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正一位与次郎(與次郎)稲荷神社は八幡秋田神社の境内社となります。久保田藩初代藩主佐竹義宣に飛脚として仕えた狐の「与次郎」を祀ると伝えられる神社であり、そのため狐が稲荷神の遣いではなく神そのものとして扱われています。久保田城三ノ丸八幡山(現秋田市立明徳小学校所在地)に建立された後、数度の変遷を経て、明治25年以降は千秋公園の本丸跡に鎮座。飛脚を勤める足軽衆の信仰を集めたことから、足軽町であった楢山にも分霊が祀られましたが(寛保3年に久保田城三の丸八幡坂の下り口に足軽番所が設置され、番所内に与次郎稲荷神社が勧進。明治5年に楢山登町へ移転)、楢山の与次郎稲荷神社は老朽化と管理人不在のため、平成25年12月に千秋公園の与次郎稲荷神社へ合祀し廃社。現在では商売繁盛の神、スポーツの神としても信仰されています。
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主祭神は不詳ですが、狐の與次郎そのものを祀っており、同じく「与次郎狐の伝説」を由緒に持つ山形県東根市の與次郎稲荷神社では、御祭神を應神天皇、保食神とし、配祀與次郎大人之霊(よじろううしのみたま)としています。
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狛犬一対(昭和18年9月吉日・石工田口春治)。
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石灯籠一対。
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狐一対(昭和52年5月1日)。
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更に鳥居の両脇に狐三対(昭和5年・昭和16年・万延2年)。その他狐と石祠。
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古秋園金君頌徳碑(明治24年辛卯9月・正五位侯爵佐竹義生篆額)。古秋園の本名は金易右衛門。秋田の蚕業振興に尽くした人物で、武士としては能代奉行、勘定奉行兼銅山奉行のほか、松前出兵の際は陣場奉行を務めました。又、俳人でもありました。最後は大坂奉行として、鴻池や塩屋らの富豪から借財するなど、藩の経済運営に手腕を発揮。
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勤斎渡部先生記念之碑(明治23年建立)。勤斎の本名は渡部広成。湯沢市生まれ。秋田藩最後の儒学者の一人。
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手水舎。
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手水石。
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石灯籠一対。
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慶長9年8月(1604年9月)、佐竹義宣が久保田城へ移って2、3日後、御座の間の庭に1匹の大狐が現れて義宣へ訴え出ました。狐曰く「自分は神明山に300年余り住まう狐の長であるが、公がこの山へ築城されたことにより棲み家を失った。願わくば代わりの土地を賜わりたい。願い聞き届けられるならば、今後永く城の守りとなり、御用にも役立ちたい」。義宣が狐にどのように役立つつもりかと尋ねると、火急の用あらば飛脚となり、江戸まで6日で往復すると答えました。喜んだ義宣は狐に城北の茶園近くの土地を与え、「茶園守の与次郎」と呼んで歩行並の待遇としました(秋田転封前の水戸時代、茶園守の与次郎という家臣が居たので、その名を付けたもの)。以来6年間、江戸へ急用が生じる度に与次郎が呼び出され、約束通り往復6日で返書を携え戻ってきました。江戸までの道中、六田村(現在の東根市)の飛脚宿に、間右衛門という男が居ました。この男、最近飛脚の宿泊が少ないことを不審に思っていましたが、ある時佐竹の飛脚が飛ぶような速さで通り過ぎているという噂を聞きつけました。猟師の谷蔵にそのことを相談すると、谷蔵は「それは狐に違いない。捕らえれば宿はまた繁盛する」と間右衛門を唆しました。そこで2人は悪党仲間たちと謀って狐の好物である油鼠を仕掛け、飛脚が来るのを待ち構えました。江戸へ上る途中の与次郎は目敏く罠の存在に気付き、御用の飛脚を罠にかけようとは不埒であると、意趣返しに油鼠をすべて奪い取ってやろうとしたものの、運悪く谷蔵の狐網に捕らえられてしまいました。せめて御用だけは果たすべしと御状を網の目から外へ出すと、不思議なことに御状は空へ舞い上がりました。谷蔵が一打ちすると、与次郎は呪いの言葉を吐いて死にました。空へ舞い上がった御状は小狐たちが引き継ぎ、遅滞無く江戸に届いたといいます(与次郎の霊が届けたと語る伝説もあり)。
