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秋田市千秋公園。久保田城跡に鎮座。
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彌高神社東参道。不浄門跡。
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3.5
社号標。「いやたかじんじゃ」と読みます。
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侯爵佐竹義春書。
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案内板「由緒」…下半分が消えています。内容は恐らく以下と同じなので省略。
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御祭神は平田篤胤大人命(諡号神霊眞柱大人命)、佐藤信淵大人命。平田篤胤は、復古神道を創始して古典文化の復興に寄与し、その学問は「草莽の国学」として日本近代化のさきがけとなり、明治維新の原動力の源泉ともなりました。なお、篤胤は没後の弘化2年(1845)3月「神霊真柱大人」の諡名霊神号を白川伯王家より賜っています。佐藤信淵は、幕末期に各藩に招かれて藩政改革のために尽力した農政家でしたが、それ以上に高い理想と広い構想をいだいた経世家でした。彼は久保田藩領の雄勝郡西馬音内村(現雄勝郡羽後町)の出身で、気吹舎の門人。例祭日は5月2日。
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秋田出身の国学者・神道家である平田篤胤を顕彰し崇敬するため、平田門人であった小谷部甚左衛門らの有志が、南秋田郡寺内村(現秋田市)の日吉八幡神社境内に平田篤胤を祀り創建した「平田神社」を母体としています。小矢部は日吉神社の祠官で、明治14年8月13日、針生源太郎・山中新十郎・桜田誠一郎・羽生氏熟とともに日吉神社境内に平田神社を創建することを秋田県令石田英吉に願い出、それに対し石田県令は同年8月26日付けでこれを認めました。平田神社の社殿建設にあっては全国の平田門人が関わり、明治15年2月の県令あて嘆願書に名を連ねたのは、久保悳鄰、師岡正胤、古川豊彭(以上東京府士族)、吉岡徳明、渡辺玄包(山口県士族)、久保季茲(東京府士族)、 井上頼圀(東京府平民)、 丸山作楽(長崎県平民)、 矢野玄道(愛媛県士族)の9人。この嘆願書は平田神社に対して特別の恩典を求めるもので、これに対し石田県令は翌3月に金100円を下賜しています。明治42年に至り秋田県教育会が中心となり久保田城内の正八幡社(旧県社八幡神社)を購入のうえ修繕し、佐藤信淵を合祀、彌高神社と改称。大正5年に現在地へ移築され、大正8年には県社に列せられました。明治時代創建の神社ですが、社殿が江戸時代後期の建築であるため権現造の形式をとっています。
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由緒(彌高神社HPより)…「明治14年小谷部甚左衛門他門人有志にて八橋に平田神社を創建、のち秋田県教育会が崇敬母体となり、明治42年元の秋田図書館跡地にありたる旧県社八幡神社社殿を購入修理し、平田神社を此処に奉遷、同時に佐藤信淵大人命を合祀し、社名を旧藩主佐竹義和公書明徳館題額「仰之彌高」に因んで彌高神社と改称せり。大正5年千秋公園現在地に奉遷。大正8年2月県社に昇格。昭和18年11月2日平田篤胤大人命百年式年祭、昭和25年11月3日佐藤信淵大人命百年式年祭を盛大に執行せり。」
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神社庁より…『明治14年秋田市八橋に平田篤胤大人命を祀る平田神社が創建され、その後秋田県教育会が崇敬母体となり明治42年に秋田市中通4丁目に奉遷し、この時佐藤信淵大人命を合祀、社名を彌高神社と改称する。大正5年現在地に遷座、同8年には県社に列格される。平田篤胤大人は安永5年8月24日佐竹氏の久保田城下(秋田市中通)に生れる。20歳で志を立てて江戸へ出、苦学力行、備中松山藩平田家の養嗣子となる。その後、本居宣長の著書を見て慨然皇道学を講じ、精勤刻苦和漢洋の書籍を読破し、その著述は呵妄書、古史成分、霊能真柱、玉襷、天朝無究暦など百部数千余巻にのぼる。天保12年帰藩、天保14年閏9月11日68歳にて歿す。佐藤信淵大人は明治6年6月15日出羽国雄勝郡に生まれる。家は代々医をもって業とし好学の家柄であった。16歳の時父が客死、遺訓に従い江戸へ出て蘭学、経済学、天文、地理、動植物、暦測量等を学び、父祖4代の学問を継承し家学を大成した。諸国を遊歴、諸侯の求めに応じ世の為人の為にこれを実施し、著書に著す。農政本論、経済要録、鎔造化育論、宇内混同秘策、山相秘録など著述300種8000巻といわれる。嘉永3年正月6日82歳にて江戸に歿す。』
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なお、彌高神社については公式HPがあり、そちらの「平田篤胤・佐藤信淵研究所」のページから彌高神社史などもダウンロードできるので、より詳しい情報はそちらを参照ください。特に彌高神社史には創建までの経緯が非常に詳しく掲載されています。
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手水舎。
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灯籠一対。
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13.5
「青海はら潮の八百重の八十國につきて弘めよこの正道を」篤胤。
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「明治維新百年記念歌碑 神社本廳統理 徳川宗敬書 平田篤胤大人歌碑建立會 代表北嶋一」
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彌高神社本殿一棟・拝殿一棟(秋田県指定有形文化財、昭和28年10月5日指定)…『彌高神社は明治42年(1909)に、国学者平田篤胤、経世家佐藤信淵の両大人を祀る神社として創建され、大正5年(1916)現在地に移築したものである。この社殿はもと久保田城内にあった佐竹氏の氏神八幡神社の正八幡社で、文政2年(1819)の建造である。本殿は桁行三間、梁間二間、入母屋造、向拝三間、銅板葺である。向拝は吹放しとなり、虹梁と手鋏を重ねた珍しい手法があり、また縁腰組などの扱いと彫刻類の多用などに、この時代の特徴がよくあらわれている。拝殿は桁行正面五間、背面七間、梁間四間、入母屋造、向拝一間、軒唐破風付、銅板葺で平面計画に独特なものをもっている。本殿、拝殿は現在石の間で結ばれ、権現造の形式をとるが、石の間は後年の建造とみられる。彌高神社社殿は、秋田藩の造営した数少ない神社建築として貴重なものである。秋田県教育委員会・秋田市教育委員会』
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社殿。
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向拝蟇股・木鼻等。
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鬼瓦・唐破風懸魚。
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海老虹梁・手鋏等。
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拝殿向拝神額。
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