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久保田城御隅櫓は市民が選ぶ都市景観賞受賞(平成2年度)。久保田城内には八つの御隅櫓がありましたが、この御隅櫓は本丸北西隅の高台にあり、見張り場と武器庫の役割を担っていた建物で、市制100周年記念事業として、平成元年に建設したものです。展望台から市街が一望できます。
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久保田城御隅櫓…『この御隅櫓はもと城内に八カ所あった櫓の一つで本丸の北西隅、一番高い台地(標高約45メートル)に位置しており、物見や武器の貯蔵庫などに使われたものです。資料と発掘調査に基づき、当時の二階造りを基本としてその上に市街地が一望できる展望室を加えました。市制施行百周年記念事業として二十一世紀にむけての市政の発展を願い、千秋公園の歴史的シンボルとなるよう復原したものです。構造形式:鉄筋コンクリート造り三層、四階建屋根本瓦葺入母屋造り。間口:19.70メートル。奥行き:7.88メートル。高さ:21.85メートル。総床面積:430.37平方メートル。床面積:1階165.83平方メートル、2階185.28平方メートル、3階59.00平方メートル、4階47.26平方メートル。秋田市制百周年記念日、平成元年(1989)7月12日秋田市』
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御隅櫓内部案内図。当記事では一部しか紹介しません。現地で楽しんでください。
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佐竹義堯公銅像。
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初代藩主佐竹義宣。後ろに豊臣秀吉、上杉景勝、石田三成、徳川家康が描かれています。
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歴代藩主。
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清和源氏の流れをくむ名門…『佐竹氏の家系をさかのぼると、平安時代初期の清和天皇にたどりつきます。応和元年(961)清和天皇の孫・経基は源姓を賜わりました。これが清和源氏の始まりで、佐竹氏もこの流れをくんでいます。武士化して関東各地に住みつくようになった源氏は、やがて東国を支配。義光は、永保3年(1083)現在の横手市金沢を舞台におきた後三年の役に、兄を助けるため参戦。この新羅三郎義光こそ、佐竹家の系図で始祖と位置づけられている人です。この佐竹家の始祖がすでに秋田の地に来ていたことは興味深いものです。この義光の孫・昌義が常陸の国(茨城県)佐竹郷に居住し、佐竹氏を名乗りました。』
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清和源氏略系図。
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常陸の佐竹から秋田の佐竹へ…『転封前の佐竹氏は常陸において54万余石の領土を所有し、全国でも有数な勢力をもっていました。しかし、関ヶ原の戦いにおいて大坂方に参画したことなどにより国替えを命ぜられました。慶長7年(1602)、安東秋田氏の居城であった湊城(土崎)に入り、慶長9年(1604)久保田の地(秋田市)に城を築き以来、この城は佐竹氏代々の居城となりました。』
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佐竹氏略系図。
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藩を支えた体制と経済。
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検地絵巻(秋田県照井静教氏蔵)…『義宣は秋田転封の翌年、藩内の石高を調べて年貢徴収の資料をつくり始めました。土地の広さをはかり、だれが生産しているかを調べ、台帳に記入するこの作業は検地と呼ばれています。2代・義隆の時代まで3回の検地がおこなわれ、これにより藩の税制度が確立しました。』
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秋田街道絵巻(秋田市千秋美術館蔵)…『土崎港は、雄物川の河口に開かれた藩内最大の港でした。米どころ仙北平野の米は雄物川を船で下り一度、港の蔵に納められてから諸国の大商人の手を経て、江戸や大坂方面に船で送られました。御蔵町にはその名の通り、大きな蔵が何十棟も軒を連ね、秋田藩の主要港としての貫禄を示していました。』
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秋田杣子造材之画(井坂記念館蔵)。
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羽陰六郡略図(秋田県立図書館蔵)…『この絵図は「出羽七郡絵図」を原図とし、賀藤景琴が写したもので、景琴が藩内の山林を視察するとき用いたといわれています。景琴の父である賀藤景林(1768-1834)は9代・義和の意を受けて文化・文政(1804-1829)の林政改革で活躍、数々の造林保護政策を実行した人でもありました。』
