
秋田県仙北市西木町上桧木内字相内潟。あさり商店付近。

神社前の御座石。

御座石に一之鳥居があります。

御座石は湖畔にござを敷いたような平坦な岩場です。秋田藩第二代藩主・佐竹義隆公が、慶安年間(1648-1652)にこの岩場に床机を据えて田沢湖の景色を眺められたことから付いた名で、御座所の石(岩場)という意味です。




御座石の七種木と雨乞石。七種木は雨乞石を守るために、松、杉、桜、槐、えごの木、榛の木、梨の七種類の木が一株から自然に生えたものといわれています。

また、雨乞石は七種木のある柵の中にあります。この石を動かすと湖が荒れ、雷、風、雨になると言われ、昔から湖神を祀った石と言われています。高さは1m程で上が半円になった石です。前面には縦50cm、横25cm、深さ15cm程の長方形の穴が掘られています。穴は人工的なものであり、雨乞いの儀式に使われていたとも考えられます。写真は撮り忘れました。

案内板「七種木」より…『雨乞石(冊の奥)を守るために松・杉・桜・槐、えごの木、榛の木、梨の七種類の木が一株から自然に生えたものといわれている。神秘なそして静かで女性的な田沢湖は、ほぼ円形に近い陥没のカルデラ湖である。深さは423.4米と言われ神秘なまでの色を湛え、十和田-八郎潟-田沢湖を結ぶ三湖伝説の女主人公辰子姫を祀る御座石神社がある。何を言っても田沢湖の美観は、四囲山々の美しさもさることながら、水あくまで清く美しく魚族の住める湖にすることである。自然の美しさは自然でなければならない、日本人の心の糧である湖の美を護りたいものである。御座石の岸辺にウグイ(イダ、アカハラ、アカウオ、ハヤともいう)が群をなして遊泳している姿は見事なものです。5、6月ごろ産卵期には、雌雄の腹部に赤い縦線ができると湖水の色と相俟ってことさら美しい。満々と見ずを湛えた湖、魚の住む湖、若葉青葉の中から眺められる田沢湖にしたい。[北家義文]「朝きりや晴れゆくあとに釣小舟」朝もやにつつまれ、それがやがて消えるとき、御座石から潟尻を望むと水の色が七色の濃淡を表わし、南洋のあの美しさと同じである。人は誰れでも手ですくってみたくなる…それほどに美しい色彩である。ポッカリと月を湖に落し、御座石の鳥居の上に照る月の夜はかくべつである。湖畔は岩盤になっている。「罪あればまたぎ得ずちふさけいわをわれまたぎ得ず心あやしも」平福百穂。後ろむきで岩をまたいだところ、岩礁直下水深凡そ百メートル。御座石神社々務所』

石井露月句碑「秋と云ヘバ波打越しぬ御座ノ石」露月山人。医師であり、俳人でもあった石井露月(明治6年-昭和3年。川辺郡戸米村・現雄和町女米木出身)が明治42年の秋に御座石を訪れて詠んだ句です。句碑は昭和43年田沢湖一周有料道路の開通を記念して建立されました。

石井露月句碑…『子規門下の四天王といわれた俳人石井露月(本名祐治、露月山人、南瓜道人と称す)は、明治6年5月17日、秋田県河辺郡戸米川村(現在、雄和町)に生れる。旧制秋田中学中退後上京、正岡子規に師事し、新聞「日本」の記者となる。医学を学び、医師試験に合格帰郷して開業する。その後子規の命名を得て秋田から「俳星」を創刊し、明治、大正の県俳壇に大きな足跡をしるした。この句は、明治42年秋、潟尻から御座の石に遊んだときのもので、このほかに、「コスモスや村の名問へば潟尻と」、「湖成りし神話も果てて天の川」などがある。「秋と云へば波打越しぬ御座の石 露月山人」平成元年10月西木村』

御座石の鳥居から御座石神社に向かうと途中で道路を渡ります。


御座石の鳥居を振り返るの図。

古くは山岳信仰の山であった高鉢山の麓に鎮座しています。

社号標「羽後之國 田沢湖畔 御座石神社」。

山中蘭径詩碑「日東第一深」。山中蘭径揮毫。昭和10年5月に角館町の医師佐藤順一氏らにより建立。「駒峯雲外頂 倒影在湖心 万頃瑠璃碧 日東第一深」(昭和4年)の一文。

御座の石の杉。

市指定天然記念物(昭和58年4月1日・旧西木村)。樹齢約450年。

手水舎とイチョウ。

手水舎。

御座の石の杉とイチョウ。奥は田沢湖。

石灯籠一対。


たつ子姫像。御座石神社を信仰すれば美と若さが益々輝くといわれています。

御座石神社境内にあるこの銅像(田中栄作氏の作)は、昭和56年に新潮社の新穂雅弘氏が奉納されたものです。他にあるたつこ像と異なり下半身が蛇体となっており、しかも顔は永遠の美を求めたことを後悔しているかのような悲しい顔をしているのが特徴。

たつ子姫像…『自らの身を湖に沈め、永遠の美と若さを祈願して龍に化身した「たつ子姫」は、美の守り神として「御座石神社」に永遠(とこし)えに鎮められたのです。古来湖水に斉戒沐浴して龍神「たつ子姫」を信仰すれば、その人の美しさ、若さは益々光り輝くと伝えられます。御座石神社』

