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日吉八幡神社(秋田市)』からの続きです。前回の記事で漸く正面参道社殿手前(青銅鳥居手前)及び付近の句碑等まで紹介しましたが…今回は仏式を感じられる北側(旧国道)参道から紹介していきたいと思います。再び一からのスタートですいません。八橋の通り、不動院側の入口になります。
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狛犬一対。
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紀年銘ですが天保14年癸卯春。
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更に台座には「明治14年再建旧参講」と彫られています。
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こちらの参道は鳥居ではなく、移築された寿量院の山門です。
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寿量院は天和2年に3代藩主佐竹義処公が天徳寺内に徳川将軍家代々の御霊を祀る御霊屋を造営したことにはじまり、元禄年間の八橋帰命寺を経て、延享3年造営の寿量院に御霊屋を移しました。寿量院は秋田の東照宮といわれており、日光東照宮の分社として徳川将軍家代々の御霊を祀ってきました。
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明和7年の久保田明和寅年の大火の際、火災を免れた寿量院の矢大臣門でしたが、明治初年に廃寺となり、明治3年に豪商沼田八右衛門が隋神門として移築寄進。秋田県指定有形文化財です。なお、寿量院跡についてですが、秋田地方気象台の地に碑が残っています。
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随身像。
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裏側には御神馬。
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石川翁碑…『元帥海軍大将従二位大勲位一級伯爵東郷平八郎題額 大正四年八月石川理紀之助翁衰村救済歴任中羽後國平鹿郡の救済事務所に於て労働病を発して十四日尚庵に帰臥し九月九日逝去す従七位に特叙せらる病牀に在る事僅に二十六日のみ十日南秋田郡山田村郊外の丘陵に葬る翁は同郡の舊族奈良氏に出て二十一歳石川氏を襲く夙に頴悟祖訓を受け十一年既に和歌を善くす耒耨の旁刻苦力学歌道の正始に溯る又古の田法に精し明治元年王事に軍務に従ひ後専ら勧業に褒順す地價制定に効あり五年縣の勧業部に出仕し腐米改良法の発案実施農事試験場の創設等其功具陳し難し十一年種苗交換会を開く十三年暦観農話連を組織す二十二年其恢復成る更に山居十載経済生活を始む二十五年全県適産調に着手し努力積精調書五千卷に達す二十七年大日本農事大会に出席し総裁宮の令旨を捧して九州を暦説す帰りて農会組織を企て二十八年縣郡町村農会なる三十一年荒民を救済す三十二年農会法施行せらるゝや縣農会長を辞す三十五年正名か一歩園模範疎水事業を援助し薩摩日農村振興の為めに同志数人を率ゐて之に就く四十一年再び縣農政に鞅掌し東北振興の権威たり著述八百七十余冊和歌二十五年餘首男爵高崎正風氏と共に國風に力を注ぐと云う享年七十一歳二子民之助老之助皆先立ちて下世し孫孫太郎嗣ぐ 大正七年九月八日建立 前田正名撰並書 亀朋刻』
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石川理紀之助翁之碑標柱(大正7年)。
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『石川理紀之助翁は秋田県種苗交換会の先覚者三大人の一人であり、秋田の二宮翁と称せられ、その生涯を農村の更生、農家の救済、農業の振興のために捧げ尽くした高名は全国に知られている。西暦1845年(弘化2年)秋田市金足小泉の農家に生まれ、廃藩の後秋田県勧業課の官吏に出任、33歳の時種苗交換会を創設し、今日の全県的一大行事の礎を築いた。西暦1915年(大正4年)71年の生涯を終えた。』
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日吉八幡神社三重塔。
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宝永4年(1707)に建立された県内唯一の朱塗り木造三重塔。秋田県指定有形文化財。
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豪商青木平兵衛が父の菩提供養のために建立。
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随身門から来ると社殿がこのように見えてきます。
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さて、前回の記事の位置(青銅鳥居手前)まで戻ってきました。
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正面参道から見た三重塔と随身門。
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青銅鳥居(秋田県指定有形文化財)。那波家の奉納。
