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栃木県日光市本町。かつての四軒町。江戸期は日光門前西町の1町。四軒町は寛永年間に東照宮の楽人屋敷が四軒置かれたことに由来し、楽人町とも称されました。中世には寛喜3年山内仏岩から日光山の往生院及び墓地、応永年間には光明院の阿弥陀堂が移転され、いくつかの堂坊がありましたあg、寛永17年の町割の際にこれらは大工町に移転。東照宮鎮座後徐々に堂社の移転が始まっており、これらの跡地を中心に町並みが整備されたと考えられます。当町の氏神でもある青龍神社は、馬町に日光火之番屋敷が設置された承応年間に現在地に移転され、旧社地の前にあった池が埋め立てられたと伝えることから、この前後に付近の家並みも整えられたと考えられます。町内には東照宮楽人の他、日光目代山口氏の下僚、寛政以降は日光奉行配下の役人の役宅が多く、幕末期には社家1、楽人12、奉行配下役人15が居住。明治7年に日光町の一部となり、同年日光町、同22年からは日光町日光の通称地名。明治6年にカテッジイン、同24年には新井ホテルなどの外国人を対象としたホテルが開業。大正3年に旧日光目代屋敷跡に日光真光教会が建てられました。昭和19-22年に袋町と合併して田母沢町と称し、昭和29年日光市の町名、昭和44年本町となります。
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日光真光教会礼拝堂は大正3年(1914)建立(明治32年に木造で建立され後に建替え)。
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切妻、石積スレート葺き、石造(大谷川産の暗赤色の安山岩による乱石積)のゴシック式建築。
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開口部は曲線を採用していますが華美な意匠がほとんどなく重厚的でありステンドグラスが異彩を放ちます。屋根構造にはシザーストラスを採用。
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昭和57年に栃木県指定重要文化財。
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設計したジェームズ.M.ガーディナーはアメリカ人の宣教師であるとともに建築家で、築地居留地の立教大学校で教鞭をとり、その後は京都聖ヨハネ教会教会堂(明治村:国指定重要文化財)、弘前昇天教会教会堂(青森県弘前市:青森県重宝)、聖アグネス教会(京都府京都市:京都市指定有形文化財)など数多くの教会建築を手懸けています。
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日光は明治時代から避暑地としても知られており、ガーディナー師、マン婦人宣教師によって教会の礎が築かれました。
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ガーディナー師は自身の遺言によりこの教会に埋葬されており、礼拝堂床下には、ガーディナー師、妻フロレンスの遺骨の他、長女のハスノハナの結婚指輪や愛犬の遺骨も納められているそうです。
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ステンドグラス。
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外観。
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鐘塔は三層になっていて、上階まで昇れますが鐘は最初から用意されていません。
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案内板「栃木県指定有形文化財(建造物)日光真光教会礼拝堂」より…『所有者:日本聖公会北関東教区日光真光教会。昭和57年8月27日指定。明治・大正期において米国人建築設計家、宣教師、教育者として日本に大きな足跡を残したJ・M・ガーディナーの晩年の秀作で、大正3年に建築された礼拝堂である。構造は、石積スレート葺のゴシック式建築であり、外壁面は大谷川から採取した安山岩の乱石積で、内壁は鹿沼石の平張りである。東壁面上部のキリストの変容を描いた桜花形のステンドグラスと、西壁面上部の12面のステンドグラスが唯一の彩りで、簡素な中にも清楚な落ち着きをもつ洋風建築物である。ガーディナーの関与した建築物には、明治40年に建築された重要文化財の京都聖ヨハネ教会(現在は明治村に保存)が有名であるが、この礼拝堂は石造りの素朴な建築物として、ガーディナー建築の特色を示しています。』
