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金剛山金乗院平間寺。通称川崎大師(厄除弘法大師)。
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2.4
2.8
大山門。昭和52年建立(当山開創850年記念事業)。
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3.5
大山門(遍照門)…『この大山門は昭和52年(1977)、当山開創850年記念として建立されました。山門は、堂塔、伽藍を囲む浄域結界の総門であり、この大山門の四方には、仏法の守護尊として京都東寺の国宝・四天王像を模刻・鋳造した持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)が奉安されています。現在楼上には、信徒各位からの「写経・写仏」が納められています。(鉄筋コンクリート重層入母屋造り袖廊付)』
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大提燈(魚がし)。
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持国天(東方)。
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6.5
増長天(南方)。
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7.5
広目天(西方)。
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8.5
多聞天(北方)。
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9.5
平間寺の文化財…『平間寺は、真言宗智山派の大本山で、金剛山金乗院平間寺と称し、厄除弘法大師または川崎大師として、音から庶民の厚い信仰をあつめています。特に江戸時代中頃からは、徳川将軍家でも厄除けに参詣していました。創建は、平安時代・大治3年(1128)、この地で漁労を業としていた平間兼乗が、夢まくらに高僧のお告げを受けて海中より弘法大師の御像を引きあげ、それを高野山の尊賢上人が開基供養したのにはじまるといわれています。当寺には歴史や信仰を物語る数多くの文化財がのこされています。それらの中から川崎市教育委員会では、絹本着色・毘沙門天像、絹本着色・地蔵菩薩図(ともに鎌倉時代)、絹本着色・弘法大師像(室町時代)、絹本着色・日輪大師像(江戸時代)など、20件のすぐれた絵画を川崎市重要歴史記念物に指定しました。また、境内に据えられている弘法大師道標、六字名号塔(ともに江戸時代)は、川崎大師の庶民信仰を今に伝える貴重な石造物として、川崎市重要歴史記念物・同郷土資料に指定しました。平成2年2月川崎市教育委員会』
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絹本着色・日輪大師像。
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大本堂。
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12.5
当山吉例大開帳奉修の記念すべき昭和39年5月に落慶。堂内には御本尊厄除弘法大師を中心に、不動明王・愛染明王などの諸仏が奉安されています。
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毎日お護摩が修行され、世界平和、国家安穏、信徒安全が祈願されています。また、古来より勅願寺に列せられた由縁によって大本堂大棟には菊花の紋章が許されています。
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御本尊厄除弘法大師。成田山新勝寺、高尾山薬王院とともに真言宗智山派の大本山寺院。開山尊賢上人、開基平間兼乗。関東三十六不動7番、武相不動尊霊場初番、関東八十八ヶ所霊場特番、玉川八十八ヶ所霊場初番、東海三十三観音霊場33番、東国八十八ヵ所霊場初番。
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崇徳天皇の御代、平間兼乗という武士が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく川崎の地に住みつき、漁猟を生業として貧しい暮らしを立てていました。兼乗は深く仏法に帰依し、特に弘法大師を崇信していましたが、我が身の不運な回り合せをかえりみ、また当時42歳の厄年であったため、日夜厄除けの祈願を続けていました。ある夜、一人の高僧が兼乗の夢枕に立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げました。兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じると、一躰の木像が引き揚げられました。それは大師の尊いお像で、兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上、たまたま兼乗のもとに立ち寄り、尊いお像とこれにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力を合わせ、大治3年(1128)一寺を建立。兼乗の姓である平間をもって平間寺と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。
