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秋田県仙北市角館町。みちのくの小京都角館。角館武家屋敷通りは古城山(小松山城址・角館城)山麓の国道46号から南へ伸びて、かつての侍町である角館の内町を貫く南北方向の通り。仙北市の正式な道路の路線名は「市道武家屋敷通線」。かつての中・下級武士の侍屋敷である旧家が建ち並び、黒板塀と枝垂桜の木立が大きな特徴となっている通りです。よって春のシダレザクラの時期や秋の紅葉時期、もしくはその他祭り等が行われる期間に訪れるのがベストですが、あえてそれ以外の時期に行くことでよりゆっくりと散策・見学することができます。
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ってことで、桜も紅葉もない時期に散策してきました。観光客は圧倒的に外国の方が多かったです。なお、当記事では少ししか紹介していません。また、一部武家屋敷や神社仏閣等は別記事にしております。
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佐竹歴史文化博物館(金銀銅杢目金・林美光美術館)。
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天気が良くて、人もいなくて気持ちいいです。
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でもやっぱり桜が咲いていないと淋しいですね。
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「お食事処ふきや」さんで腹ごしらえ。七代佐藤養助稲庭うどん専門店。ちなみに隣には「そばきり長助」という蕎麦屋もありました。
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稲庭冷しうどん(二色だれ)にしました。もちろん大盛りです。
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散歩を続けます。
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道路を渡りたかったので横断旗を使おうと思いましたが…
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ありませんでした。
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伊保商店。
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この建物は目立ちますね。
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伊保商店は大正13年建立。石造二階建、切妻、鉄板葺、平入。
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角館そば(屋号かねに)。角館を散歩していればソバとウドンを交互に食べ歩きできそうですね。箸休めに比内地鶏の親子丼を食べれば最高のスパイラルが完成するはずです。夜は地酒といぶりがっこのスパイラルです。
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泊まりでくる時は旅館が良さそうですね。こういう所惹かれます。
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角館町岩瀬町。西宮家付近。
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こちらも立派な建物ですね。
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西宮家を通り抜けして、新潮社記念文学館・総合情報センター。田町武家屋敷通り側です。新潮社記念文学館は角館町出身の新潮社創設者佐藤義亮氏ゆかりの文人や近代文学に関する資料、原稿を展示。
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まちの駅立町。
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外町交流広場にて曳山展示中…あれれ…
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散歩を続けます。
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富久屋(ふくや・焼肉、韓国料理)は人気店のようですが残念ながら営業時間外でした。隣には麺屋神楽。秋田県にはラーメン店が多いイメージですが、武家屋敷通り付近はうどん・そば店ばかりだったので、久々にラーメン店を見た感じがしました。
