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三戸郡五戸町浅水。宿場と八幡宮で栄えた浅水は、明治9年明治天皇御巡幸の道でもあります。神社は部落中央から西側の山上に祀られており、御祭神は応神天皇や八幡太郎義家。急な坂道を100mほど登ります。
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手水舎。
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浅水城跡(浅水館跡)です。浅水城は中世の山城で、頂上部の本郭を中心に主要な郭は二之郭、三之郭とあり、浅水川を天然の外堀と見立て、麓には城主の居館が設けられていました。南部長義は地名に因み浅水氏を称しましたが、南部家の本城だった三戸城では南側に屋敷を構えていたため南殿と呼ばれ、いつしか南氏を称するようになりました。永禄年間の南部家の内部抗争では宗家と対立したため、南部家24代当主南部晴政の侵攻を受けています。天正19年の九戸政実の乱では九戸政実に呼応した櫛引氏が浅水城を襲撃、更に馬淵川の戦いで当時の城主南盛義は討死。その後、南氏は宗家南部家の重臣として組み込まれますが、寛永8年に南利康が死去したことで事実上断絶(南氏の名跡は先々代南直義の嫡男南晴政が300石で継ぎましたが浅水領主の復権は成りませんでした)し浅水城も廃城。現在は公園として整備されており、主郭と考えられる平場には南長義が勧請したと伝わる八幡宮が建立されています。
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『浅水城跡は、戦国時代の永正年中南部二十二代政康の三男長義が築城したと伝えられている。長義の官名は「遠江守」で、五戸、浅水を知行し、禄高三千石であった。長義は寶福寺を開基し位牌や墓は同寺にあり、石碑は五輪塔である。長義の子孫南氏五代利康は寛永8年(1631年)24才の若さで没したので、その霊を慰めるために建てられたのが南部町の三光庵霊廟である。浅水城は利康の死没によって廃城となり、120年間の支配が終わった。現在は境内地となっており、昔の面影がわずかに残されている。この城跡の東端を奥州街道が通っていた。林野庁・青森県』
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そこそこの勾配ですが、綺麗に整備されています。
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途中に寶福寺案内標柱。
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寶福寺を見下ろすの図。
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頂上。
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石灯籠一対(慶應2年10月19日)。
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御祭神は応神天皇。仁安元年(1166)9月創立。天保10年9月15日鎮座。明治6年4月村社列格。例祭日は9月15日。正保2年7月15日、佐々木家(子孫は佐々木利三)は鎮府八幡宮の御寄進により宮守(別当)を命じられ、9月15日を縁日として祭事を奉仕。以降、年々9月15日は浅水全村、山止めにして大祭を行ってきました。
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甲斐の国加賀美次郎遠光が八幡大神を勧請し、三男光行も父と同じく八幡大神を奉じ、源頼朝が治承4年(1180)石橋山で挙兵するやこれに従軍。祖先の守護神八幡大神を奉じて出陣し、大いに軍功をあげました。特に奥州藤原恭衛征伐には殊功を挙げるにより糠部五郡を賜ります。時に建久2年(1191)12月なり。この時家臣津島平次郎、石見入道をして産土神と仰ぐ八幡大神を、一時滝の沢に祀り、更に霊治を卜して浅水館に奉遷。浅水館は光行より22代南部大膳太夫政庸の三男南部遠江守長義が三戸城から移り住むところです。浅水城城主南長義は河内源氏を祖に持つ南部家伝来の八幡大明神を京都の石清水八幡宮より勧請合祀(神主臣右京之助、佐々木高貞)して城の鎮守社にしたと考えられます。
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御神尊像は天保4年(1833)に栃内六兵衛が制作した木像(細工した弓矢を持たれた八幡様)で、御神体は石清水八幡宮(京都府八幡市)から河上宗次が奉納した神鏡。古くから神仏混合し修験道場として栄え別当寺院として多門院の配下の修験界蔵院が祭祀を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、明治6年(1876)に村社に列しました。例祭は旧9月15日(往時は村人すべてが休日となり大祭を楽しんだそうです)。
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主祭神は応神天皇。相殿は愛宕神(天文4年創建)、浅間神(葦津姫神)、神明宮、法呂神(猿田彦神)、祇園神(建速須佐之男命)、白山神(伊弉冉命)、中徳稲荷神、古石神(大国命)、岡谷稲荷神、春日神(天児屋根命)、滝神(大己貴命)、丹内神(金山彦命)、駒形神、少彦名神。
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拝殿。
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拝殿蟇股・木鼻。
