日光東照宮表参道。杉並木に囲まれています。
「百物揃千人武者行列」の準備が進められています。「百物揃千人武者行列」は翌日の東奥日報でも取り上げられていました。

日光火之番八王子千人同心顕彰之燈。日光東照宮参拝案内所付近。
日光火之番八王子千人同心顕彰之燈(銘文)…『日光は、千二百年前に開かれた、天下の霊場であります。日光廟が造営されてのち、承応元年(1652)幕府は武州(東京都)八王子の千人同心に日光火之番を命じました。千人同心は、遠い八王子から、交代でその任につき、父子あい伝えて、明治元年(1868)まで実に二百十余年に及びました。その間、寒暑を問わず、日夜警備につとめましたが、特に、貞享元年(1684)の大延焼や、文化9年(1812)の大楽院炎上などの際には、日光奉行に協力し、身を挺してよく守りぬきました。また、戊辰の役(1868)には、勤番頭石坂弥次右エ門は、帰郷ののち、日光より戦わずして引き揚げた責任をとわれ、自刃しました。東照宮、輪王寺、二荒山神社の壮麗な殿堂は、こうして護持されたのであります。ここに、千人同心の功績を永く顕彰いたします。昭和33年10月17日建立。題字:徳川家正・撰文:佐々木耕郎・書:菅原栄海・撰文:野口義造』

※日光二社一寺の記事が続きますが、有名過ぎる神社なので、基本的に細かい説明等は省略し、ガイドブックやHPに沿って書きます。
※細かく見て回りましたが、写真はこれでもあまり撮っていない方です。よってすべては紹介しません。
※実際は社殿内なども色々見学できますが、撮影禁止場所が多数あるため省略します。

社号標・一之鳥居。社号標は「別格官幣社」と彫られた上に立派な葵の御紋が取り付けられています。参道正面から見ると鳥居が6度ほどずれて建てられていますが、これは江戸城方面に向けられたためであるとも、完成は崩壊の始まりという考えに基づき、崩壊を防ぐためにわざと欠点をつくったともいいます。このような不完全さは陽明門の柱の模様や、五重塔の屋根(1階から4階までは垂木が平行で5階だけ放射状)にも見られる不完全の美学です。
一之鳥居(石鳥居)は国指定重要文化財。明神鳥居。造営年は元和4年。九州筑前藩主黒田長政公奉納。柱には「奉寄進日光山 東照大権現御寶前石鳥居者 於筑前國削鉅石造大柱而運之南海以達于當山者也 元和四年戊午四月十七日 黒田筑前守藤原長政」と刻まれています。金色の文字なので見やすいかと思います。
材質は花崗岩。石材は筑前国志摩郡小金丸村から切り出し、海路、利根川、鹿沼街道を経て運ばれてきました。高さ9.2m、太さ3.6m(左右で異なる)、柱の間隔6.8mで、江戸時代に造営された鳥居では日本最大の規模を誇り、「日本三大石鳥居」(京都の八坂神社、鎌倉の鶴岡八幡宮)の1基として数えられています。
鳥居の中は一部空洞にするなど耐震構造となっており、15の石材(柱4、貫3、束石1、島木3、笠木4)で組まれており、その継ぎ目も見てとれます。柱は2本つなぎ、笠石は3つの石を組むなどの工夫が見られます。ブラタモリでも触れていましたが、鳥居手前の10段の石段は、下段と上段の幅の差が約1m、高さ約10cmほどの差があり、遠近法により奥深く、より広く見えるように造られています。また、石鳥居手前中央には照降石といって、斜めに分かれた茶と青色の違いが強まると雨が降るといわれる敷石があります。
「東照大権現」の扁額は後水尾天皇の勅筆。大きは畳一畳分。信号機と一緒で高い位置にあるので、そこまで大きくは見えません。なお、家康公の神号を巡っては「明神」か「権現」かで論争が起きたことは有名です。秀吉と同じ「明神」を推した以心崇伝に対し、南光坊天海が「権現」を主張。秀忠による裁定で権現号に決まり論争に勝った天海は、その後の宗教的主導権を握ったといわれます。幕府は朝廷に神号を奏請し、朝廷からは東照大権現、日本(ひのもと)大権現、威霊大権現、東光大権現の4つが示され、幕府は東照大権現を選びました。天照大御神に対し、東の天照大御神という意味合いを持たせたようです。そもそも日本大権現という神号が選択肢として与えられていたことに家康公の偉大さを感じます。
石燈籠(慶安四年辛卯七月日)。苔が美しいです。
五重塔。慶安3年(1650)、若狭の国(福井県)小浜藩主酒井忠勝が寄進。後に焼失しており、文政元年(1818)に同藩主酒井忠進公により再建。高さは36m。内部には直径60cmの心柱が吊り下がっています(耐震構造)。桁行3間、梁間3間、銅瓦葺。御本尊である大日如来像(国指定重要文化財)を安置。
初層から4層までは和様で、5層目だけ垂木放射線状の唐様になっています。初層の軒下には東西南北を示す十二支の彫刻があり、正面にあたる左面には寅(家康公)、卯(秀忠)、辰(家光)と徳川3代将軍の干支が並んでいます。つまり寅・卯・辰で始まる干支です。戌や巳の彫刻は東照宮では珍しいので他の干支も是非ご覧になって下さい。
初層内部は公開されています。内陣に描かれた龍や柱の唐獅子など壁画も必見です。
福島県の相馬流れ山踊り(相馬ながれやま踊りJuniorの会)が行われていました。
「相馬流山踊り」は福島県南相馬市にて鎌倉時代末期より700年間に亘って伝承され続け、当地を治める相馬藩の軍歌として出陣の前に舞われたものでもあります。東日本大震災により、踊りを継承する方々の多くが南相馬市を離れて日本各地に避難。そのような中で立ち上がった団体で、伝統を継承すると共に、世界中からの支援への感謝、福島県の元気を内外に向かって発信することを目的としているそうです。
まだ表門手前です笑