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田鉄家(明治33年建立)。田鉄は屋号です。慶長8年に佐竹義宣が常陸から秋田に城替となり、それに伴い実弟の芦名義勝が常州江戸崎城より当地角館の城代となりました。その芦名氏の一族として同道したと伝えられる田口清兵衛の息子の一人が田口儀兵衛と名乗り、何代か襲名を続け、角館町中町4番地に居を定め手広く小間物商を営んでいました。儀兵衛の次男初代田口鉄蔵が魚商として分家し、呉服商、金融業を営みます。後、六代目まで田口鉄蔵を襲名、現在は、七代・宗良となっています。静かに佇む日本庭園や落ち着いた趣の座敷が商家の風情を現代に伝えています。また外町史料館として幕末から先祖が使用した趣味や生活用品を展示公開しています。
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荒川書店(廃墟)。書店の閉店には淋しさを感じます。
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食彩町家館。
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かくのだ亭(((;゚Д゚))))
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13時25分です。まだまだ食べられます。
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仙北市役所角館庁舎付近。日本の道100選武家屋敷通り顕彰碑などもあります。
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「重要伝統的建造物群保存地区・仙北市角館伝統的建造物群保存地区の概要」…『歴史的環境を現代に伝える集落・町並は、我が国の歴史と文化の理解に欠くことのできない貴重な文化遺産です。本町の表町・東勝楽丁の武家屋敷町並は、城下町の歴史的環境を伝える価値の高い町並として昭和51年に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。仙北市角館は中世以来の城下町ですが、1620年(元和6年)当時の城主芦名氏が古城山北麓の城下町を現在地に移転しました。新しい城下町は、四囲を丘陵と河川に囲まれた要害の地に整然と縄張りされ、城下町のほぼ中央に広場(火除)を設け、この北側を武士居住地区(内町)に南を町人町(外町)として町割をしました。300数十年後の今も当時の町割をとどめています。特に表町・東勝楽丁は、通りに面して黒板塀・生垣を回らした広い屋敷が連続し、前庭の樹木が並木して閑静な環境を構成し、薬医門を構えた武士住宅とともに武家屋敷町並の歴史的環境を伝えています。樹高30米ものモミの大木、細枝をしなやかに垂らす優雅な枝垂桜、色あざやかなモミジが伝統的建造物と一体となって、閑静で優雅な独特な景観をかもし出しているのです。仙北市教育委員会』
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角館町東勝楽丁武家屋敷通り。
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桜がないので本当に閑静です。
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佐藤養助角館店。
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口上…『佐藤養助の創業は万延元年(1860年)。江戸時代がその幕を下ろす8年前の事である。宗家は、稲庭の地に伝わった稲庭干饂飩の原型の技術を受け継いだ稲庭吉左エ門。秋田藩主・佐竹侯より御用製造を仰せ付けられたその技法は、吉左エ門家の一子相伝、門外不出であったため、製造法の根絶を憂いた吉左エ門が二代佐藤養助に特別に伝授し当家の創業となったのである。明治時代になり、当時の宮内省より御買上げを賜る他、博覧会等でも数々の賞を頂いた佐藤養助の稲庭干饂飩。明治の半ばに入るまで宮内省以外ではあまり一般に食されることの無かったうどんではあるが、完全手づくりのその技と本物の味わいは歴代の養助によって確かに受け継がれ、現在に至るまで連綿と守り続けている。店主敬白』
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河原田家。薬医門は当初の屋敷から移築したもので、切妻、鉄板葺、一間一戸、大戸の他、脇壁には潜り戸を設けています。後に電気事業の草分けとなり、薬医門の表札の下には「電話一番」の古びた札がかかっています。
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河原田氏は、藤原秀郷の後裔小山氏から出た小山盛光が、下野国河原田郷を領し、その地名に因んで河原田氏を称したといいます。河原田盛光は文治5年に源頼朝から奥州平泉の藤原氏追討の命により参陣し、奥州合戦の功により陸奥国会津郡伊南の地を与えられ、以後、幕府御家人、伊南地方の地頭として長く領主を務めて国人領主として会津四家(芦名家・長沼家・山内家・河原田家)に数えられました。戦国時代には芦名氏の譜代として会津から角館へ移って本家100石、分家50石を拝領。天正17年の摺上原の戦いで芦名義広が伊達政宗に敗れた後も伊達家と戦い続けます。天正18年、伊達家に勝利するものの豊臣秀吉の奥州仕置きにより領地が没収され大名家としての河原田家は没落。芦名義広(盛重)を頼り江戸崎に下向し家臣になったと考えられます。