恋占いの岩。

掲示板より…『白桃樹御守…江戸時代の頃より桃の御守が伝わっております。桃は邪気を祓う霊木を煎じて飲む御守でした。現在では、その裏面に御自分の名前を書き込み、祈り身につけ、または神棚等に納め、身にふりかかる病気・災厄を祓い退ぞける御守です。』

「たつこ姫」伝説…『一世の美人辰子姫は、己が美貌をいつまでも保ちたいと願いをこめ、田沢湖に永遠の湖神となったと伝えられている。たつこ姫がまだ湖の主にならない頃は、親孝行なとても働らき娘であった。相内潟には、自然石だが鏡のように磨かれた不思議な石が立っている。鏡石は、姫が冷泉に向かう途中で自分の姿を映したとされる石のことで、鏡などの無い時代のこと。辰子姫はその唯一の鏡石に向かって髪を結い自分の容姿を整え、ねんごろに化粧をした。龍神になる位の辰子姫であるから、それは普通の姫ではなかったであろう。その鏡石には或いは辰子姫でなければ写らなかったかも知れない。神秘をこめた鏡石、今尚古色蒼然苔蒸したまま、辰子姫の美しい容貌を秘める如く、湖畔の高鉢山の中腹に遺っているのである。境内建立の「美の守護神」たつこ姫像の眼差しは人々になにを語りかけようとしているのか。常に清々しく、瑞々しく、あたたかく見つめているのである。「たつこ姫」は鏡石に向かって髪を結い自分の容姿を整えねんごろに化粧をした…』

『田沢湖に来て御座石あたりを進んでいくなかで、体感した気分は「其の木の葉の色合と云ひ、其の木の芽の香ひと云い、何とも人間味ではない心地がする」「いわゆる清々しき心地とは」「此の神域の空気であろうか」「我が友よ、若し心身の洗濯を必要とする場合は、この神域に近づくことをすすめん。」』

国鱒育成祈願所…『国鱒は、江戸時代(1811年8月2日)に秋田藩九代藩主佐竹義和公が田沢湖を訪れた際、クニマスを食べ、お国特産の鱒ということからその名が付けられました。元来、最も水深(423m)のある秋田県の田沢湖にしか住まないとして、珍重されていましたが、昭和10年代、水力発電のため湖に酸性水を導入したことで、絶滅したとされていました。しかし平成22年、富士河口湖町の西湖で約70年ぶりに生息が確認されました。当祈願所では、田沢湖に国鱒が里帰りできるように「国鱒育成祈願所」として、生きた田沢湖、国鱒の復殖する田沢湖の再現を期しています。』

社殿。


拝殿向拝。

拝殿神額。

本殿覆屋。

御祭神は事代主神、綿津見神、龍神(辰子姫命)。佐竹義隆公の御巡覧を記念して、田沢湖畔春山の三之丞(現・鬼川三之丞)家が明治44(1911)年10月17日、湖畔田子の木集落の産土神の蛭子堂、大沢集落の産神の槎木明神など周辺の神社を合併し、現在の場所に移しました。記録では、最初に建てた時から3度目の移転になります。角館總鎭守神明社の兼務神社となっております。


神社庁によりますと『槎湖中勝地四所(蛭石、湖頭、白沙浜、御座石)の一であって御座石と称し、水面と等しく平坦な岩石で然も畳のような区画がある。上古より石標を立て当湖の主神を尊崇し幣物を献ず。文化8年8月領主佐竹義和公巡見の際社殿を建立し休息所と確定す。天保年中に至って、又官費を以て再建す。明治44年9月10日生保内村潟無格社蛭見神社・同村同字同浮木神社を合併し龍神社とあるを御座石神社と改称す。』とあります。

境内案内板「御座石神社」より…『【御祭神】事代主神、綿津見神、龍子姫神【鎮座地】秋田県仙北市西木町桧木内字相内潟一番地【御由緒】遠く往古より世に知られ、雅名を槎湖と云い、又辰子潟とも呼ばれている此の田沢湖の湖畔第一の名勝地に鎮座する当神社の由来は今より凡そ600年前室町時代に熊野権現を信奉する巡錫の修験者が此処を撰び湖岸に在る畳の如き平坦な岩頭に於て修業、湖主竜神に神通せんと水想観の蘊奥を究め一祠を創建して修験の座としたと云う縁起に因ると伝えられる。爾来霊顕あらたかにして、湖中に金物一切を禁じ、四季七種の木々生える神秘な雨乞石に手を触るる時、湖は荒び晴天忽ち雷風雨を呼ぶとされ、神威は此処に永遠えに鎮められたものである。古来湖水に斎戒沐浴して竜神を信仰すれば美人は益々美を増し、醜女悉く美貌になると伝えられる。千古の湖、神秘境鎮護の一宮として朝野の崇敬厚く由緒深い神域である。【主な御神徳】開運厄除、勝利成功、美貌成就【例祭日】8月10日』

境内御神木。


「ここから厄にむかって割玉を投げて下さい。厄をおとします。」


祈祷所。

中山菁莪先生頌徳碑。

「秋田藩名儒中山菁莪先生頌徳碑」「正三位勲四等侯爵佐竹義生題額」と見えます。

頑張れば読めそうな気もしますが…頑張りません。

「水みくじをひらいて水にうかべて下さい。文字がうかびます。」

中吉でした。

勲五等田口鐵藏顕彰碑。秋田県知事小畑勇二郎謹書。

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