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間右衛門、谷蔵らは奪った金を分け合い、狐の死体は煮て食うなどしましたが、その夜から六田村の人々に乱心する者が続出しました。近隣の狐たちが集まって祟ったもので、自らの指を食いちぎる者、岩に齧り付いて歯を砕く者など、一月余りの間に300人以上が狂い、17人が死に、正気の者は10人ばかりという有り様でした。騒ぎは幕府の耳にも届き、代官・杉本伊兵衛が派遣されました。伊兵衛も現地の惨状に肝を潰しましたが、正気の者たちから事のあらましを聞くと、与次郎をこの地で八幡に祀ることとし、恨みを収めて立ち退くよう狐たちに向けて呼ばわりました。すると狐は去って村人は回復しましたが、間右衛門と谷蔵は10日も経たないうちに死に、子孫もやがて絶えました。事の次第を伝え聞いた義宣は大いに無念がり、久保田城内に与次郎を祀る神社を建立。また、江戸へ往来する際には、六田で必ず与次郎が祀られた宮に参拝しました。義宣以降の歴代藩主も往来の際、街道から続く参道に化粧砂を敷いて必ず詣で、藩主が参拝できない場合には御刀番が代参する慣わしとなりました。
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以下沿革
・慶長年間、久保田城三ノ丸八幡山の小八幡別当寺・金乗院境内に与次郎稲荷神社建立。金乗院は寛文元年(1661)までに城下手形休下町から八幡山へ移転してきたもので、与次郎稲荷神社はそれ以前から八幡山あるいは北ノ丸に所在していましたが金乗院境内へ移設されたとする説もあり。
・明和4年(1767)、外町大火で焼失した寺町の大八幡と一乗院が八幡山へ移転し、金乗院が別当を解かれ北ノ丸へ移転。この際、与次郎稲荷神社も北ノ丸へ移転したと考えられています。
・天保-弘化年間(1831-1847)、金乗院が三ノ丸東方へ移転。与次郎稲荷神社はそのまま北ノ丸に残ったとみられています。
・嘉永2年(1849)、保戸野金砂町の東清寺境内へ移転。※万延2年(1861)とする説もあり。
・明治25年(1892)6月26日、本丸(現在地)へ移転。※明治29年8月とする史料もあり。
・昭和元年(1926)現在の社殿完成。
・昭和41年(1966)4月1日、住居表示実施に伴う区画変更で所在地が千秋公園になります。
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中土橋前(千秋公園入口)のエリアなかいち・にぎわい広場へ。
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エリアなかいちのマスコットキャラクター与次郎くん。
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彼には以下のような伝説が残っています。
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秋田~江戸を6日で往復した俊足の飛脚!…『常陸(現在の茨城県)から秋田に国替えになり、現在の千秋公園に久保田城を築いた初代秋田藩主・佐竹義宣公の前に、一匹の白い狐が現れました。「私は、この山に住む狐です。このたびの築城で住む場所がなくなり、みんな困っています。どうか私たちに住む場所を与えてください。そうすれば、必ず殿のお役にたちます」と願い出ました。狐をかわいそうに思った義宣公は、狐に茶園近くの場所を与え、「茶園守の与次郎」と呼びました。与次郎狐は、約束どおり、義宣公のため飛脚に身を変えて秋田-江戸をわずか6日で往復し、重要な手紙を運んで大いに働きました。しかし、与次郎の活躍を妬んだ飛脚たちの恨みをかい、羽州街道の六田村(現在の山形県東根市)で罠にかかり殺されてしまいました。与次郎の無念の死を哀れみ、義宣公がその霊を祭ったのが、今も千秋公園本丸にある「与次郎稲荷神社」です。殿様の寛大な心と与次郎の感謝の心には、ほのぼのとさせられますね。俊足の与次郎にあやかって、かつて城下町であった中心市街地を舞台に「与次郎駅伝」が開催されています。「足が丈夫に速くなりますように…」「感謝の心が育ちますように…」与次郎にお願いしてみましょう。』
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