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門付近にあった石碑4基。奥から1基目は出羽三山などの碑、手前左に2基目の卯辰供養塔、右に3基目の二十三夜・湯殿山碑、最も手前右側に4基目の金毘羅大権現碑。1基目は「種子(アーンク)」の下中央に「湯殿山三社大権現」、中央右に「熊野三社大権現」、中央左に「十和田山大権現」と刻まれており、右端に「慶應四戊辰」、左端に「三月八日施主當村中」とあります。2基目は「種子(キャ)」の下中央に「卯辰供養塔」、右には梵字下に「文化十三丙子天…(※下部は土中)」。3基目は上に右から日輪・月輪、中央に「二十三夜湯殿山」が併記され、その下に2つを併せて「塔」と刻み、右下に小さく「文化十三丙子年」とあります。4基目の金毘羅大権現碑は「慶應四戊辰三月十日當村中」と刻んでおり、1基目の2日後の紀年銘です。つまり2基が文化13年、52年後の明治を迎える年の3月に残りの2基が建てられています。
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是川の清水寺観音堂。清水寺(せいすいじ)と読みます。真宗大谷派。御本尊阿弥陀如来。八戸市内では八戸藩成立以前からあった古寺で糠部郡三十三観音霊場二番札所として広く信仰を集めています。
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住所は青森県八戸市是川中居。「国指定史跡 是川遺跡」「是川縄文館・八戸市縄文学習館」の近くです。かつての是川村で、寺は真宗大谷派の楞巌山清水寺と真言宗豊山派の八鳩山福善寺があります。清水寺本堂の西には清水寺観音堂があり、天正9年(奉為造栄一宇堂依立願也八戸新田之名跡十代左馬介政盛 天正九辛巳五月吉日※新田左馬介政盛は根城南部氏の一族。)および慶長18年の棟礼を所有。糠部三十三観音の第2番札所とされ、間口3間・奥行3間からなる単層・宝形造の同堂は室町時代後期に建てられた東北地方北部の中世式仏堂として貴重な事から棟札(天正5年・慶長18年・貞享3年)と共に昭和55年1月26日に国指定重要文化財になっています。館前には新山神社があります。※令和3年5月10日に当観音堂に保管されていた板木に記されていた文言が434年前の落書きであり、その内容は「形見の歌」などであったことが明らかになりました。この板木は観音堂の壁板に書かれたものが再建の際に使用されず、板木のままの状態で保管されていたものと考えられています。ちなみにこの板木はこれまで清水寺に奉納された順礼札とされていました。内容は「書きおくも<形見>になれや筆の跡 我はいづ<くの土と>なる<らん>」(<>内は欠落により推定)。当時は神社仏閣にらくがきをすることは当たり前のように行われており、参拝者が各地の観音堂の壁板に信仰心に基づく願いなどをらくがきしていました。形見の歌は自分が生きた証しとして文字(和歌)にしたもので、日本最北の形見の歌のらくがきである可能性があります(これまで確認されている中での日本最北は山形県天童市の国重文「若松寺観音堂」のもの)。板木は松材で143.5cm×22.8cm、厚さ2cm。天正15年との墨書きあり。また、2首あり、同じ人が書いたかは不明ですが「恋の歌」も記されています。内容は「日に千度思ふと君にしらせるや我が思ふ君をば<ただひとりのみ>」(<>内は欠落により推定)。
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山門。
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手水舎。
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よく見えませんが阿弥陀三尊かな。
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敷石以報謝禮(大正13年5月)紀年碑。
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鐘楼堂。
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梵鐘。
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石灯籠一対(明治42年)。
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京都東本願寺を本山とし、山号は楞厳山。境内には清水寺観音堂が本堂の奥の杉木立の中に鎮座。
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草創は平安時代に天台宗の高僧慈覚大師(円仁。第3代天台座主、入唐八家。)によるとの伝説はありますが定かではなく不詳。開山は月秀という名僧とされます。
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開山当初は天台宗に属していましたが、藩政時代には真言宗へ改宗、その後天台宗に復帰。明治2年に真宗大谷派となり現在に至ります。
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清水寺は元来、観音堂を守るために建てられた別当寺でした。別当は代々世襲とされています。
