平内町口広左エ門次郎に鎮座。凄い名前の住所ですね。御祭神は建御名方命。例祭日4月27日。
元禄11年、狩場沢の堀差野に建立された後、寺田四郎左エ門の申し立てにより津軽と南部の境目の守護神として助白井(介白居)村に移転。その後、正徳2年に社殿を新築して当村に移されました。享保9年4月27日村中にて再興。この際の棟札には奉造立石神宮神体諏訪大明神とあります。延享元年に社殿を再建。明治6年3月23日村社。
大正8年に現在地に新築される際に本殿基礎の台石は当時の青年団員が斎戒沐浴して海中に潜って拾い上げた石を使用。御神体は江戸與次衛門宅に遷し置き、完成後の夜中12時に江戸與次衛門宅を出て遷座しました。大正11年11月社殿改築。昭和43年6月16日の十勝沖地震により本殿の基礎が崩壊。同年7月27日に神社50周年記念式典にてコンクリートブロックにて修復工事開始。尚、この台座が海中から拾い上げた石で旧礎石の一部で寸法は旧台座と同じ。昭和44年に修復が完了して鳥居一基新設。昭和50年に狛犬一対並びに手水舎を新設、翌年社殿改築(幣殿・拝殿)。平成元年物置(トイレ兼用)並びに土俵を新設。
『青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)』によりますと、「口広に、諏訪神社の兜の伝えがある。昔、北海道松前の藩公が江戸へ参勤のとき、海上で難船した。このとき大切にしていた諏訪の兜を海に投じて海神に祈ったところ、不思議に波も静まり、江戸に安着することができた。その後、松前から三厩に渡海のおり、また暴風で船も危くなった。すると暗夜に一筋の光明が見えるので、その光を目当てに船を進めると、無事に海岸に着いた。そこは平内町の口広で、小さなお堂があった。見ると、先に海中に投じた兜が、いつのまにかこのお堂に安置され、それが光を放ったことがわかった。この奇瑞に感謝して、お堂を諏訪神社と改めて祭ったというのである。」とあります。なお、当神社には石神宮の額がありますが、この額について似たような言い伝えがあります。「昔、松前侯江戸参勤の折、船にて三厩に渡らんとせしに海上颶に遇い、夜中湾内に漂遊せしが、一点の火光を認めければ、船中大いに喜び力を尽して船を漕ぎ寄せしに此の社岸辺にありきと、これにより松前公通行の節参拝するを以て例とせり」。このお礼として奉納された額とのことです。
狛犬一対。
昭和50年5月吉日・江戸幸雄。
社殿内。
本殿。
本殿前の狛犬一対。
胸に奉納者の名前が彫られていました。
狛犬横の石は不明。
台座もあってどこかから移したような感じなので、庚申塔の類か力石とも考えましたが、それなら本殿前に置かない気もします。
注目すべきはこちら。本殿横に立っているのですが、これ何かわかりますか?
実は腐食していて面影が残っていませんが、松前公乗船の船の第一碇と伝えられています。昭和の初めに村の漁船が附近の海上から引き揚げたもので、当時は大変立派な四爪碇で、高さは7尺もあったそうです。みちのく北方漁船博物館(青森市)に同種の碇が保存されていたようですが、2014年に閉館しており、所蔵品はあおもり北のまほろば歴史館に譲渡されたそうですが未確認です。
平内町の神社では定番の…ホタテ貝が必ず1枚は落ちている…。
諏訪神社のすぐ隣には蒼前様が鎮座。いつからここに存在するかは不明のようですが、言い伝えでは古くからあったようで、村で馬が飼育されていた頃は祭りも大変賑やかに行われていたそうです。現在は平内町内の牛の飼育者がお祭りをしているそう。
鳥居や社殿にも一切の表記が無く、何なのかはわかりませんでした。
社殿内。
中央に宮形が2つ。
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