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栃木県日光市稲荷町1丁目。龍蔵寺の裏手。大石鳥居は平成17年に鎮座777年、780年、800年祭並伊勢の神宮第61回第62回式年遷宮奉祝し氏子篤志寄附にて建立。
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江戸期は日光門前東町の1町。古くは稲荷川左岸に位置し、皆成川村・稲荷川町と称しましたが、寛文2年の洪水の後、人家が大谷川右岸の現在地に移転してからは主に稲荷町と称し、出町とも称されました。元禄年間頃の「日光古図」によりますと、稲荷川左岸には2筋の道筋が通り、1筋には北から1-4丁目・火之番屋敷が見え、川沿いのもう1筋に裏町通が見えます。堂社建立記によりますと、寛文の洪水に際し「稲荷川四町、上一町残、萩垣町・鍛冶町三百軒余押流」とあるので、稲荷川町の一部が萩垣町・鍛冶町などと称していたことがわかります。慶安郷帳では皆成川村と見え、村高62石余(畑のみ)。元禄郷帳では「古皆成川村、稲荷川町」と見え39石余。なお、元禄14年の日光領目録では「外山分」として39石余が見え、また、天保郷帳では「古者稲荷川町、外山村」とあり村高は41石余。寛文2年の洪水による流失家屋300軒余、死者148人、被災者915人。被災後、宅地移転者200軒に3両宛、貧民60人に6両宛の救恤があり(徳川実紀)、稲荷川町の大多数の人家が移転。その後、洪水にあった元稲荷川町地域は外山村あるいは萩垣面と称しましたが、行政上は移転後の当町に属して当町の1地区となりました。貞享元年の日光大火による当町(出町)の焼失家屋127。明和7年家坪数書上帳によりますと家数92軒、内萩垣面5軒と見えますが、同年の潰家坪数書上帳に潰屋36軒が書き上げられているため、同年の家数は56軒だったと思われます。文久年間の記録では、日光奉行配下役の当町内居住者12。慶応年間の家数53・人数252。文政12年の年中御役勤方帳によりますと、当町も他の門前町と同様に日光山の祭祀や日常生活に関係する人足夫役を負担しており、その内容は4月御祭礼供奉御役109人、9月御祭礼供奉御役78人、3月御祭礼供奉御役16人、他に御宮御霊屋大掃除栗石返シ、御門主様三度御登山之節御発駕役、御宮日勤御掃除1日2人、御殿地石垣上草刈りなど多岐にわたっています。しかし、潰家なども多く、人足をすべて負担することは困難になっているため、たとえば4月御祭礼における人足109人のうち50人は七里・野口・和泉の3か村が代わって勤めています。
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神社は建保2年禁裡守護の稲荷を勧請したものと伝えられ、河川・町名にもなった稲荷神社があり、民家と同様洪水の後に現在地に移転。また、虚空蔵堂は寛永年間に神橋高台の星の宮(磐裂神)を現在地に分祀したもので、東町6町の総鎮守。寺院にはもと多聞坊と称した天台宗香煙山瑞応院多聞寺があり、廃寺となった後も多聞坂の名を残しています。地内に西行戻石があり、往時西行登晃の砌、地元の小童が麦のことを「冬もえて夏枯草」と表現した才智に驚いて立ち戻ったという口碑を伝えます。
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手水舎。
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正一位稲荷神社…『御祭神:宇迦之御魂神。八坂神(明治9年合祀)。大杉神(明治30年合祀)。例祭:3月15日。御神徳:家内安全・身体健全・商売繁昌・学業成就・恋愛結実。当社は、鎌倉時代の健保6年(1218)京都御所鎮護の稲荷神を勧請し「御所稲荷」と称す。日光山北方の女峰山を源流とする清流の下流に祀られ、町を「稲荷町」川を「稲荷川」と名付け、その後約400年大いに栄えた。しかし、徳川時代の寛文2年(1662)6月13日(太陽暦8月18日午後4時頃)、関東一円に降り続いた豪雨により、女峰山直下の七瀧辺の自然湖が決壊し、この土石流が下流の稲荷町・鍛治町・萩垣町・目付屋敷・火之番屋敷・宿坊等を一瞬に押し出し、死者は目付代・同心(10人)・寺一宇(9人)・町人148人、流失家屋300余棟、救助者915人。翌3年(1663)幕府からの御救金一千両を基金にし、稲荷町は現在地に集団移住(出町と別称)し、龍蔵寺下寺十王堂に遭難者の供養塔を建立(日光市指定文化財)、境内の「西行戻り石」には、稲荷神のご神威を称える伝説(冬ほきて夏枯れ草を刈に行く-麦のこと-)、庚申塔等の石造遺産からも往時の隆盛がしのばれる。宮司敬書』
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石灯籠。
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社殿。社殿にも由緒案内板がありました。建保6年9月勧請。日光山第17世座主真智坊隆宣に随行して、京都に上った村民が、京都御所鎮護の伏見の稲荷大神を勧請し村の鎮守としました。その後、寛文2年稲荷川大洪水で村壊滅し、幕府から千両が支給され、現在地に移住し、寛文3年9月29日社殿を再建。配神の八坂大神(素戔嗚命)は寛文3年名古屋津島神社分霊勧請、明治9年11月15日合祀。同じく配神の大杉大神(大物主命)は寛文3年9月茨城県阿波大杉神社分霊勧請、明治30年9月15日合祀。
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拝殿向拝。
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幣殿・本殿覆屋。
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狐一対。
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11.5
こちらの建物はわからず。
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四阿。
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西行法師歌碑…「ながむながむ散りなむことをきみも思へくろ髪山に花さきにけり」。
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『西行法師が日光に来た時、この石の上に少年がいたので、どこへ行くのか尋ねると、「冬萠きて夏枯れ草を刈りに行く(麦刈り)」と少年が歌で答えたことに驚き、この場で男体山を遥拝して引き返した時の歌である。この巨石を「西行戻石」と呼ぶ。』
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西行戻石。
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16.2
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祖霊社。
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標柱(平成27年3月15日)。
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境内にたくさんの石塔がありました。
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庚申塔など。
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庚申塔と青面金剛石碑について…『当社境内の石碑19基-庚申塔3・青面金剛13・弁財天1・梵字2(ウーン))。当町は寛文2年の稲荷川大洪水後、現在地に集団移住し新しい街づくりが進められ、この塔は、元禄2年(1689)より天保15年(1844)まで約155年間に建立された。庚申信仰は神道の猿田彦神・庚神・幸神(賽の神)からのものと、青面金剛を本尊とするインドのヴィシュヌ神、馬頭観音(インドのハヤグリーヴァ)との関連、中国道教の説く「三尸虫」の説や仏密教・修験道・呪術的医学や、民間の信仰習俗などが複雑に絡み合った複合信仰です。一般的には、人体には三尸虫なる虫がいて、庚申の夜に体内から出て、その人の罪過を天帝に告げるので、三尸虫が体外に抜け出ないよう、庚申宿に集まり徹夜した。庚申講は60日、60年還暦は特に篤く祀り、庚申塔を建立した。此の石造は、昭和初期に事故防止のために地中に深く埋めていたが、平成10年の鎮座780年祭記念事業の際現状に復旧した。平成25年3月15日稲荷神社宮司』
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