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張り紙より…『日本聖公会北関東教区日光真光教会といいます。「日本聖公会」という教派は英国国教会系の教会で、イギリスにあるカンタベリー大聖堂やウェストミンスター寺院などと一緒に一つの世界的な宗教共同体を形成しています。そしてこの宗教共同体(The Anglican communion)は、カトリック教会(ローマ・カトリック教会)、東方正教会(オルトドックス-主に東欧に広がる教派)についで世界で三番目に大きなキリスト教の教派です。世界160カ国に7,000万人の信徒がいます。日本には江戸時代の1859年(安政6年)にまずアメリカより、そしてその後イギリス、カナダから聖公会の宣教師が派遣されて宣教がはじめられ、1887年(明治20年)2月に「日本聖公会」の組織が成立しました。日本聖公会は信徒数約32,000人で、日本全国11ブロック(教区)の中に約300の教会・礼拝堂・伝道所があります。また、これらの他に、神の愛に根ざした教育・医療・社会福祉にも力を注ぎ、立教大学、香蘭女学校などの多くの学校や聖路加国際病院をはじめとする病院、医療施設や大磯エリザベスサンダースホーム、清里清泉寮、その他200以上の社会福祉施設等の働きを通して社会と人々に日々奉仕しています。ここ日光の地で初めて聖公会の礼拝が行われたのは、1875年(明治8年)の8月で、日光見物に来た外国人聖職と、通訳として同行し後に聖職となった当時の日本人学生の二人が中禅寺湖畔の宿屋の二階で聖餐式を行ったという記録があります。そして、明確な年代は特定できていませんが、日光での宣教が1890年(明治23年)の宇都宮・日光間の鉄道開通以前に開始されていたことは確実です。この私たちの日光真光教会の建立に特に関わりの深いのが設計者であるJ.M.ガーディナーです。ガーディナーは米国聖公会から派遣された宣教師で、立教学校(現在の立教大学)の校長を務めた教育者であり、日本各地の教会堂や学校施設、大使館などの設計を手がけた建築家でもありました。当時、避暑地として多くの外国人が集うようになった日光では、教会の建立が求められました。1899年(明治32年)には、ガーディナーによって現在地に程近い西参道付近に木造の礼拝堂(名称は「変容貌教会」)が造られ、日光で最初の洋風建築として有名でしたが、それも手狭となったためか現在の場所に石造りのこの教会堂が建てられ、1916年(大正5年)8月6日に「日光真光教会」として聖別、献堂されました。建築様式は重厚な印象のゴシック式建築で、ガーディナーの晩年の代表作です。外壁は近くを流れる大谷川、稲荷川より採取された安山岩の乱石積みで、内壁は板橋石の平張りとなっています。屋根を支える梁はシザーストラストが採用されています。簡素で落ち着きのある中に、聖壇上部のラファエロ・サンツィオによる絵画作品「キリストの変容」をモチーフとしたステンドグラスが目を引きます。また聖堂西側の四人の福音記者とキリスト教諸聖人のシンボルのステンドグラスも見応えがあります。現在この礼拝堂は栃木県の有形文化財として指定されています。何故、このような決して大きくない中にも意匠を凝らした立派な教会堂がこの日光に建てられたのでしょうか。その理由としてガーディナーに、世界的に有名な史跡のあるこの地にあって西洋文明の象徴でもあるキリスト教の教会がそれらに負けないものを、という自負があったのでしょう。また一方では、彼が日本、ことにここ日光を大層好んだということ、その思いがこの教会堂に込められていたのだ、とも言えるでしょう。それは、ガーディナーが愛妻フローレンスと結婚する前にその愛を深めたのもこの日光だったから、とも考えられます。そのことは、彼の遺言によって、この礼拝堂の聖書朗読架前の床下に1925年に没したガーディナーの遺骨とその後に亡くなったフローレンスの遺骨とが並んで納骨されていることからも伺うことができます。ガーディナーとフローレンスのロマンスのゆえか定かではありませんが、当教会では毎年多くの方が結婚式を挙げ、永遠の愛を誓われます。当教会では、信徒でない方でも挙式を希望される方のご相談をお受けしております。お気軽にご相談ください。また、この教会のことや教会の属する日本聖公会のことなどについて、お知りになりたいことがございましたら、どうぞ教会の方にご質問ください。』
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