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16.4
16.8
お護摩札お渡し所。
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お護摩受付所・護持志納金受付所(2F)・日本百観音霊場お砂踏み参拝所開設志納金受付所(平成29年開創890年記念)。
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納札殿。
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みくじ納め所・弘法大師願掛け守納め所。
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清瀧権現堂(昭和49年建立)。清瀧権現社結界駒寄せ寄進丈…『大本山川崎大師平間寺の復興事業が完成し殊に御当山鎮守である清瀧権現社が本年春の大開帳奉修期間中に落成されたことは誠に吉慶限りなく山内勤務者一同はこの勝縁・法幸に深く感銘するものであります。ここに平素御本尊厄除弘法大師様に結縁・奉職している私共はこれら浄業完遂の記念と佛恩報謝の真心をもって清瀧権現社の四圍を結界する駒寄せ奉納を発願いたし聊か微志を募って造建することができました。この駒寄せ完成の時にあたり一同ここに名を連ねて永世の記録に留めさせて頂くものであります。昭和49年7月21日山内勤務者一同』、『清瀧権現は大唐・青龍寺の鎮守であり密教守護の霊神である。それは大同元年(西紀806年)弘法大師即ち空海上人が唐より帰国の折大師を衛護して大海三千里の波涛を凌ぎ我が国に渡って来られたのであった。当山のさきの清瀧権現社は昭和20年4月の戦禍を蒙って大本堂等とともに焼失したがその後大本堂をはじめ諸堂伽藍等復興の大事業が全く完成して浄域の輪奐は昔日のように整えることができた。昭和48年は弘法大師御誕生壱千二百年の佳年にあたった。小衲はこの勝縁を契機として当山鎮守・清瀧権現社の再建を発願した。そして当山と最もゆかりの深い京都・總本山醍醐寺より清瀧権現のご分躰を勧請申し上げて本年の大開帳奉修・吉祥を仰いで入佛開眼並に社殿の落成慶讃法要を奉修した。法悦・法幸至極であるこの清瀧権現社の落慶を記念して山内一同挙って芳志をよせこの社殿を結界する駒寄せを奉納されたことは誠に篤志のあらわれであり感銘に堪えない。即ち至心に祈願するところは国土安穏・山内安全・信徒安全・諸願成就・更には佛法興隆・人法繁栄に利生を垂れ給わることを。南無大師遍照金剛・昭和49年7月21日大本山金剛山平間寺第44世大僧正隆天和尚』
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聖徳太子堂(昭和41年)。
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聖徳太子講並びに諸職人により聖徳太子像奉納。平成26年改修工事。毎年2月22日に聖徳太子年祭。
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海苔養殖紀功之碑(大正9年9月)。
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纏魂碑(昭和48年)。
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お水屋(昭和40年)。
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26.5
浄水を湛える金剛水器は昭和33年御本尊御遷座記念に奉納。
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献香所。
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石灯篭一対(明治33年9月)。
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29.5
厄除弘法大師略縁起…『平安時代、第75代崇徳天皇の御代(1123-1141)、平間兼豊・平間兼乗という武士の親子が無実の罪により生国尾張(現在の名古屋地域)を追われ、諸国を流浪したあげく、ようやくこの川崎の地に住みつき、漁師を仕事として、貧しい暮らしを立てていました。兼乗は深く仏法に帰依し、特に弘法大師を崇信していました。当時42歳の厄年に当りましたので、日夜厄除けの祈願を続けていました。ある夜、ひとりの高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速やかに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、所願もまた満足すべし。」と告げられました。兼乗は翌朝直ちに海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられました。それは大師の尊いお像でした。