉景勝は会津への移封を命じられ、新津秀祐は奥州二本松城代安田能元の同心衆として配備され二千石を知行されます。景勝の米沢移封に従い、改めて七百石を賜ります。子孫は米沢上杉氏の家臣として代々続きました。  
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富所五代伯耆守の墓。
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富所五代伯耆守の墓…『清和天皇の後胤高松左エ門尉是重の弟勝重は、長尾家に仕え軍功あり富所の地を賜ふ。勝重から五代定重迄伯耆守となる。俗に五代伯耆と云う。』
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侍大将、長尾権四郎家之墓。長尾景広は天正元年(1573)長尾憲景の子として誕生。
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天正10年、兄の長尾輝景の命によって後北条氏の人質として小田原城に入ります。最初は北条氏政の偏諱を受けて政景と名乗りました。3年後に帰国するも重臣である牧氏の居城田留城を所望。輝景と牧氏はこれを拒みますが、政景は親北条派の重臣達の支持を受けて独断で牧氏一族を滅ぼして田留城を奪取、天正17年(1589)には兄を隠居させて家督を奪ったとされます。天正18年、豊臣秀吉の小田原征伐の後に白井長尾家は没落。一時期は加賀国前田氏に預けられるも、その後すぐに兄と共に同族である上田長尾家出身の上杉景勝に仕えました。大坂冬の陣にも参戦し前備を勤めました。元和元年(1615)には侍頭となり1000石加増。出羽国山形藩の最上氏改易の際には山形城の接取と警護を担当。寛永3年(1626)に辞職し、同7年逝去。
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武田大膳大夫信清の墓。初名三郎、武田信玄の六男。
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信玄はその臨終に際して、嗣子勝頼に対し、「…兵を構えて己が国を亡ぼすこと勿れ、我れの死後天下に頼るべき者は独り謙信あるばかり宜しく援を請い求め国をば彼に托せよ」と残しました。天正10年3月武田勝頼父子は天目山の戦に破れて自害、勝頼兄弟のうち、武田太郎義信(長男)、同次郎隆宝(二男)、仁科五郎信盛(四男)、暮山十郎言責(五男)も戦死あるいは自害します。これにより信清一人が残り武田の正流となりました。甲州没国の節、紀州高野山無量光院に隠まわれ、同年越後の景勝公に嫁いでいた姉菊姫を頼って来ました。上杉氏では高家衆の筆頭として優遇(諸役御免)し、3300石を陽わります。寛永19年3月21日83才にて逝去。法名虎山玄龍居士。信清以来、子孫連綿として米沢に居住しました。
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武田大膳大夫信清の墓(山形県指定文化財:昭和28年2月20日指定)…『武田信清の墓は、高さ2.3m、地輪の一辺77cmの大きな五輪塔で、各輪に一字ずつ「祖師西来意」の文字が刻まれている。武田信清(1563-1642)は武田信玄の六男で、上杉景勝に嫁いだ菊姫の弟である。天正10年(1582)、甲斐国天目山の戦いで武田家は滅亡するが、信清は逃れて景勝のもとへと身を寄せた。以後、上杉家の家臣となり、代々高家衆筆頭として明治維新を迎えた。川中島合戦で激戦を交えた武田家の子孫が、上杉家の重臣として存続したのである。姉の菊姫の墓も隣接する上杉家墓所に建てられている。』
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杉原常陸介親憲公之墓域。
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墓誌…『水原城主水原常陸介親憲公は、上杉麾下十三人衆中の勇将であった。慶長3年景勝公に随って会津次いで米沢に移る。大坂冬の陣で武功あり、将軍家より感状をうけこれに因って杉原と書き「すいばら」と読む。元和2年5月、景勝公駿府城に家康公を病気見舞の帰途、板谷峠で奉迎中親憲公急逝される。行年71歳。景勝公これを悼み謙信公の命日5月13日を忌辰と定め、上杉家墓所に近い此処に葬祭された。以来372年の星霜を経、故里の有志墓域を修復する。昭和62年新潟県水原町』
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北越戦争忠士墓(戊辰戦争合同碑)。北越戦争に殉じた米沢藩総督であった色部長門をはじめ、280余名の遺髪を埋めた合同墓碑。
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ふれあし観音。観音さまの足に触れてその功徳をいただきます。車社会や便利な生活で弱りがちな足腰を丈夫にし、そして体も心も健康にという願いを込めての「ふれあし観音」。
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17.5
