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紅灯の巷といわれた桐萩。
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公娼の街として開かれ、往時には十指に余る女郎屋があり、30名を超える娼婦がおりました。
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戦時中は統制のこともあり、賑わいはやや下火になるも、戦後の自由な空気の中で、公娼廃止の昭和33年までは城山側に女部屋、向側には飲食店が立ち並び、不夜城を思わせる雰囲気だったそうです。昭和33年から町並みは変化し、2度の大きな火災(昭和31年4月の三戸町役場留崎支所を火元とした火災で、旭樓からときわ樓まで類焼した所謂桐萩大火。その復興直後、昭和32年のよか樓を火元とする火災によりよか樓・松月が全焼。なお原因は女中のロウソクの消し忘れと推定。)もあって昔の面影はあまり残していません。
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明治以前の女部屋については不詳。当然遊郭はあったと考えられますが記録は僅かです。糠部五郡小史(明治23年)には「6軒あり、梅川樓、松葉樓、柳光樓、快運樓、時和樓、青木樓。娼妓34-35名」とあります。
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なお、桐萩は遊郭ができてから名付けられたもので、元は「切接ぎ」と云われていました。三戸城築城時の永禄年間(1560年頃)に現在の目時道の突端として延びていた今の城山を削り、梅内・泉山方面に通れるようにしたものです。本来は城防衛のための切通しでした。この切通しを切接ぎと呼んでいました。いつの頃からか遊郭ができて桐萩の文字を当てるようになります。安政4年の記録には「きり萩の与七」が三百文を出したとあり、桐萩の文字が明治以前から使われていたことは分かりますが、この記録と遊郭との関連は不明です。
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桐萩で早くから女郎屋として開業したのは「よか樓」です。昭和12年には左側に旭樓-福田樓-西花樓-山口樓-よか樓-松月樓-福徳樓と並び、更に福徳樓の奥には時和樓とみどり樓がありました。昭和20年には4軒(よか樓、松月樓、福徳樓、旭樓)が見え、女は10名に満たず。いくつかの飲食店もあり、「チャンス」などと呼ばれたカフェ兼ビリヤードなどもありました。昭和23年には隆盛を極め、桐萩入口には赤門が造られ女郎屋も急増。桐萩の賑わいも正しくは公娼によるものではなく、所謂赤線地帯です。赤線は昭和33年4月1日に売春防止法実施により消滅。この時期の桐萩には女の居る店、飲食店を兼ねながらの店が多く作られています。つまり赤線廃止後はバーやキャバレーという名のもとで私娼は生き残りました。つまり青線と呼ばれるものです。城ノ下側に、喜月、福徳、松月、よか樓、ときわ樓、えびす、西村、旭樓、末広など、桐萩側に、やよい、横綱、角力屋、池田屋、王将、菊水、ふじの屋などが立ち並びました。最も繁昌した頃でダンスホールなどもあったそうです。昭和40年代になると客足は遠のき、桐萩も廃れていきます。工夫された店もたくさんできましたが次第に消えていきました。函館屋、カトレア、ぜん、ともこ、黒猫、タンポポといった店などです。なお、桐萩とは場所が異なりますが、大きな料亭として蟹子沢の上に松の屋、鬢田に梅月がありましたが、いずれも廃業しており、梅月は取り壊され、当時を偲ぶものとしては庭の松くらいしか残っていないそうです。
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戦後の桐萩の女たちは10時に起床、午後早くに「城の湯」(赤門近くにありましたが焼失)に入り、午後5時に夕食をとり、その後化粧をして来客に備えるという生活でした。性病検査場は松月の向かいにあり、後には馬喰町の橋本医院で行われています。
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左側の建物が元松月樓。
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松月はかつての遊郭であり、後に旅館を営みました。
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松月の脇に金勢様があります。
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小祠と石碑が2基。
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傍らには石があり金勢大明神と刻みます。紀年銘は明治10年で「貸坐」の文字も見えます。常設の女郎屋が桐萩にできた頃と推定されます。
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その手前の石碑は残念ながら読み取れず。
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金勢様の祠。
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祠の大きさの割にはかなりの数が奉納されているのがわかります。
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個性的なものも。
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木札には「金勢大明神璽」とあります。
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遊郭の並びの向側。
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青線の名残です。
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上記にも出てきた「ともこ」の看板が残っていました。
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もちろん営業はしておりません。
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いかにもっていう感じの看板です。
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元福徳樓。
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3階建。
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現在は廃墟ですが、大変立派な建物です。
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階段の造りがいかにも遊郭。間違いないですね。廃墟のままになっているのがもったいないくらいの建物ですね。
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神棚に稲荷様も祀られていました。ちなみに不法侵入したわけじゃないですよ。窓ガラスが割れていて、道から中が見えるんです。
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その奥のみどり楼もかつての姿を留めているようですが、草木に埋もれている上に私有地のようになっていたので行っていません。
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