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三戸郡階上町角柄折蕨。かつての角柄折村。地内の北東付近には往年ほろどの沼があり、伝説では大蛇が住んで村民をおびやかしたため討ちとられたといいます。大蛇は当地で角を折られ、耳ヶ吠で耳を切り落とされ、道仏で胴を切られたと伝え、大蛇を追って追って追い越したところが追越、胴の落ちていたところが大蛇という地名になったといいます。また、沼の主はサケであったともいい、討ちとられると沼の水は赤く染まり、7筋に分かれて川となったり、海や近くの川に流れこんだといいます。
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地蔵菩薩等。
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天明(4年4月1日)飢饉供養の塔。「天明飢饉 圓光禅定門 惣百姓無縁 塔」「献句 菩提寺に飢饉の墓碑や栗の花 幻人」(平成19年8月24日建立)
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石灯籠。
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山門(仁王門)。南部子爵邸(南部自治会館)裏門を移築したもの。
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仁王像。
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南無釋迦牟尼佛(當寺再興50周年本堂銅板葺替庫裡廣間改築記念・維持平成12年4月8日)。
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南無地蔵大菩薩(法興院浄信豊道禅居士為俗名豊藏17回忌・平成15年12月19日)。「深き縁ありて命を受け、未生のまま葬むらる。その数幾百千萬なるを知らず。願くは諸水子の霊、この地蔵尊の願力に依って、その苦しみを免れ、新生の喜びに浮かばれんことを」
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曹洞宗海潮山応物寺。本尊釈迦如来像(仏師は福島県の相沢城山)。両脇に大師像(道元禅師・瑩山禅師)。
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神亀元年(724)に行基が聖武天皇の祈願所として寺下に應物寺(寺下観音)を創建し観音像を刻み祀ったといいます。仁治3年に落雷があり焼失。僧江山がこの灰燼の中から観音像や寺宝を取り上げ、「応物寺廃頽の記」として記録に残し、脇侍の毘沙門天像の胎内に納めて応物寺再興を果たしたといいます。正徳2年に津要玄梁和尚が寺下に参詣した際にこの記録を見つけ出し、この地を中心に布教活動を展開。
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明治の神仏分離令により、明治4年に寺下観音潮山神社に分けられました。昭和22年4月、階上村長に就任した茨島豊蔵、柳沢熊次郎らが口火を切って昭和29年再興。
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境内では国指定重要無形民俗文化財となっている鳥屋部えんぶり組の奉納えんぶりが行われます。
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唐破風懸魚。
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蟇股・木鼻等。
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手鋏と虹梁がかっこいいです。
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手水石「杓底一残水汲流千億人」。
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寺務所。
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六地蔵。
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鐘楼。梵鐘は応物寺再興30周年記念(昭和55年4月8日)で「再興三十周年奉讃記念海潮山応物寺梵鐘鋳造記銘 臥牛の山の幸大洋の海の幸に恵まれ糠部三十三観音第一番の霊場寺下観音を中心として文化の花を咲かせた階上村に壱千二百五拾年前に行基菩薩の創建せるは海潮山応物寺なり然るに茲寺は風雪の侵す処となり廃寺となりぬ 三十年前壇信徒協力して蕨の地に再興せしが梵鐘の妙音を開かざるを憾みとせり 茲に当寺三世宏心和尚発願し再興三十周年を記念して壇信徒と共に大梵鐘を新鋳し新設鐘楼に泰安するに至る 拙衲和文の銘を依嘱せられ銘して曰く 偉大なる鐘音万里涛を渡る 日々牛声に和して正に豊穣を聞く 妙音段々海潮に響きて妙なり 遠音鏘々物と心に応じて一となる 慈光常に照らし天清くして地寧らかなり 仰いで悠久を願い稽首して銘を作る 維れ時に 昭和五十五年四月八日海潮山応物寺三世宏心代 本寺大慈寺二十世隆悦 謹んで銘を勤す 南無観世音菩薩」と刻みます。
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十三重塔。
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「迎火や祈る童女のほゝ照らす」(初代護持会長百谷庵古雪)。
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赤松。
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花月塔(正部家誠顕彰碑、昭和48年)「新緑や文化遺跡の一里塚 十世花月堂古光」。正部家誠は俳句結社臥牛会を設立した俳人で、社会教育活動や高齢者福祉活動に尽力した人物。
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『正六位勲五等 正部家 誠 行年76才 法名正誠院百星寶臺居士 明治29年5月27日階上村に出生大正6年3月青森師範学校を卒業爾来教育界に籍を置くこと36年昭和28年3月八戸小学校長を最後に教職を去る。その後は専ら社会教育活動に尽瘁し郷土階上村出身の八戸在住者をもって臥牛会を結成し推されて会長となり会の育成強化に努めまた昭和33年百働会八戸支部を創設しその支部長となり昭和47年7月6日故人となるまで高令者の杖となり老人福祉向上のために働くことに誇りをもち且つ喜びともされました他面若い頃より俳句を嗜み吉光と号し名門花月堂十世を継ぐに至った。一周忌にあたりその生前を偲び供養のためこれを建てる。 昭和48年7月6日』
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