拝観受付所の横には上新道があります。二荒山神社入口の楼門へと続く道です。距離は約200m。横には日光東照宮350年記念祭(1966年)を記念して奉納された37基の石燈籠が並びます。

ちなみに下新道もあります。上新道と同様に日光東照宮と日光二荒山神社を結ぶ道で、約300mほどの杉並木の道です(下写真)。こちらから向かった場合は二荒山神社鳥居前に着きます。
ちょっと離れますが下新道もここで紹介しておきます。下新道の途中には日光東照宮旧宝物館があります。平成27年3月に新宝物館が開館され、旧宝物館はその役割を終えています。現在はひっそりとしていますが、平成30年に国登録有形文化財(建造物)に指定。鉄筋コンクリート造りながら日本家屋の特徴がみられるモダニズム建築として評価されました。東大の安田講堂を手がけた建築家岸田日出刀氏が設計して昭和42年に完成。建物の周囲を高欄付きのテラスが囲み、板葺き風の屋根や壁から突き出た梁などが特徴的。ちなみに旧宝物館前の木で、木目が人の顔のように見える人面木があるとのことでしたが、どの木かわかりませんでした。午後3時頃の西日で顕著に見えるそうです。
日光東照宮旧宝物館敷地内には松尾芭蕉句碑があります。

『「あらたふと 青葉わか葉の 日の光」芭蕉翁おくの細みち日光山吟。松尾芭蕉は、江戸前期の俳人。伊賀上野の生まれ。名は、宗房。号は「はせを」と自署するほか、桃青・泊船堂・釣月庵・風羅坊など。元禄2年(1689年)4月、芭蕉が奥の細道行脚で、門人曽良を伴い、日光山に参詣したと刻まれている。小杉放菴の書で、昭和31年9月日光市・東照宮・輪王寺・二荒山神社が建立。日光文学碑散策路昭和61年設定。日光市』

芭蕉句碑の横にある石鳥居。
重要文化財 石唐門 石鳥居…『これは寛永18年東照宮奥社に建てられたが天和3年震災により破損したので奥社裏山深く埋められて二百数十年に及んだが当宮350年祭記念としてここに移建した。幕府の作業方大棟梁平内氏の設計により巨石から切出されたもので江戸初期に於ける代表的石造美術である。東照宮社務所』

