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吾妻沢。
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かなりわかりにくい場所にあります。
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少なくとも私は近くで農作業されている方にお聞きしてようやく辿り着きました。親切にありがとうございます。ちなみに個人の敷地になります。
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最初は歩けど歩けど場所がわからず…途方に暮れて…ふとしゃがみ込んだら、周囲は四つ葉だらけでした。四つ葉の方が簡単に見つかるって…。
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吾妻川沿い吾妻館と接近し、藩命を受けて当地の開墾に当たった北村平右衛門、久左衛門の徳をたたえ、久左衛門を祀り、また、五穀豊穣祈願のために祀った六所宮があったとされるところで、康永4年(1345)の碑を含む3基の板碑が置かれています。なお、元禄年中に既に建物を失っており、その後の沿革は不詳。明治初年にも小森の上に何かの小祠があったと伝えます。森付近からは康永年中の碑も発見されており、森の北側から古い懸佛、唐銭などが発掘されています。
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六所神社(六所宮)の御祭神は不詳。享保6年(1721)村民が北村平右衛門を讃え、五穀豊穣祈願のため建立。なお、吾妻川の対岸には吾妻館跡があります。また、同地(吾妻沢)には白山神社があるようですがこちらも場所がわかりませんでした。白山神社の御祭神は白山比咩命、大山祇命、保食神命。寛文10年(1670、村民が五穀豊穣祈願のために吾妻沢に建立。以後、白山様として農家や杣夫たちに信仰されてきたそうです。
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六所神社(六所宮)跡。菅江真澄「津軽のをち」より…『二十八日、人々といっしょに野や山をわけめぐった。吾妻の森というところに神社があり、六所明神といった。この森のかげに石碑が二つたっていた。ひとつには康永元年(1342)二月二十九日と刻んであった。もうひとつのほうの文字は、はっきり見えなかった。このあたりは中世の古い館跡があり、その主は小山内長助とかいったと、ある人が語った。流れを吾妻川といって、南又、山師又という山奥のふたつの谷川が合流して海にはいっている。それで、あずま浜の名称があった。ここの浜で、あずまいしという色彩もあざやかな小石を拾った。』
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板碑。
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向って左の板碑。高さ約124cm。流紋岩。金剛界大日如来(荘厳体)。
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「右塔婆造立 者悲母幽聖御五七日-也乃至法界平等利-益故是我-」※(-以下破損)。
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真ん中の板碑。高さ約110cm。凝灰岩。阿弥陀三尊種子。
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「奉造立石卒都婆為 慈父以餘薫無差平等」
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向って右の板碑。高さ約98.5cm。凝灰岩。阿弥陀三尊種子。
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「右意趣者為於悲母 康永四年乙酉二月二十九日孝子等敬白 幽儀七七伯法界平等」
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案内板「町指定史跡六所の森(昭和49年8月16日指定)」…『元和年中(1615-1623)に北村平右衛門が藩命によって、吾妻沢及びこの地域一帯の開発にあたった。しかし、その完了をみずに病に倒れたので、その子久左衛門が親の志を継いで開発に献身して寛永年中(1624-1643)に開発の事業を完成させたという。ともに開発の鍬をふるった村民は、平右衛門・久左衛門の苦難の功をたたえ、また五穀豊穣祈願のため、この地に六所宮を建立したものと言われている。元禄年中(1688-1702)に建物は失われ、その後の沿革は明らかではないが、明治初期にはこの丘の林に小祠があったと伝えられている。深浦町教育委員会』
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