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慶長7年、佐竹家が久保田藩に移封になると、盛重は角館城1万5千石が与えられ河原田家も角館に主君と共に随従してきました。角館赴任当初は番頭や寺社奉行などの要職に付き150石を有するも分家し、更に芦名家断絶に伴って新たに角館所預となった佐竹北家に仕えて更に石高が減りました。現在の建物は分家筋の方で、幕末から明治にかけて名士を輩出し、明治24年に東勝楽丁へ移り住んだ時に建てられたもので、建物自体は中級武家屋敷を継承。母屋は木造平屋建(背後の増築部は木造2階建)、切妻、鉄板葺。玄関は起り付唐破風屋根。懸魚には精緻な彫刻が施され式台付。座敷なども格式の高い造りになっています。庭園は江戸時代から受け継がれたものとなっています。河原田家は角館の中級武家屋敷を流れを汲む貴重な遺構であることから昭和50年に仙北市指定史跡に指定されています。
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柴田家。
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非公開の建物です。
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角館武家屋敷は有料公開、無料公開、非公開の建物があります。特に有料公開となっている建物はガイドさんの説明があり、また、展示物なども多くて見応えがあります。
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伝建群管理事務所(公開資料室)。
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角館町武家屋敷の模型展示室があり、無料で見ることができます。
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秋田犬の武家丸(角館さとくガーデン)は武家屋敷通りの人気者です。
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寝ていたのでそっとしておきます。
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角館樺細工伝承館。
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昭和53年9月に旧角館町の伝統的工芸品樺細工の振興と、広域観光の拠点施設という二つの使命をもって開館。全国の伝統産業会館の中では3番目に作られ、角館の古い建築様式を現代に活かした建物となっています。
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館内は樺細工を始めとし、工芸、文化、歴史資料の展示室や、樺細工製作実演、また物産展示室、喫茶室などがあります。一部有料です。
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平福記念美術館。町づくり対策特別事業の一環として建設され、昭和63年4月29日に開館。設計者は国立能楽堂、法政大学などの設計で有名な大江宏氏。
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館名は、角館町出身で近代日本画の巨匠といわれる平福穂庵・百穂父子に由来していますが、日本の洋画の曙光といわれる小田野直武や穂庵・百穂門下の多くの郷土画人を顕彰しています。
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敷地は藩政時代の佐竹北家家臣の屋敷跡となっており、その後は平福百穂の尽力によって建てられた旧制県立角館中学校の校舎があった場所です。
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前庭の太い樹木は武家屋敷当時のものがそのまま残っています。
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百穂先生之碑…碑文『「うつろへる川の流れを見るにさへ年ふりにけり國を出しより」「ひとときに芽吹き立ち匂ふみちのくの明るき春にあひにけるか」百穂』。
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百穂先生像(省吾敬画)。
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裏面碑文(上部)…『百穂先生像(田口省吾畫)、題額(川端龍子書)、和歌二首(百穂自筆)、碑陰(田口掬汀撰、石井景山書)。昭和14年5月起工、同9月竣成。伊藤久太郎刻』