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再び石橋(神橋)。
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丸に右三つ巴と猿が見られます。
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更に各親柱の上に顔のない猿が4匹。本殿懸魚の下にいる猿みたいな顔だったのかな。
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寛政元年己酉八月寄進。
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社殿と石灯籠一対。
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手水石。
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社伝によりますと、平安時代に日枝山王と石清水八幡宮を勧請し日吉山延命寺と称したとされていますが、鎌倉時代とする説もあり詳細は不明。当初は秋田郡笹岡村(現秋田市外旭川)に鎮座しましたが、鎌倉時代に五十丁村(現秋田市上新城五十丁)へ遷り、天正17年(1589)に安東実季により飯島村へ、元和元年(1615)には佐竹義宣により寺内村字油田へ遷ったと伝えられています。寛文2年(1662年)に現在地へ移りましたが大火によって焼失し、安永7年(1778)に再建。安東氏からは社領200石が寄進されており、佐竹氏の信仰も厚く社領40石を寄進して保護。元和の久保田の町割りに際し外町の鎮守とされたことで、八橋の山王さんとして主に町人たちからの信仰を集めました。明治時代には県社に列せられ、現在も近隣住民に親しまれています。
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パンフレットより…『南北朝時代の創建といわれ、江戸時代初期に現在地へ移りました。久保田城下の商人町である外町の総鎮守で、古くから「八橋(やばせ)の山王さん」と呼ばれて親しまれています。本殿・拝殿のほか、三重塔や随神門など、多くの文化財があります。本殿に奉納されている扁額も見どころです。境内にはかつて外町の商人たちが寄進した建造物があちらこちらに見られます。日吉八幡神社の祭礼は、春と秋の年2回。昔は八橋までの道が今のように整備されておらず、外町の氏子たちは簡単にお参りできませんでした。そこで、秋の祭礼では神輿や練り山などが外町を練り歩き、氏子たちは自宅の前で商売繁盛などを祈願しました。また、昭和初期には、秋祭りの際、通りに建てた櫓で多彩な出し物が行われ、通りは豪華な飾り人形や山車で賑いました。全県から人が集り、臨時列車が出るほどだったそうです。外町の誕生から400年近く経つ今も粋な町人たちが神事や祭典を受け継いでいます。』
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広報あきたより…『外町の守り神として、八橋の山王さんともいわれ、町人たちから親しまれてきた日吉八幡神社。日吉八幡神社は、平安時代に秋田市郊外の笹岡(今の外旭川)にまつられたのが始まりと伝えられ、鎌倉時代には上新城に移されました。さらに天正17年(1589)、檜山の安東実季が土崎の安東道季との湊合戦で勝利をおさめ、日吉八幡神社を守護神として飯島に遷座。その後、初代秋田藩主となった佐竹義宣も日吉八幡神社を敬い、元和元年(1615)、「政治の安定と外町町人の発展」を象徴する神様として、八橋の狐森(今の寺内油田)に移しました。この建物は明和7年(1770)の大火で類焼し、その後、現在地(八橋本町)に再建されました。現在の拝殿は安永7年(1778)、本殿は寛政9年(1797)に建てられたものです。秋田県指定有形文化財(建造物)16件のなかでも日吉八幡神社は、本殿・拝殿・舞殿・随神門の四棟のほか三重塔・青銅鳥居などを有し、「歴史の宝庫」ともいわれています。また、拝殿正面と内陣の彫刻は、精巧を極め、安藤和風が秋田の日光廟と激賞したほど豪華なつくりとなっています。藩政時代は、今の旭川を境に、東側は内町と呼ばれる侍町、西側は外町と呼ばれる町人の町となっていました。日吉八幡神社は、商人や職人の住む外町の守り神となってきた神社でもあります。しかし外町から日吉八幡神社は遠かったため、外町の人たちは、御輿をかついで町を練り歩く御差鉾行列を行い、自宅の前で商売繁盛や家内安全などを祈願してきました。この御差鉾行列と稚児行列は今も毎年行われています。』
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秋田県神社庁より…『古伝承によれば、平安時代後期、源義家に滅ぼされた安倍頼時の子、宗任が比叡山で修験者となり、晩年近江の日吉山と岩清水八幡を勧請して、外旭川の笹岡に修験寺日吉山延命寺無量寺院を建立したのに始まると伝えられ、元享2年新城館主が、同地に日吉山八幡宮を造営、応永2年沙弥安宗が、現上新城中学校の地に同社を移し、天正17年桧山の安東実季が、土崎湊の安東道季を滅ぼしたとき、同社を守護神として飯島に遷座、新たに秋田6郡領主となった佐竹義宣も同社を崇敬し、元和元年八柳狐森に遷宮、寛永2年社殿を造営するも、同19年春、雄物川の氾濫で社殿の大半を流失し、やむなく同年中に現在の地を社地と定め、再建し寛文2年遷座したと伝えられる。現在の社殿は、明和6年、久保田町大火のおり類焼し、その後再興され、拝殿は安永7年に、本殿は寛永9年に建立されたものであり、佐竹氏入国以後、久保田の外町の総鎮守として今日に至る。』