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海老虹梁。
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蟇股裏側・手鋏。
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拝殿向拝神額。
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拝殿内。反射してよく見えないと思いますが「遣幣使の正服」という説明板がありました。
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『当八幡宮は、明治初期から終戦まで「村社」となっている。時の浅田村長が「遣幣使」として、八幡宮三大祭(祈年祭・例祭・新嘗祭)に参列するときに着用したもの。・祈年祭…五穀豊穣を祈願し5月3日に行われている祭典。・例祭…9月15日に行われている祭典。・新嘗祭…豊年に感謝し、新穀を神に供え12月15日(昭和41年以前は11月24日)に行われている祭典。』
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拝殿前石灯籠一対(昭和2年9月15日)。
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手水石。
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石灯籠一対。
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狛犬一対。
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台座紀年銘「昭和16年9月15日・皇紀2601年支那事変記念武運長久祈願・浅田村下通部落會一同」。
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寄附者芳名碑(昭和3年11月3日・帝國在郷軍人會淺田村分會)。
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忠魂碑(一戸兵衛書・昭和3年11月3日)。
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神輿庫。
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御神輿。
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展望台。
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いい景色です。
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あそこが一之鳥居。
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八幡宮由緒…『祭神応神天皇。祭日旧九月十五日。当社は、南遠江守長義公(南部二十二世政康公三男)が浅水館に分封せられた時、南部家にて伝来崇敬していた八幡大明神を勧請したものである。御神体は、京都石清水八幡宮から河上山城守宗次が奉納せし神鏡を奉受し、又弓矢を持ち馬に乗りたる尊像(天保四年栃内六兵衛作の木像)を共に奉戴す。祭日には、浅水全村生業を休み、賑かに大祭を催し現在に至る。往古当処は、修験道場として栄え、鎌倉期以前は、安部八幡であったと伝えられ、戦国時代には南氏の城郭としても使用された。弘化年中、五戸年行事は、多聞院の配下にあり、別当は修験界蔵院であった。昭和60年9月八幡宮社務所』
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相殿の神。
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余談になりますが、明治から昭和にかけての力士として木村丑松、沼田仁太郎、北上長太、平野松太郎らが草相撲として名を残しています。鈴木源兵衛(七太郎)の屋敷内に広場があり、そこに土俵を作って相撲大会が開催されました。扇田には石ヶ森馬松、中川原昌一郎、権次らがいました。戦後は青年団対抗、学童相撲へと変わり、八幡宮の例祭に当たる9月15、16日に放楽相撲が青年たちの手によって続けられました。現在も続けられているのかはわかりませんが、年1回奉納相撲大会が開催されます。浅水まつりには夜、草相撲や盆踊りが行われました。青年団と相撲愛好会が勧進元となり、部落の有志から寄付を貰って盛大に催したといいます。昔はガス灯から近年は電灯をつけ、対抗相撲、三人抜き、五人抜きと夜遅くまで賑わいました。ちなみに夜店は全然なかったそうです。昼は山車の運行し、神社の鳥居を境に上区と下区の喧嘩などもよくあったようです。草相撲の呼び出しは川村徳四郎、行事は坂本石雄。当時は四つ相撲が一般的で、現在のように制限時間がないため仕切りが長く、「待った」は何回もありました。その都度、両者の体が朱に染まり武者震いする姿にお客は大喜びだったそうです。地方力士といわれたのは菊池市太郎、小沢健吉、宮力之助、太田稔、太田勝男(浅田川)、沼田忠(浅田山)らでした。この中には五戸の神明宮、西越の三嶽神社、倉石の新山神社、豊崎の七崎神社、四和の中渡八幡宮などにも出場したり、五戸伊達の里らと共に参加して興業力士に変容した若者も居ます。浅水地方では大正、昭和にかけて大相撲に入幕した青年はおりません。

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