一の鳥居です。ここから社殿近くまで車で行くことが可能ですが、本来の参道を進みたい方は、途中から石段となるのでここから歩いた方がいいです。
社号標(昭和44年1月26日・42歳厄年拂記念)。
狛犬一対。
台座。「昭和46年度厄祓祈願者一同」「昭和47年度厄祓祈願者一同」。
石灯篭一対。
正面のあの山の中に鎮座しています。巨木ばかりですが、正面のイチョウの木が目立ちますね。
そのイチョウです。
他の巨木も中々でございます。
イチョウを過ぎるとすぐに次の鳥居が見えます。
二の鳥居付近から見た一の鳥居。
車で来るとこの鳥居から向かう正面参道は迂回することになります。
参道脇に石碑がいくつかあります。石段に関する記念碑です。
一ノ段「西越字田中 田島吉太郎奉納・戸耒字金ヶ沢 髙橋工務店施工・昭和60年8月16日敬白」
二ノ段「西越字田中 田島博奉納・昭和60年8月16日敬白」
結構勾配がきついですね。
手水石(昭和59年8月16日)。
御神木。
途中に随身門があります。
随身門。
かなり個性的ですね。歌舞伎役者にしか見えません。もしくは健康ランドの大衆演劇。
この像に関することとして、当神社と同じ名前の神社が戸来、貝守にもありますが、次のような伝説を残しています。『その昔、高貴な身分のお方が3人の娘と2人の強い武士を従えて戸来の地に落ちのびてきました。おりしも戸来の西方にある奥嶽に何者とも知れぬ魔物が棲息していて、時折人里に出て来て農作物を荒らしたり、良民に害を加えるなどして、村人たちは困却していました。このことを耳にした武士は、「その魔物を征伐して村人に安心してもらおう」と、羽井内の大石神で西方に聳える大嶽の神に祈願をかけ、魔物の出現を待っていると、ある日の夕方、一天にわかに紫色の雲がなまぐさく大風雨となりました。「これは異なる臭気」と辺りを見渡すと、地鳴り振動を起こして何物とも知れぬ魔物がキバをかみならしながら出現。「時こそきたれ」と2人の強武士は魔物を切り伏せ、息絶えたりと見て、まず一安心と笑顔をかわした刹那に、何としたことか、確かに息絶えたはずの魔物の頭首が、近くの木陰にたたずんでいた3人の娘を、血だらけの大きな口と手でつかまえて逃げ去りました。魔物を切り伏せて村人の難を除いたことはよかったが、最愛の娘3人をさらわれては何としても悲しみと残念の極みであった。そこで落人はその拠点の西方高地の上にある大石神の頂上に座禅を組み、十和利山の神に対して、3人の娘の無事帰来を一心に祈りました。「魔物は追い払ったが、わが愛する3人の娘は国家の柱となり、永く国土を守るように」といいました。従者の柿本斉藤、大畑十郎兵衛勘由は北の平地を永住の地と定め、ひとりは大石神の地続きの平地に住み、大畑は谷を隔てて北方の平地に居を構えました。座禅祈願して3日目に長女は戸来、二女は西越、三女は貝守の地でそれぞれ発見され、産土神として村人は祀りました。』。これが即ち三ヶ所同名の三嶽神社由来で、西越の石段境内に建っているのは柿本斉藤と大畑十郎兵衛の武士像モデルが門番になっているとのこと。なお、別当が書いた幕末の由来記にはこの怪物について大蛇ではないかと表現しています。
この像に関することとして、当神社と同じ名前の神社が戸来、貝守にもありますが、次のような伝説を残しています。『その昔、高貴な身分のお方が3人の娘と2人の強い武士を従えて戸来の地に落ちのびてきました。おりしも戸来の西方にある奥嶽に何者とも知れぬ魔物が棲息していて、時折人里に出て来て農作物を荒らしたり、良民に害を加えるなどして、村人たちは困却していました。このことを耳にした武士は、「その魔物を征伐して村人に安心してもらおう」と、羽井内の大石神で西方に聳える大嶽の神に祈願をかけ、魔物の出現を待っていると、ある日の夕方、一天にわかに紫色の雲がなまぐさく大風雨となりました。