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本殿(寛政9年(1797)建立。正面三間、背面五間、両側面三間、入母屋造り、平入)、拝殿(安永7年(1778)建立)は権現造で秋田県指定有形文化財。本拝殿は権現造で、連結する部分(石の間)は日吉八幡神社では浮橋と呼んでおり、仏教的な彼岸と此岸を連絡する施設であるこの浮橋(平成19年修復)も有形文化財に指定されています。
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拝殿向拝に六歌仙。
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蟇股は裏側まで素晴らしい造りになっています。
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手鋏等も美しいですね。
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拝殿内絵馬。源平合戦(牧野永昌筆、天明三実卯歳初冬下旬敬白、遊心斎)。
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那須与一(渡辺洞昌筆寛政四歳八月吉祥日、渡辺■■写62歳)。下に小さな御神輿。
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宮中(葛延元年庚申八月日、文嶺筆)。その他、繋馬(五十嵐嵐児筆寛政四壬子年九月吉日三町小路、嵐周皐)、熊谷と敦盛(津村洞達筆、文化14丁丑4月吉日、卯月斎)、菊(西宮半城筆、明治30年半城画並苔)、桜、白富士(津村洞養筆、明治13年洞養重悦)、天孫降臨(津村洞養筆、明治16年洞養重悦)等の絵馬があります。
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社殿横へ。
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鳥居。
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神輿殿(昭和58年)かも知れません。
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更にその隣に境内神社の大山祇神社。社号標紀年銘は昭和16年5月(創立20周年記念)。ってことは逆算すると大正10年の創立。※平田神社(現彌高神社)が千秋公園内の旧県社八幡神社社殿に奉遷されたのが大正5年です。
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手水石。
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狛犬一対。
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台座には昭和25年5月12日再建とあります。石工釘屋三右エ門。
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石灯籠一対(大正6年)。
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明治14年、秋田出身の国学者・神道家である平田篤胤を顕彰し崇敬するため、平田門人であった小谷部甚左衛門らの有志が、日吉八幡神社境内に平田篤胤を祀る平田神社を創建しています。これが現在、秋田市千秋公園(久保田城跡)に鎮座する彌高神社の前身です。彌高神社史によりますと、平田神社について次のように書かれています。『日吉神社の山門をくぐって三重塔の下に立って、西のほうに目をやると、本殿の北側に小さな祠が二つ並んでいる。その北の隅の祠が大山神社である。これが明治14年建立時のままの社殿だとは、日吉神社祠官大沼氏や小谷部城太郎氏(吉訓の孫)の語るところである。平田神社が彌高神社の発祥のところであることは、彌高神社の由緒に明らかである。』(「秋川における平川神社と小谷部吉訓」渡遜正列)。
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池。戦前の日吉八幡神社の周辺は、八橋公園として親しまれていましたそうです。
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大山祇神社前から見た日吉八幡神社社殿と三重塔。ちなみにその他として、山王(日吉)八幡に三重塔のほか末社の子安社・稲荷社と薬師堂があるとの記録もあります。
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こちらは日吉八幡神社から程近い場所(秋田市山王1丁目2)でたまたま見つけた荒磯(元祖荒磯ラーメン・秋田市山王)さん。メニューは味噌・塩・醤油・ピリ辛。具だくさんでお腹いっぱい。
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茎わかめ、イカゲソ、ホタテのひもなど色々入っており、今まで食べたことのない味わいでございました。感想を一言で言うと「荒磯!」って感じ。
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