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美林・秋田杉…『古くは豊臣秀吉の京都伏見城改修用材として使われるなど、材質の良さから全国的にその名も有名な秋田杉。藩では鉱山資源とともにこの秋田杉にも着目し、開発に力を入れました。藩初期の家老・渋江政光は藩内の山林を調査し、保護・管理にあたりましたが次のような指摘をしています。「国の宝は山なり、しかれども、きりつくすときは用に立たず、尽きざる以前に備えを立つべし、山の衰えはすなわち国の衰えなり。」藩では資源を保護するため伐採を制限しながら、正徳・寛政・文化期と3回の林政改革を実施し、秋田杉の美林を守り続けました。』
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新田の開発…『当時から秋田の主な商品作物は米。藩の財政を安定させ、常陸から同行した家臣たちに土地を支給するためにも、新田の開発は藩にとって重要な課題でした。「本田の差し障りにならなければ、鍬先しだいでどこまでも開墾してよい。」これは新田開発の許可状の一例ですが、家臣たちはこの許可状をもらっては積極的に新田の開発に取り組みました。原野を切り開き、水路を通して水田をつくる工事には多くの労働力を必要としました。このようにして藩の新田開発は藩政初期から約100年間の間にほぼ為しとげられ、米の生産量も増大しました。』
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参勤交代・大名行列(大名行列模型)…『当時、行列の所要日数は11日から14日。久保田から羽州街道を通り、福島からは奥州街道へと入って江戸へと向かいました。(義宣の時代は山形から笹谷峠を通り奥州街道へ)一行は食料はもちろん、お膳やお椀、寝具までも持参し、その人数は寛永19年(1642)では1350人にもおよんでいます。宿場に着くと藩主と側近は本陣に宿泊し、その他の随行者は付近の旅籠に泊まりました。この参勤交代の定着にともない各街道では道路や宿場の整備が進み、主要街道筋は大いににぎわうようになりました。』
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19.5
鉱山の開発…『藩内には佐竹氏転封以前からいくつかの鉱山が開かれていましたが、それほど盛んではありませんでした。ところが佐竹氏の転封後、秋田の鉱業がたちまち盛んになったのですから"常陸の金銀鉱は地下を通って、すべて秋田へ行ってしまった…"との話が常陸で流されたほどです。初代・義宣の転封直後の慶長11年(1606)に院内銀山が発見され、二代義隆の時代には金山として開かれた阿仁鉱山が有望な銅山として開発されるなど、二大鉱山は藩の財政を支えました。院内銀山、阿仁銅山は藩政末期にはその産出量も衰えましたが、採掘は続けられ、明治政府へと引きつがれました。』
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阿仁鉱山絵図(秋田大学鉱業博物館蔵)…『藩政以前は金山として知られていた阿仁鉱山ですが、寛文10年(1670)、大坂の吹屋(精錬業)兼銅屋である北国屋吉右衛門が銅山として開発、後に藩が経営することになりました。阿仁銅山は、当時、伊予の別子銅山と並ぶ日本屈指の銅山で、18世紀を通じて幕府の御用銅総額の約38パーセントを産出していたといわれています。』
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院内銀山坑内作業図(秋田大学鉱業博物館蔵)…『院内銀山の最盛期は、天保7年(1836)から約10年間で、1ヵ月の産出量は100貫目(375kg)を越える好景気が続きました。当時は戸数4,000戸,人口は15,000人と、城下町久保田をしのぐほどのにぎわいだったといいます。この図は安政3年(1858)のもので、坑内の作業の様子が詳しく描かれています。』
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久保田城模型。
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久保田城のつくりと規模(御城下絵図)…『慶長8年(1603)5月に着工された久保田城は、同9年8月に完成。城のシンボルともいえる天守閣も石垣もないこの城は、ほとんど板塀と土塁で構成されていました。城の規模は、神明山のもっとも高い所を削り凹地とした本丸、東西117m×南北216mのほぼ長方形を呈し、二の丸は本丸の東側の一段低い所で東西70m×南北432mで細長く、本丸・二の丸のまわりに三の丸・北の丸が配されていました。』
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24.5
4F展望室へ。
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眺望。
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26.4
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平和公園の平和塔が見えました。
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