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境内背後にある清水寺観音堂は県内最古の木造建築で、鎌倉時代に中国から伝わった禅宗様式を主に用いて造られています。現存する棟札から新田城主十代新田左馬政盛が天正9年(1581)に造営したとされます。一方、宝暦4年の清水寺境内書上申渡帳には熊野信仰に関わる諸堂が見えるため、熊野修験による建立とする考えもあります。
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本尊はかつて千手観音(伝慈覚大師円仁作。※盗難により現在不在)としていましたが、現在は救世観音菩薩を安置。他に木造天部立像や馬鳴(めみょう)菩薩を祀ります。木造天部立像は四天王の一つ多聞天あるいは単独で毘沙門天の可能性が指摘され、県内最古となる平安時代後期の彫像と判明。馬鳴菩薩は菩薩が馬に跨る形像。中国の民間信仰に由来し、貧窮の人々に衣服を与えたり、養蚕機織の菩薩として祀られるといいます。また、産馬育成祈願などの絵馬(51枚(寛文8年-明治初期)・市指定文化財)も奉納されています。
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本堂の脇を通り…
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清水寺観音堂へ。
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本堂裏手。
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巨木に囲まれていました。
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手水石。
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墓地前手水石。
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参道。
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石灯籠(文政元年7月17日)。
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池。
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観音堂前石灯籠一対。
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清水寺観音堂。三間四方の宝形造りで茅葺き屋根。昭和56年から58年にかけて、八戸工業大学の高島成侑教授が中心となり全面的な解体修理工事を行い、創建時の姿に復元されています。また、当時の発掘状況によりますと、小さな建物ながら礎石を置き、その上にケヤキの円柱を立て、更に上部をすぼめる粽の技法を使用しているのが特徴とのこと。また、写真を忘れましたが、廻縁に座棺輿(ざかんこし)が残されているようです。座った姿勢で遺体を埋葬した土葬医大に棺を運ぶのに使われました。
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観音堂内。
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上記の説明では救世観音菩薩と説明しましたが、千手観音菩薩立像が見えます。昭和23年に盗難にあった千手観音は見つからず、新たに木彫千手観音立像を安置したそうです。横に見えるのが救世観音菩薩でしょうね。
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両脇の菩薩像など。平安仏の天部立像(高さ73cm、ヒバ材、平安後期、地方制作※多聞天か単独像の毘沙門天の可能性が高いといわれています)は現在本堂に安置。
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清水寺観音堂(重要文化財・昭和55年1月26日指定。附棟札三枚(造栄天正九年辛己五月吉日の記があるもの1枚、再興慶長十八暦癸丑仲冬吉辰の記があるもの1枚、貞享三丙寅天潤三月拾五日の記があるもの1枚))…『清水寺は、平安時代の天台宗の僧慈覚大師草創の由来を伝えているが定かではない。しかし、この観音堂が天正9年(1581)に建立された県内最古の木造建築であることや八戸藩成立以前の古文書を伝える市内でも古い寺のひとつであり、また、糠部三十三観音信仰第二番札所として多くの信仰を集めてきた寺である。古くは天台宗であったが、明治時代になってから浄土真宗に改宗した。この観音堂の構造は、三間四方の宝形造で、茅葺芝棟の独特の屋根を持ち、軒は二軒繁垂木である。柱は全て丸柱で上部をすぼめる粽という加工が施されている。各柱の上部は、頭貫、台輪でつながれ、その上に平三斗を柱上だけでなく柱間にも並べる詰組の手法を用いている。また、正面三間の桟唐戸は藁座で取付けられている。これらの技法は、鎌倉時代に中国から伝わった禅宗様と呼ばれる建築様式であり、内部もこの様式で作られている。この観音堂は、禅宗様の細部をもった正統的な中世式仏堂として東北地方北部の貴重な建造物である。建立以来何度も繰返された修理のため改変された箇所もあったが、昭和57、8年の解体工事により創建当初の姿に復原された。また、消火栓設備なども設置され、保存管理に万全を期されている。昭和59年10月八戸市教育委員会』
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