1
栃木県日光市上鉢石町山内。日光観光のシンボル的存在の二荒山神橋。日本の三大奇橋のひとつに数えられます。
2
鮮やかな朱塗りのアーチ型の和橋。木製の橋で石の橋脚に支えられ、全体が漆塗りで高欄や飾り金具が付いている全国でも珍しい橋です。
3
中禅寺湖から華厳の滝を落ちて流れる大谷川に架けられ、長さ28m・幅7.4m・水面からの高さ10.6m。
4
奈良時代にはじめて架けられ、江戸時代初期に現在の形になりました。
5
乳の木と呼ばれるケヤキ材の橋桁を両岸の地面や岩盤に埋め込んで、鳥居の形をした石の橋脚で支え、両岸から伸びたケヤキ材を別の1本でつないでその上に橋板を渡しています。両端と中央にそれぞれ3本ずつ計9本の乳の木で構成されます。また、雨や雪などから守るために橋桁に小屋根が掛けてあり、その上に橋板が置かれています。
6
パンフレットより…『聖地日光の表玄関を飾るにふさわしい朱塗りに映える美しい神橋は古くから神聖な橋とされており、日光を開山された勝道上人の伝説にまつわる橋でもあります。また「御橋」「山管の蛇橋」などと呼ばれ、日光二荒山神社の建造物で国の重要文化財に指定され、平成11年12月には世界遺産に登録されました。平成9年から8年間にわたり行われていた改修工事は、総工費約8億円を投じて実施され、平成17年3月に竣功しました。神橋は山間の峡谷に用いられた「はね橋」形式としては我国唯一の古橋であり、日本三大奇橋(錦帯橋・猿橋)の一つに数えられ、「乳の木」と呼ばれる大材の端部を川岸の岩盤に埋め込み、橋桁とするその特殊な構造が特徴です。』
7
パンフレットより…『奈良時代の末、男体山(二荒山)の登頂を試みる勝道上人とその一行は大谷川の激流のため渡る方法がなくこまり果て、上人が手を合わせて一心に祈ると、川の北岸にひとりの神人が現れました。その姿は夜叉のようで、右手に二匹の蛇をまき、上人に向って「我は深沙大王である。汝を彼の岸に渡すべし」と言いながら手から赤と青二匹の蛇を放つと、たちまち川の対岸とを結び、虹のように橋をつくり蛇の背に山管が生えたので、上人一行は無事に渡ることができ、ふり返って見ると神人も蛇橋もすでに消えていました。上人は合掌して深沙大王の加護に感謝し、それ以来この橋を山管の蛇橋と呼んだといいます。』
8
パンフレットより…『二荒山神社神橋には、「橋姫神」という姫神様が祀られています。対岸の深沙大王と共に男女一対となり橋の守護神として、橋の恒久的な安泰と橋を渡る人々の安全を祈っています。そして橋姫神は日光の聖域との間を取り持ち結ぶ力を持ち、良い縁を結ぶ神様として多くの人々の崇敬をあつめ、願いを込めて神橋を渡ると心が豊かになり元気がでてきます。又この橋を渡り結婚式を挙げた二人は末永く夫婦円満・家庭円満で幸せになると云われています。』
9
有料ですが神橋は実際に渡る(但し通過ではなく折り返し)ことができます。祈願紙ヒコーキといって、水溶性用紙を使用した紙ヒコーキを神橋中央から男体山方向に向かって願いを込めて飛ばすと、その願いは男体山の神へと届くそうです。
10
深沙王堂前から見た神橋。
11
神橋の横には日光橋。
12
神橋広場にある蕪村句碑「二荒や紅葉が中の朱の橋」。
13
『この句は蕪村29歳(1744)頃の作という。「夜半蔓句集」に収載されている。夜半とは蕪村の号である。』
14
神橋横にある日光物産商会本店。明治38年創業。国登録有形文化財。
15
神橋付近にある板垣退助銅像。
16
16.5
板垣退助銅像…『板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家です。明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を編成。土佐(高知)出身。明治元年(1868)戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われます。その遺徳を讃え昭和4年に建立されたが最初の像は第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和42年に再建。彫刻家、新関国臣の作。』
17
天海僧正銅像。
18
18.5
天海僧正銅像…『天海は比叡山で天台宗の奥義をきわめた後、徳川家に仕え、日光山の貫主となる。当時の日光は、豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極にあった。家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移して、東照宮の創建に尽くした日光山中興の恩人である。天海は、寛永20年(1643)108歳で大往生した。この銅像は、日光出身の彫刻家、倉沢実の作。』
19
磐裂霊水。
20
磐裂霊水…『1200余年前日光開山の祖勝道上人がこの地に清水を発見し、以来修験者が神仏に供えた霊水と伝えられる。この水は男体山系の湧水で、日本でも最もおいしい水として定評がある。』
21
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