ふれあし観音勧請の由来…『お檀家の皆さまはじめ、諸方から林泉寺にお参りいただいた方々に、「あなたにとって、一番身近な仏さまはどなたですか」とお尋ねしますと、多くの方々が、「観音さまですね」とお答えになります。 それほど多くの方々が親しく思っておいでの観音さまを、ぜひ当山にもお迎えしたいものと、かねてから念じておりましたが、このたび、すばらしい勝縁にめぐまれ、ついに石仏「聖観世音菩薩」を勧請できましたことは、法幸この上ないことであります。申すまでもなく、観音さまは広大無辺のお慈悲をもって、だれかれの分けへだてをせず、人々に救いの手をさしのべ、その苦しみ悩み、あるいは恐怖や災厄を取り除いてくださる菩薩さま、救世と済民の仏さまです。間もなく激動・激変の二十世紀が終ろうとしています。今世紀は、人間のわがままと自我主張の暴走が、幾多の争乱や戦争をひき起こしたり、驚異的な科学・物質文明の進展が、かえって、すべてのいのちを傷つけ、地球環境を次々汚染・破壊してきました。物の繁栄のみを追い求めた結果の所産と言えないでしょうか。 ここに、観音さまをお迎えするに当って、来るべき新世紀には、誰でもが本具の仏心と少欲知足の暮らしにめざめ、普く一切が身心共に健全であれかしと念ずるものであります。伏して冀くは先亡の水子・孩嬰の幼霊、薄幸・遊魂の諸霊、水辺・懸崖の各霊、各種戦没・殉難の精霊、有縁・無縁三界万霊等ひとしく観世音菩薩の慈愍力を蒙り、永遠無窮の覚路に登らんことを。平成10年11月3日建立。春日山林泉寺55世大綱伸之謹誌。(永代供養諸精霊省略)』
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小さな鐘を鳴らして拝みました。
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上杉家廟所。
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20.5
歴代藩公の尊崇が厚く、上杉家の墓所には、奥方・子女26基、支侯16基のお墓があります。また、米沢城下町創設の恩人、直江山城守兼続の御廟所として、その霊牌を奉安しています。
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21.5
鍋島夫人市姫。徳川家康の養女(肥前佐賀35万石松平信濃守勝茂の長女)。元和9年7月19日3代定勝公と縁組。寛永元年1月21日入輿。寛永12年6月3日42歳で江府にて逝去。同25日当寺に葬送。法名伝高院殿洞胤栄仙大姉。
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会津夫人媛姫。保科正之長女。承応3年4代綱勝公と縁組。万治元年19歳にて逝去。媛姫毒殺事件として有名ですが諸説あるので触れません。事件後に上杉家菩提所であるここ林泉寺に葬られました。法名清光院殿月汀正心大姉。
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仙洞院。長尾為景の娘、長尾政景の正室、上杉景勝の母。林泉寺の建立に尽力したことから林泉寺中興開基と称されています。慶長14年2月15日米沢城二の丸において82歳にて逝去。法名仙洞院殿知三道早首座。
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お豊の方。
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鷹山側室お豊の方の墓…『お豊の方は、寛保元年(1741)1月17日、4代藩主綱憲の六男勝延を父として米沢で生まれました。明和7年(1770)6月14日、30歳で、10歳若い鷹山の側室となり直丸(顕孝)・寛之助の二子をもうけますが、いずれも19歳、2歳と早世しています。鷹山には、江戸に正室(8代藩主重定の子幸姫)がいましたが、お豊の方は鷹山のこよなき理解者であり、その改革を支える内助の功(養蚕の奨励など)が今日なお語り継がれています。また、お豊の方は詩歌に通じ、麗之の名で歌を残しています。「年ごとに栄えますらん国民もにぎはふ今日の君のめぐみに」。鷹山とともに領民に敬愛されたお豊の方は、文政4年(1821)12月17日、81歳で逝去しました。法名、浄鏡院殿真影不空大姉。鷹山は次のような悼歌を手向けています。「老いぬればおくれ先だつ世の中に心なおきそ死出の山みち」米沢市』
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甲州夫人菊姫。慶長9年2月16日伏見邸にて47歳で逝去。始め京都妙心寺中亀仙庵に葬られ、後に林泉寺に改葬。法名大儀院殿梅岩周香大姉。
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甲州夫人菊姫の墓…『菊姫は米沢藩初代藩主上杉景勝の正室で、父は武田信玄である。信玄の死後、嫡子勝頼は上杉景勝と和を結び、天正7年(1579)に妹菊姫を越後春日山城の景勝に嫁がせた。菊姫は甲州夫人と呼ばれ敬愛されたが、慶長9年(1604)京都で逝去。享年47。川中島で激戦を交えた信玄と謙信の子が結婚する数奇な運命は、歌舞伎の本朝二十四孝の中の「八重垣姫」のモデルと称される。米沢市』
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上杉駿河守勝周。元禄9年9月10日生。童名は千之助。五代綱憲公の子で支侯の先祖。元禄9年、米沢藩4代藩主上杉綱憲の四男として誕生。享保4年、兄吉憲から1万石を分与されて米沢新田藩を立藩。米沢新田藩の上藩邸が麻布にあったので麻布様と称しています。延享4年7月2日52歳にて逝去。法名瑞光院殿天容祥雲大居士。
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他に上杉式部勝延(元禄11年2月24日米沢城生。童名源之助。5代綱憲公の子(五男勝周の弟)で、9代重定公の叔父、10代鷹山公の側室お豊の方の実父。安永元年6月1日75歳にて逝去。法名法性院殿海岸恵月大居士)の墓などがありますが、案内板が設置されていない墓もたくさんあり、どれがどれなのかわからず。
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30.1
30.2