この地は「夜光町」と名づけられ大師の浜の古い歴史を今に伝えています。兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕に香花を捧げ、供養を怠りませんでした。その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途中ここ兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、大治3年(1128)一寺を建立しました。そして兼乗の姓・平間をもって平間寺と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。これが今日の大本山川崎大師平間寺の由来であります。兼乗は、この信仰のおかげで、晴天白日の身となり晴れてふたたび尾張の国に帰任しました。平間寺の開基である尊賢上人は、保延2年(1136)弘法大師を篤く信仰されておられた鳥羽上皇のお后・美福門院に平間寺開山の縁起を申し上げ、災厄消除と皇子降誕の祈祷を修行されました。その霊験たちまちに現れ、まもなく皇子(のちの第76代・近衛天皇)がお生まれになりました。これ、まったく厄除弘法大師のご霊徳と美福門院も殊のほかお喜びになりました。このことを上皇にご奉告申し上げ、永治元年(1141)近衛天皇のお名によって、平間寺に、勅願寺のご宣旨が下されました。爾来、皇室のご尊信も深く、以降、徳川将軍家の帰依も篤く厄除弘法大師のご霊徳は、いよいよ天下にあまねく関東厄除・第一霊場として善男善女の参詣、相ついで跡をたたず、現在に至っております。大本山川崎大師平間寺』
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霊木「奇跡の銀杏」…『この銀杏は、第二次世界大戦の大空襲により幹の大半を焼失。今でもその痕跡を樹木の根元に見ることができます。戦後、川崎大師はご信徒のご信援により大本堂をはじめ七堂伽藍を復興。同様にこの銀杏も奇跡的に蘇生、灰燼に帰した川崎大師の歴史を今に伝える古木であります。「奇跡の銀杏」の樹勢にあやかり、健康長寿、心願成就を祈念ください。平間寺』
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経蔵。平成16年に大開帳奉修記念事業として落慶。
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中国最後の木版大蔵経「乾隆版大蔵経」7240巻が収蔵。御本尊・説法釈迦如来の前に置かれた五鈷杵には、金箔の奉納をすることができ、この奉納によって仏様との強いご縁を結ぶことができます。
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弘法大師一千御忌供養塔(文政3年)・石灯篭一対。
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34.2
34.4
34.6
横には梵字が彫られていました。
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天水桶一対。
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六字名号塔。
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37.5
六字名号塔…『阿弥陀如来への信仰をあらわす「南無阿弥陀仏」の六文字を、名号とか六字名号と呼んでいます。この名号を石などに刻んだものが六字名号塔(名号塔)で、功徳の祈念や所願が成就した時の記念碑などとして建てられました。川崎大師・平間寺にある六字名号塔は、江戸時代の寛永5年(1628)に建てられたものです。その由来について、江戸時代の仮名草子の作者・浅井了意は、「東海道名所記」(万冶元年・1658刊)で次のように書いています。川崎大師に信仰厚かった江戸・京橋の商人・紀国屋作内が、川崎大師への参詣の帰りに六郷大橋で一対の筆を拾い、家へ持ち帰りました。すると、字の書けなかった彼が、その筆で、にわかに六字の名号をすらすらと書けるようになりました。喜んだ彼は、これを石塔に彫り、大師河原に建てました。このように川崎大師への信仰は、江戸時代初期から広く定着していたことがわかります。その後この六字名号塔は、江戸の文人が書いた「十万庵遊歴雑記」(文化11年・1814刊)や「調布日記」(文化6年・1809刊)などにも登場しており、庶民信仰の歴史を知るうえで貴重な価値をもっております。川崎市教育委員会は、昭和63年11月29日、本六字名号塔を川崎市重要郷土資料に指定しました。平成元年3月川崎市教育委員会』
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中書院(昭和41年5月)。
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2つの茶室を備えています。光聚庵の庵名は三笠宮妃殿下より賜りました。光聚庵の南側に面した庭には清冽な水を湛えた「月の井」があり、石と緑の美しい調和がみられます。心月庵(小間)は第15世裏千家々元千宗室の命名で、千家の又隠(本茶屋)をうつしたものです。
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茶筅塚。