石鳥居。
石唐門。
表門前に戻ります。東照宮最初の門であり、左右に仁王像が安置されているところから仁王門とも呼ばれています。
寛永12年建立。三間一戸、単層八脚門、切妻、銅瓦葺き。明治41年8月1日国指定重要文化財。
神仏分離令により、仁王像は大猷院に遷されて安置されていまたが、明治30年に現在の表門へ戻ってきました。像高約4m。
漠や菊花、 唐獅子、牡丹など82の霊獣彫刻が施されています。漠は鉄や銅を食料とするため、武器が使われない平和な世にしか生きられないことから平和を象徴しています。
表門裏、狛犬一対(寛永13年・木製)。
東西に延長120間に及ぶ簓子塀が付いています。



表門付近の燈籠。燈籠一つ一つをじっくり見ていたら日が暮れます。


表門を抜けると三神庫があります。上神庫・中神庫・下神庫を総称して三神庫といい、中には春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類(約1200人分)が収められています。寛永12年建立。三棟とも校倉造り。いずれも国指定重要文化財です。
日光東照宮下神庫。桁行7間、梁間4間、切妻、銅瓦葺き。
日光東照宮中神庫。桁行9間、梁間3間、入母屋、銅瓦葺き。なお、下神庫と中神庫の間には西浄がありますが、水洗トイレの発祥とも言われているとか。畳敷きの中に穴があり、3m下に水が流れる仕組みになっています。
中神庫前石燈籠。境内の玉石は毎年5月の春季例大祭にそなえ、市民が栗石を1つずつ返してその下にあるゴミを取り除いています。これは江戸時代から続く「栗石返し」という行事。
日光東照宮上神庫。桁行7間、梁間4間、切妻、銅瓦葺き。
上神庫は横に注目です。
中神庫前から上神庫前まで石燈籠がズラリ。
上神庫の屋根下には「想像の象」(狩野探幽下絵)の大きな彫刻が施されており、「三猿」と「眠り猫」と共に日光三彫刻の1つとされています。象が選ばれたのは江戸時代の神庫の名称が御宝蔵で、この蔵と象の語呂合わせという説が有力であると言われています。いかにも江戸時代らしいですね。
神厩舎。寛永12年建立。桁行3間、梁間5間、切妻、銅瓦葺き、妻入り。国指定重要文化財。東照宮で唯一色が塗られていない素木造りです。なお、神馬は10~12時(要確認。12月中旬から3月末は休み・天候が悪い日は休み)に御奉仕。初代御神馬は家康公が関ヶ原の戦いで乗った白馬です。
長押上には猿が馬の守り神であるという信仰から、人の一生を表した猿の彫刻が8面彫り込まれています。特に2面の「見ざる・言わざる・聞かざる」を模った三猿は、子供の教育を論じていると共に、東照宮の根本理念を表しているともいわれています。
母と子(子育て)。この子は無事に生きていけるかしら…と子猿の将来を心配する母猿。
幼少時代(成長)。悪いことには「見ざる、言わざる、聞かざる」ということを表現。
少年時代(悩み・思春期)。一人立ちしようか不安がいっぱい。なかなか決心がつかずに悩み中。
青年時代(旅立・希望)。空を見上げる青年猿の決心は固そう。右の青い雲は青雲の志の意味。
挫折・友情。人生うまくいかないことも。でも落ち込んだときは励ましてくれる友がいる。
出会い・恋愛。隣で無邪気に遊ぶ女猿に恋をした青年猿。どうやって想いを伝えようか…。
結婚。人生そう甘くもない。力を合わせて荒波を乗り越えていきましょう。
妊娠。女猿のお腹がふっくら。家族が増え、同じような人生が繰り返されていく。
御水舎(寛永12年)。唐破風屋根、銅瓦葺き。水盤は元和4年に九州佐賀藩主鍋島勝茂公により奉納。神社の境内に御手洗として独立した建物を構えたのはこの御水舎が最初。水にちなんで波や竜の彫刻に極彩色が塗られています。特に飛龍の彫刻は東照宮内にある43ヶ所ある飛龍の中でも最高傑作とも言われています。柱は4隅に3本、計12本あり、全て花崗岩で造られ、柱の白色と上屋の極彩色との対比が際立っています。滝尾神社付近から水を引き神庫裏の石垣から落ちる水の圧力で水が噴き上がる仕組みになっているそうです(サイフォン)。国指定重要文化財。
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『神橋(日光市)』



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あたくしは、ほんとのお墓に昨年のGW行ってきました☆
http://hokkaidounahibi.blog.fc2.com/
yuki
が
しました