30.3
こちらは万年塔(万年堂)と違って中の様子がはっきり見えますね。
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31.2
31.4
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小さな墓もたくさん。
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32.5
上杉家廟所として囲まれた区画内にある上杉家墓所。
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33.5
上杉家廟所として囲まれた区画外にも。
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畠山氏累代之墓。
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35.5
松木魯堂(1785-1838)の墓・松木彦右衛門累代之墓。
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通称彦右衛門、初め徳之助といい、魯堂と号しました。その人となりは温順雅量、幼くして興譲館に学び敏達精研群を技きました。文化14年、友子堂助続となり、後神保蘭室の門に入って江戸在府中請儒学者と交って漢学を好みました。また、藩学に対し私学の勃興をはかり、赤湯島帽千山に臨雲堂を開き子弟を養育しました。天保9年10月24日54才にて逝去。法名松峯院殿雲外文秀居士。
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謙信公股肱の臣、秋山源蔵の墓。
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直江公に招かれた鉄砲鍛造師、吉川惣兵エの墓。直江兼続は慶長9年9月、近江国住友村より招き、高湯にて鉄砲火薬軍器を作らせました。非常に良い鉄砲を作るので鉄砲塁町に屋敷を与え、録100石を給しました。
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明治4年洋学舎の英学教師、滝川喜六の墓。明治4年1月、興譲館内に洋学舎を創設した折、米沢藩の招きにより木頓道之助・宮内赫介と共に来藩した静岡藩士の英学教師。1年間の手当が金10円と高給でしたが、不幸にも来藩間もない明治4年4月4目に逝去。法名積善院賢徳秀才居士。ちなみに同年10月英人ダラスが招きに応じ来県(同年7月廃藩置県)し、米沢における洋学の隆盛を見るに至りました。
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画と造園の名手、小田切寒松軒(1690-1774)の墓。元禄3年5月13日生。名は継親、通称弥惣。淵竜と号し享保19年に隠居し、後に寒松軒と号しました。初めは五代綱憲公の近習となりましたが、故あって改易を命じられ塾居14年に及びました。9才の時、目賀多守息(南目賀多派の祖-雲川と号す)に画を学び、長じて九代重定公の寵が深かったと云われています。その画くところは細密磁潤、鳥獣花木に妙を極め、また槍術に達し、好んで山水樹芸草木等を築作。造園の名手としての名が高く、餐霞館(十代鷹山公の隠居所)の築庭、その他を作ったといわれています。 安永3年1月14目85才にて逝去。門人に香坂松洲左近司惟春等がいます。
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明治維新当時の興譲館漢学者、坂蘭渓の墓。米沢中学校時代(現在の米沢興譲館高等学校)の教師。名は敬次、殊に長篇を能くし月山の詩の如き傑作があります。その著に蘭渓詩集があります。法名幽哉院俊翁蘭渓居士。
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歴代住持の無縫塔。越後十三代合祀。
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43.5
「開山勅特賜宗猷大光禅師、外」
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「六世勅賜心月圓明禅師微笑珍慶大和尚・七世天室光育大和尚、謙信公幼少の師・八世益翁宗謙大和尚、謙信公青壮期の師・十世勅賜佛智大通禅師月松宗鶴大和尚」
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枝垂れ桜。樹齢約200年。
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米沢藩中興の祖と仰がれる10代鷹山公御手植えの桜と伝えます。
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春日大明神。
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上杉家の氏神にして当山鎮守の社。上杉鷹山公(治憲)が御節倹の折(17歳)、立志の誓詞を捧げられた由緒深いものです。また、当時寄進された雨乞の大般若経等は現存。
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社号標「郷社春日神社・山形縣米澤市南堀端町」
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「まんさくに 風めざめけり 雑木山」行方虎次郎。
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