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裏面碑文(下部)…『畫人百穂字貞藏平福穂庵ノ四男明治十年十二月廿八日角館町ニ生レ昭和七年十月次兄ノ喪ニ會ヒ横手町ニ到リ發病同月丗日亡兄宅ニ逝ク享年五十七 公歴 東京美術學校卒業 元聲會々員 國民新聞記者 珊瑚會々員 金鈴社同人 官設展覧會審査員 帝國美術院會員 東京美術學校教授。 百穂ハ少時父穂庵ニ畫ノ手解キヲ受ケ長ジテ川端玉章ニ師事シ學校卒業後ハ洋畫ノ技ヲモ學ンダ夙ニ寫實主義ヲ唱道シテ元聲會ニ加盟シ又珊瑚會ヲ組織シテ邦畫革新運動ニ寄與スル所アリ新聞記者トシテハ挿畫ニ新生面ヲ拓イタ大正五年同志ト共ニ金鈴社ヲ興シ連年多クノ制作ヲ發表スルニ及ンデ畫業ノ進展著シク官設展覧會ニハ數次優作ヲ出陳シ當代稀有ノ大家ト敬仰サレタ歌人トシテモ盛名ヲ馳セ自撰集寒竹 弘ク世ニ行ハル後年歐洲美術見學歸朝後ハ世ノ嘱望君ノ一身ニ攅ツタガ遽ノ長逝ハ邦畫界ノ一大損失デアッタ其為人ハ純誠廉直而シテ至孝至悌常ニ己ニ薄ク人ニ敦ク郷黨ノ教育施設ニ貢献スルコト多大デアツタ 冀クハ其藝術ト其人格ト永遠ニ輝キテ人生ニ光被セヨ 昭和十四年九月為七回忌追遠建立 川合玉堂鏑木清方川端龍子 田口掬汀 結城素明』
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偲ぶ碑…『昭和三年 若きわれら百名はここに入学した校庭に景観を求める矢島鐘二校長のもと 雪道に巨岩を運び雨の日に植樹することに力を合せた 以耒茫々として七十年 ここに碑を彫り往時を偲ぶものである 平成七年五月 旧制角舘中学校第四期卒業生一同』
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美術館前。国指定天然記念物「角館のシダレザクラ162本」(昭和49年10月9日指定・平成21年2月12日追加指定)。
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『閑静な武家屋敷の様々な樹木を背景に優雅に咲くシダレザクラは角館の春を彩る。角館のシダレザクラは、明暦2年(1656)角館の所預かりとなった佐竹義隣や嫡男義明の時代に、京都から持ち込まれ植え継がれて増やされたと伝えられている。樹種はエドヒガンのシダレとなったもので花色は白系と淡紅系の二種がある。このサクラは、主に表町、東勝楽丁などの武家屋敷に植えられ、樹齢約300年の古木から若木まで約200本を数え、このうち162本が天然記念物に指定されている。市街地内に古くから受け継がれた群として他に類例をみないものである。』
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シダレザクラ位置図。
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ということで、一部ではございますが角館武家屋敷通りの紹介でした。
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以下文章はパンフレット(角館ガイドマップ)より抜粋。
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深い木立ちと、重厚な屋敷構えで知られている角館町は、元和6年(1620)角館地方を領していた芦名義勝によって、造られたものです。三方を山に囲まれ、南の玉川筋によって仙北平野に開いている地形は城下町を形成するため、もっとも適している場所であったのです。町を造るのには、現在の古城山(城跡)を北端として、南に向けて三本の道路を設定し、これを中心に造ったと言われます。それ以前は、この山の北側、つまり現在の町と山をはさんで反対側にあったものですが、地の利、広さを考え、さらに水害や火災というアクシデントもあって、新しい町造りをしたものです。町の中央部、市役所のある広場は、"火除け"と呼ばれる場所で、幅25メートル、東の花場山の麓から西を流れる桧木内川まで、町のもっとも狭い部分を分断する形で設けられています。ここが、武家町(内町)と町人町(外町)を区分する場所となっています。北側に位置する武家町は、深い木立ちが覆い、一方、南の町人町は町並みがびっしりと埋めて対照をなしています。町が造られた当時の元和6年(1620)には、武家屋敷250戸、町家420戸と数えられ、明暦2年(1656)に芦名氏断絶の後をうけ、佐竹北家が入部し秋田藩の所領としては一門筆頭の城下町を形成していました。以来390年余、町の形は大きく変わっていませんし、特に内町という武家町は、道路の幅から曲り角一つまで、そのまま残っています。まさに角館は歴史の生きている町でもあるのです。