「これは異なる臭気」と辺りを見渡すと、地鳴り振動を起こして何物とも知れぬ魔物がキバをかみならしながら出現。「時こそきたれ」と2人の強武士は魔物を切り伏せ、息絶えたりと見て、まず一安心と笑顔をかわした刹那に、何としたことか、確かに息絶えたはずの魔物の頭首が、近くの木陰にたたずんでいた3人の娘を、血だらけの大きな口と手でつかまえて逃げ去りました。魔物を切り伏せて村人の難を除いたことはよかったが、最愛の娘3人をさらわれては何としても悲しみと残念の極みであった。そこで落人はその拠点の西方高地の上にある大石神の頂上に座禅を組み、十和利山の神に対して、3人の娘の無事帰来を一心に祈りました。「魔物は追い払ったが、わが愛する3人の娘は国家の柱となり、永く国土を守るように」といいました。従者の柿本斉藤、大畑十郎兵衛勘由は北の平地を永住の地と定め、ひとりは大石神の地続きの平地に住み、大畑は谷を隔てて北方の平地に居を構えました。座禅祈願して3日目に長女は戸来、二女は西越、三女は貝守の地でそれぞれ発見され、産土神として村人は祀りました。』。これが即ち三ヶ所同名の三嶽神社由来で、西越の石段境内に建っているのは柿本斉藤と大畑十郎兵衛の武士像モデルが門番になっているとのこと。なお、別当が書いた幕末の由来記にはこの怪物について大蛇ではないかと表現しています。
平成24年8月16日に修復されています。
最後の石段と社殿前の鳥居。私の下調べでは、拝殿前の大鳥居は西越部落の氏子連中奉納、参道入口の赤い鳥居は田中部落の氏子連中奉納とありましたが、どうやら変わっているようですね。
随身門を振り返るの図。
御神木。
鳥居扁額には「三嶽社」。
厄払者による奉納が多いですね。
新郷村西越の三岳神社は神仏分離で倉稲魂命(農事の神)を祀りますが、古い伝えに、昔は三女神が祀られていて、一人は戸来に、一人は貝守に祀られるようになりましたが、旱魃に雨乞いすると必ず雨を降らせてくれると伝えます。しかし棟札では、三岳山蛇王権現とあり、竜神であるといいます。『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)にも次のようにあります…『(前略)明治の神仏分離にさいして倉稲魂命を祀る。古い伝えに、昔、三女神が祀られていて、一人は戸来に、一人は貝守に祀られるようになったが、旱魃に雨乞すると必ず雨を降らせてくれる。これはミタケのミが水のことであるし、雨を恵んでくれるから水の神であるとしているが、あてにならないと新撰陸奥国誌の編者は述べ、さらに「奉建立 安永五歳 三岳山蛇王権現諸願成就 丙申十一月中五吉辰 三戸郡西越村 別当市助」の棟札を載せ、蛇王は竜神であるから雨乞の御利益があるのだとしている。この二つの説は、吉野蔵王信仰の実際をあまりによく説明しているので驚いた。前に述べたように、吉野の水分神社の水神性、三女神の御子守神性、吉野山を取りまく川上三社(竜神)の水神性、みろく浄土としての吉野山、これらがはるばる青森県にまで伝播され定着しているのである。』
創建年代は不詳です。かつては三嶽山藏王権現と称しており、 神社設立の際、 三嶽神社と改称。昭和23年4月、無償にて境内地の譲与を受けています。元庭は西越部落の西方の高地で館山という山林地内の一角です。安永5年11月15日に移転。当神社については新郷村史にかなり詳しく掲載されていますのでそちらもご参照ください。
御祭神は宇迦之御魂命(倉稲魂命)、豊受大神。例祭日は8月16日。
拝殿蟇股。須佐之男命・八俣遠呂智ですかね。
木鼻。
海老虹梁。
手鋏も組物も派手です。
拝殿向拝神額。扉も派手です。
拝殿内は地味です…っていうより暗くて見えず。
長くなりましたので『西越三嶽神社(新郷村)~其之弐』へ続く…
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