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一之鳥居前にあるイチョウの木。立派な巨木ですが特に案内板などはありませんでした。
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かつて新羅神社が山上から麓に遷座した際に植えられたものとも云われており、一之鳥居よりも目を引く大きさです。東北巨木調査研究会HPによりますと「仙ノ沢のイチョウ」(幹周7.5m)として紹介されていました。
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十和田市奥瀬字北向。新羅神社の鎮座地は新羅三郎義光の館跡とも言われています。元和7年の奥瀬内蔵宛知行証文によりますと、同氏は奥瀬城廻り459石余ほか、深持・川口・中里・森原など11ヶ所340石余、計800石を知行地として宛行われています。城廻りは元来奥瀬氏の領地であったもので、元和6年の検地をもとに近隣の新田分を加増され、奥瀬村及び深持村・法量村の地域を知行地としていたことがわかっています。但し、江戸前期には後の奥瀬・深持・法量の3ヶ村域を奥瀬村1村として把握していたと考えられ、延宝7年御検地小高帳に「延宝六年戌午三月三日より改、七戸法量深持分ル」と見え、当村は五戸通と七戸通に分けられました。七戸通奥瀬村として分村した地域は更に深持村・法量村とに分かれていきます。この2ヶ村はその後も七戸通奥瀬村と把握されることがありました。寺社としては実道山浄円寺、新羅堂、楢崎村観音があり、当新羅神社はこの新羅堂にあたります。鹿角日誌によりますと、神社は新羅神社と十和田神社があり、新羅神社は「祭神新羅三郎義光ノ霊、神体ハ鏡ト矢ノ根ナリ、建久二年ノ勧請ト伝フレトモ其由来ヲ詳ニセス」とあります。
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大雨の中、参道を進みます。
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最初は山道を進む感じで距離が想像できませんが…
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すぐに五湾馬頭神社の社殿が見えてきます。
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五湾馬頭神社後方に新羅神社が見えていますが、正面参道ではありません。
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五湾馬頭神社。由緒等は不明です。
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鳥居扁額の紀年銘は平成8年9月と新しいものでした。
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あらためて正面参道へ。
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参道石段の石灯篭一対。大雨のため紀年銘等確認していません。
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二之鳥居。
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石灯篭一対。
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大雨のため紀年銘等確認していません…かなりの大雨なんです笑
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一応…手水舎かな…いずれにせよ水道より雨の方が勢いあるので今回は清めません。すいません。屋根がないと無理な状況でございます。
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御祭神は新羅三郎義光。古くは山上に鎮座していましたが、現在は麓の新羅三郎義光の館跡に祀られており、奥瀬館の館神ともいわれています。また、中世南部四十八城の一つ沢田城の南を守る神社となっています(東:八幡宮、西:才ノ神、北:神明宮)。火災により古文書、史料等を喪失しており創建不詳(建久2年創建とも伝えます)。県内においては最も古い新羅神社であると伝え、八戸や南部町の新羅神社は当神社から勧請されたものであるといいます。
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青森県神社庁HPによりますと…『慶長年間後陽成天皇治世12年(1607)甲斐の国より小宮山内善故有りて、此地に趨向小祠を草創神霊を奉祀せるに起因する。延宝10辛酉年府君奥瀬治大夫善定再興。明和8年奥瀬定職公の命を拝し遷座導師現大僧都尚純稲荷大明神を合祀。文化5戊辰年奥瀬内藏崇儀公武運長久諸願成就の為本社及御内社を建立。毎歳五石を賜る。嘉永年中山火に遇し災焼。嘉永6癸丑年再築成る。昭和25年3月31日国有境内地の譲与許可される。』とあります。
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拝殿の斗供、唐破風懸魚・向拝虹梁・持送・蟇股。
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木鼻・海老虹梁・手鋏。
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拝殿神額。
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拝殿脇障子(獅子の子落とし風)。
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拝殿向拝にあった馬の絵(昭和56年12月吉日奉納)。逞しくも可愛い馬の絵でした。
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拝殿内。かつて十和田市奥瀬に鎮座していた八幡神社、蒼前神社、金精神社、稲荷神社の4社が明治6年4月に合祀されています。ちなみにこの4社は古くから鎮座していたと伝えますが、いずれもその由来縁起は不詳です。
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幣殿・本殿。
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社殿横にも小さな鳥居がありました。
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額束には「新羅神社」とありましたが、神社の先には特に何もありません。もしくは参道が整備されていないだけでこの先に何かあるのかな。
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雨もかなり強く降っておりましたので、境内にあった末社と思しき残骸が、かつてはここにあったと自分に言い聞かせて、これ以上の散策はやめておきました。
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