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角館の武家屋敷通り(内町)…『●石黒家<有料>佐竹北家の用人を勤めた家柄。武家の格式を示しながら簡素な佇まいを呈しています。●青柳家<有料>(ハイカラ館)家屋は寄棟萱葺屋根の母屋、薬医門、蔵、塀などで、武家屋敷の建築様式を今に伝えます。●岩橋家<無料>江戸末期に改造、角館の中級武士の家屋として間取りなど典型的な形を残しています。●松本家<無料>「烏帽子於也」の著者として知られる須藤半五郎を出した向学の家です。建築年代は幕末期と推定。●河原田家<無料>藩政時代の建築を踏襲。座敷にはこの地方の書院造りの典型的な様式を残しています。●小田野家<無料>今宮氏の配下から佐竹北家の家臣となった家柄。伝統的な庭園が特徴の中級武士の屋敷です。●角館町平福記念美術館<有料>平福穂庵、百穂父子の作品を中心に、小田野直武ほか多くの郷土画人を顕彰する美術館です。●角館樺細工伝承館<一部有料>樺細工は山桜の樹皮を細工して茶筒や硯箱などを作るもの。日本で唯一の技術を伝える伝統工芸品です。館内には樺細工や、佐竹北家にまつわる資料が展示され、製作の実演も行われています。』
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外町地区観光名所…『●新潮社記念文学館<有料>角館町出身の新潮社創設者佐藤義亮氏ゆかりの文人や近代文学に関する資料、原稿を展示しています。●西宮家<無料>明治後期から大正時代にかけて地主として繁栄し、その時代に建てられた5棟の蔵と母屋は、大正ロマンにあふれる古き良き時代を今に伝えています。●たてつ家・外町史料館<無料>明治33年に建てられたもので、静かに佇む日本庭園や落ち着いた趣の座敷が商家の風情を現代に伝えています。また、外町史料館として幕末から先祖が使用した趣味や生活用品の展示公開をしています。●安藤家<無料>創業嘉永6年(1853年)、味噌・醤油の醸造元と漬物の製造元。明治中頃に建てられたレンガ造りの蔵座敷は火災に備えて設計されたもので、一般公開されています。●天寧寺…寛永元年(1624年)創建。会津より移封の芦名氏の菩提寺。山門は角館城の遺構で、裏山には平福百穂の筆塚があり、町を見おろしています。●勝楽山成就院薬師堂…薬師如来を祀る鎮守で"峰の薬師さん"と呼ばれ、戦国時代に戸沢氏が信仰したのが始まりとされています。現在の地へは、芦名がおこなった町割りの際に移転しました。のちに佐竹北家の外護があり、特に佐竹義文(八代)は篤信したという。●常光院…寛正元年(1460年)開山。佐竹北家の菩提寺。幕末の戊辰戦争で、大村藩など九州からの援軍藩士の戦没者墓地があります。●角館總鎮守神明社…角館天照大御神を祀る町の鎮守。小田野直武の絵馬が奉納され、菅江真澄終焉の地碑が建立されています。●雲巌寺…宝徳2年(1450年)の開創。山門(県有形文化財)の仁王像は、ドンパン節の作詞者高橋市蔵の作です。座禅堂は秋田県最古のものです。白岩焼の仏像一千体を祀った千体仏堂もあります。(市文化財)』
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角館の四季の主な催事…『●桜まつり(4月20日-5月5日)…町の中心を流れる桧木内川の堤に、2kmにわたってソメイヨシノの桜のトンネルがあらわれます。昭和8年救農土木事業によって完成した堤防止に、現天皇陛下(※上皇陛下)の御誕生を記念して昭和9年に植えられたのがこの桜です。また、武家屋敷通りに咲くシダレザクラは、今から約330年前佐竹北家がこの地に入部してからほどなく植え育てられたもので、樹齢300年以上の老樹など400本余りが華麗に咲き誇ります。●ささら舞(8月13日・15日)…"ささら舞"は、慶長7年(1602)佐竹氏が常陸(現、茨城県)から国替えの時、行列の先頭に立ち悪霊退散をしてきたもので、これが各村々の獅子踊といっしょになって伝わったものだと言われています。あくまで信仰を支えとして、無病息災などを祈願するもので、今日ではお盆の行事として舞われています。●角館祭りのやま行事(9月7-9日)…勝楽山成就院薬師堂・角館總鎮守神明社の祭典にあわせ、9月7日-9日に「国指定重要無形民俗文化財角館祭りのやま行事」が行われます。余興として各丁内から18台の曳山(ヤマ)が繰り出し、薬師堂・神明社への参拝、佐竹北家当主の上覧、町内を賑やかすために曳き回します。曳山には角館を中心とした近在の北浦地域の人による飾山囃子、秋田おばこの踊り子が乗り、奉納や上覧、張番(各丁内の番所)、家々へ手踊りを披露しながらねり歩き、伝統芸能を堪能できる祭りです。また、曳山どうしが鉢合わせした場合は通行の優先権について交渉しますが、決まらなかった場合には、曳山をぶつけあって実力で優先権を得る「本番やまぶっつけ」が行われ、角館のお祭りならではです。「観光用やまぶっつけ」は、事前に激突場所・時間が決まっているため観光客に人気です。こうした独自の伝統文化が守られていることから2016年にユネスコ無形文化遺産に登録され、世界中から注目されています。●火振りかまくら(2月13日・14日)…小正月の行事の一つで、神聖な火で田んぼの忌を払い五穀豊穣、無病息災を祈る行事です。炭俵に1mほどの縄をつけ、それに火をつけ振り回します。大きな火の輪が冬の夜のメルヘンの世界へと誘います。』
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