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栃木県日光市下鉢石町。鉢石町は鳴虫山東北麓、大谷川上流右岸に位置。地名の由来としては「堂舎建立記」に「鉢ノ形ナル岩アリ、因テ名トス」とあります。文献上での鉢石の初見としては文治6年の「下野国二荒山鉢石星宮御鎮座伝記」。古くはヤブ村(晃山編年遺事)、坂本と俗称。永正6年「東路のつと」には「坂本の人家は数をわかず続きて福地と見ゆ、坂本より京鎌倉の町有て市の如し」とあり、中世からの門前町としての様相が伺えます。当て字で初石とも書き、元和6年「日光山領目録」に「社家門前、初石各居屋敷地子銭等悉以御赦免」とあります。江戸期は日光門前東町の1町で、上鉢石町・中鉢石町・下鉢石町の3町から成ります。なお、江戸初期は鉢石村と称しており、正保元年日光街道鉢石宿が形成されてからは、鉢石町あるいは鉢石宿と称しました。「日光道中宿村大概帳」には「此宿之儀、往還宿々へ拘り候節は鉢石宿と相認め、地方へ附候節は鉢石村と相認め、日光惣町へ加り候節は鉢石町と相唱え来」と見え、「鉢石町書類目録」には「当鉢石町之儀者、往古鉢石村、其後鉢石宿ト相唱ヘ東町中惣轄罷在候」とあります。「鉢石炊煙」とも称された宿の景観は日光八景の1つでした。
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下鉢石町は単に下丁とも呼称。慶応年間「日光山森羅録」によりますと、町の長さ1町53間半・道幅4間半。「晃山叢書」では御幸町との境にあたり「下鉢石町入口に幅一間程に長さ二間余、高さ四五尺許に甃して、其上に古杉鬱蒼両方に築営す」と見えます。旅籠・湯葉製造の老舗などが並ぶ門前町の家並みの中に「建坪百坪余、門構・玄関付」(日光道中宿村大概帳)の本陣2軒があり、ほかに輪王寺家来5・小人2・楽人1がそれぞれ屋敷を拝領して居住。地内の俗称大横町は、横町とも呼ばれ、朝日・丹尾・化佐尾・神尾・産尾・陽乙女・千尾・村尾らの八乙女が居住したので八乙女町とも呼ばれていました。また、寛文2年の大洪水にて稲荷川左岸から移転した火之番屋敷が寛政3年まで設置されていたため火之番横町とも呼ばれました。横町突当たりに稲荷祠と不動祠、小字旭原に宝珠院(地蔵堂)があります。地内西側山寄りの横町一帯を新谷町と呼び、丘上には薬師堂・愛宕祠があります。
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日光上鉢石町にあった案内地図「祭のまち」より。
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主祭神は倉稲魂命。上記にある大横町突当たりの稲荷祠かと思われますが、不動祠と思しきものはありませんでした。由緒等については調べていません。
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手水石。
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他にも石灯籠一対(元禄15年)、庚申供養塔、聖観世音菩薩の梵字の石塔があります。
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7.2
7.4
7.8
「大横町の歴史」という手書き案内板がありました。『ここは江戸時代東照宮に奉仕する八乙女が多く住んでいたことから「八乙女横町」と呼ばれてきました。1662年(寛文2年)稲荷川の洪水により流失した火の番屋敷がこの大横町に移された事が「火の番横町」とも呼ばれるようになりました。この時代大横町は大きな活力と賑いがあったと想像されます。その火の番を命じられたのが「八王子同心」と呼ばれた人々で八王子から日光に交替制で勤めその後約200年もの間火災から社寺を守る大きな功績を残しています。このように大横町は現在では世界遺産となった日光山の社寺を守る基点となった場所なのです。』※日光東照宮表参道に日光火之番八王子千人同心顕彰之燈があります。
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こちらは小判稲荷から少し西方の道沿いにあった馬頭観世音。一番大きい石塔は昭和12年4月。地図のピンク付近。
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