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茶筅塚…『「主が客をもてなす、まことの心は、また、主が道具をいたわる心に通ずる」この精神をいかし、多くの茶を点て、人々を楽しませて永く使用した茶筅に感謝を捧げ供養のまことを表わす「茶筅供養」が毎年10月第1日曜日に修行される。この碑は、千利休居士400年遠忌記念(平成3年)に建碑され、碑面の文字「茶筅塚」は、茶道裏千家第15世鵬雲斉千宗室師のご揮毫である。当山』
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弘法大師道標。
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弘法大師道標…『厄除け大師として知られている川崎大師・平間寺は、大ぜいの参詣者でたいへんな賑わいをみせることで有名です。信仰と行楽をかねた川崎大師への参詣は、江戸時代初期からたいへん盛んになりました。そこで江戸からの参詣者のために、寛文3年(1663)に本道標が建てられました。道標は、高さが171センチメートルと大形で、しかも力強い書体で「従是弘法大師江之道」(これより弘法大師への道)と刻まれております。現在は境内に建っていますが、当初は、川崎宿下手の土居(川崎宿の多摩川寄り入口)付近にありました。江戸からの参詣者は、六郷川(多摩川)を渡って船場町(現在は多摩川の河床)にいたり、本道標の指示にしたがって左折し、大師道へと歩んでいきました。本道標は、菱川師宣の「東海道分間絵図」(元禄3年・1690刊)や、川崎宿船場町絵図(明和2年・1765作図)、さらに享和年間(1801-1804)に道中奉行所が作成した「東海道分間延絵図」の中にも描かれており、歴史的にも川崎宿を代表する貴重な石造の記念物です。川崎市教育委員会では、昭和63年11月29日、本道標を川崎市重要歴史記念物に指定しました。平成元年3月川崎市教育委員会』
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道標…『寛文3年(1663年)川崎宿の渡し場(現在の六郷橋のたもと)近く、大師へ至る道の入口に建てられたもので、この碑には、「こうぼう大し江のみち」と刻まれている。この碑は、第二次大戦後六郷橋附近の道路拡張工事にともなって、当山の境内に移管されたものである。』
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弘法大師一千百五十年御遠忌供養塔。
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入江相政氏歌碑「弘法大師千百五十年遠忌にあたり平間寺にてよめる、わがこころすはるるごとしいつの日も風信帖の一字一字に、侍従長入江相政」。歌碑建立に寄せて…『入江相政氏は天皇陛下の側近に侍従長として永年つとめられ、その間、皇室と当山の格別なる法縁の故に、毎年大師参詣をつづけられた。すぐれた稟性に恵まれ文学をはじめ各般にわたって造詣深く、ことに、「風信帖」など大師の御作をこよなく敬愛された氏は、昭和59年の弘法大師一千五百年御遠忌にあたり、堪能なる和歌の道に託して、感動的な心情を発露され、当山に献歌なされた。氏の一周忌に因み、その徳を讃え追慕の念を深め、恩情のまことを捧げてここに建碑し、永く記念するものである。昭和61年9月29日忌辰建立。大本山川崎大師平間寺貫首第44世・中興第1世大僧正高橋隆天』
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祈りと平和の像(昭和59年)。
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「祈りと平和」像讃歌(貫主高橋隆夫)…『いまここに仰がん祈りの像 いまここに讃えん平和の像 みほとけは女神とともに神鹿のあそぶ苑に 平和を奏でて人びとを見まもり 慈悲のまなざしを示し給う 祈りの声は宇宙に広がる朋友よ幸せに朋友よ豊かに 平和のハトは蒼天に翔ぶ朋友よ明るく朋友よ健やかに昭和60年10月7日「祈りと平和」の像建立1周年に寄せて』
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「祈りと平和」の像に寄す…『本道裏千家家元勤任による当山ご供茶式と茶道裏千家淡交会川崎支部、川崎青年会議所、川崎大師平間寺共催の大茶会は、三者の協調と献身的な努力のもとに、大いに、地域社会の文化向上に寄与し、ここに、心新たに意義ある20周年を迎えた。本年、宗祖弘法大師壱千百五十年御遠忌並びに当山吉例十年目ごと大開帳奉修の法縁にあたり、大師の鴻恩に報謝の誠を捧げ、三者の目的達成、発展を期するとともに、更に祈りに徹してやすらぎに住し、永遠の平和を願う真心を伝承せんがためにここにこの像を建立する。作者は、霊峰富士の頂上に来迎された観世音菩薩(女神)の天にひろがる大慈悲心と釈尊の初転法輪の聖地・鹿野苑にみなぎる世界永遠の平和の祈りを象徴されている。因みに、彫刻家である、文化功労者・日本芸術院会員・圓鍔勝三先生にこの制作を依頼した。昭和59年10月7日大本山平間寺貫首第44世・中興第1世大僧正隆天』
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