くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

2017年05月

茂浦村の支村である浦田の由来は、海岸に田があったことによるとされます。浦田漁港付近に鎮座しております。ちなみに浦田地区には薬師堂もあるといいますが、どこにあるのかわかりませんでした。 入口にあった石碑。実は横向きになっています。 つまりこういう向きにすれ ...

道の駅しちのへのお食事処絵馬で、「馬うま定食」を食べようと思ったのですが、手前にある物産館の「そばコーナー」の香りに釣られて、とろろそば大盛とジェラートを食べました(写真なし)。 東京優駿で優勝したヒカルメイジとコマツヒカリの銅像。 奥州街道 ...

弘前市富田町にあった「手作りピザ ITALY(イタリー)」。大きなタバスコ看板が昔からの目印。 アットホームな雰囲気の店内。 トッピングを自由に選べるピザ他3種と、スパゲティ各種、ピラフやトーストやドライカレーなどがありました。 おすすめはハーフミックスピ ...

七面大明神。七面大明神(七面天女)は法華経の護法神。 裏には紀年銘「入殖記念昭和21年4月●日(●=注連縄で見えず)」及び数名の名前がありました。 鳥居に対して横向きの社殿。 額束に大澤神社とありました。 中は大変綺麗にされています。 中央には ...

曹洞宗鳳凰山玉林寺。本尊は釈迦牟尼仏。秋田三十三観音霊場第31番。浅利氏の菩提寺で古い歴史を持ちます。 由緒沿革…『今から約450年前「大永7年西暦1527年」当時比内領主としてこの地方を支配していた豪族浅利與市則頼がその居城、鳳凰山の麓に一宇(寺)を建立し松原補 ...

天王つづじ祭りのつつじがまだ見頃では無かったので、急遽ハッピーファーム(金子牧場)のNAMIKIに手作りジェラートを食べに…いえ、菜の花を見に行ってきました。 のんびり過ごせる場所です。 馬たち。 ちなみに盛岡牧場は明治17年頃から洋風牧場として整備され ...

訪れたのはGW後半。見頃はまだまだ先のようで、3~5分咲きでした。 開花状況は新聞を読んで分かっていたんですけど、近くを通ったので訪問してみました。 うん…近くで見ると全然まだまだな感じ(笑)でも思っていたよりは咲いてたかな。 モコモコ感はありませんね。 ...

七戸町二ツ森家ノ下にあります。元々は1つの丘であったかのように中央は切通しになっており、両端の丘の上にそれぞれ社殿が見えます。 1つ目の丘へ上って行きます。 社号標は無く、鳥居にも社殿(施錠)にも神社名が無く、神社名すらわかりません(笑) 部落名をとって ...

参道の木々の根元に石がたくさんあります。 本殿の裏手から入る参道でした。鳥居をくぐるとすぐ右手に恵比寿堂があります。 恵比寿堂。 恵比寿堂内。 恵比寿同の横にある不明の石。 その石の前にも3基の石塔が立てられていましたが、特に文字などは見えませんでした。 ...

奥州街道沿い。 奥州街道駅路図(狩場沢~土屋)…『文禄4年(1595)「津軽と南部の境は狩場沢をもってする」旨の仕置きが、太閤秀吉により為された。現存する四ツ森塚の中間を流れる二本股川(通称・双股川)がその境とされ、400有余年を経た現在でも、平内町と野辺地町の ...

奥州街道。 平内町と野辺地町の中間にある県史跡津軽南部藩境塚標柱。 その横には菅江真澄句碑(平成4年3月平内町商工会建立)…「あら波のよるきしこほれさしながらにでらで花のかけやうつさん」 平内は蝦夷語の「ピラナイ」が語源とされています。「ピラ」は山と山の ...

綴子大堤。「享保郡邑記」に大堤邑20軒と見えます。「寛政村附帳」以後、幕末まで綴子村枝郷大堤村として存続。綴子村本郷集落の東方1km、羽州街道が横断する山麓沿いに大堤の集落があり、集落背後に用水源をなす大堤があります。堤脇の中野岱は縄文晩期の遺跡。 平成28年 ...

秋田県北秋田市綴子東館。 明治天皇御巡幸御小憩所。 忠魂碑。 綴子肝煎屋敷本陣跡。 綴子肝煎屋敷本陣跡(北秋田市指定史跡・昭和53年2月1日)標柱。 綴子肝煎屋敷本陣跡…『綴子の本郷上町地区は、かって八幡平と称された綴子古館のあったところであるが、永禄2年( ...

平内町清水川梨ノ木の八幡宮。 社号標(平成4年12月吉日)。 狛犬一対。 万治2年(1659)の薬師堂。元禄元年(1688)八幡宮創立。御祭神は応神天皇。嘉永元年に御堂・神楽殿を再建。明治6年村社。 石灯篭一対。 手水舎。 参道は左にカーブします。 狛犬一対。 ...

上北郡六戸町犬落瀬下久保。七百の馬頭観世音神社の1kmほど西方の鬱蒼とした森の中に鎮座。 鳥居の額束には國一蒼前開運神社(奉納昭和54年10月吉日・下田重次郎)とありました。下田重次郎氏は当社の管理者。 南部藩領国随一の名馬「邦一」を祀った神社で、かつては1間四 ...

御祭神は誉田別命(応神天皇)。慶長年間(慶長5年)創祓(一説)。当社の創祓は不祥ですが境内に小円墳があったことや言い伝えなどから、相当古くから聖地として村人の信仰の場であったものと考えられています。この地は多摩川の河ロで水の便が良く、交通の要衝にして物資 ...

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